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『君に逢いたくて』④

「絶対、電話がかかってきても出ないこと!!」 ——帰りのタクシーの中で、早苗が何度も繰り返し言った。 夏姫から電話番号の交換を持ちかけられた奏。 早苗はその場で紙を取り上げ、奏からは連絡がつかないように始末したが その日の夜、奏と響が如月邸で過ごしている時に電話がかかってきた。 「——知らない番号だ」 奏は、固定電話の液晶画面に映し出されている番号を見て言った。 「もしかしたら夏姫さんかもしれませんよ」 響が言うと、 「出た方がいいかな?」 と奏が尋ねた。 「……出た方が相手も喜ぶんじゃ?」 「出た方がいいって言ってるんだよね?」 「まあ、はい」 そう響が返したことで、奏はようやく応答ボタンを押した。 「はい」 『もしもし!奏くん!?』 「はい」 『あたし!ナッピだよ!今日はありがとー!』 響の耳にも、電話口から夏姫の声が漏れ聞こえてきていた。 『早速なんだけど、二人でゴハン行こ!』 「ゴハンなら、家で食べるからいい」 『いつも家で食べてるの?』 「うん」 『たまには外で食べたいと思わない?』 「思わない」 『……じゃ、代わりにカフェは? あたし、美味しいオペラのお店調べたんだぁ』 「オペラ?」 奏はその言葉に反応した。 『今日、表参道と原宿で撮影したじゃない? オペラのお店は青山にあってね、今日撮影したカフェからも徒歩で行ける距離なの。 だからさ、今日のカフェの前で待ち合わせして、一緒にオペラ食べに行くのはどうかなって』 奏は受話器から耳を離すと、声のボリュームを落とすこともせず、隣で見守っていた響に話しかけた。 「オペラ食べに行こうって言ってる。行った方がいい?」 「ちょっと、奏さん……!?声、声……っ」 響は慌てて「しーっ」と指で合図すると、 「『行く』って答えるのが、良いと思いますよ」 と小声で返した。 「……『行く』」 奏は再び受話器を耳に当てると、夏姫に対してそう返した。 「やったぁ!じゃあ明日14時に待ち合わせね! 楽しみにしてるー!じゃねっ」 明るい声の後、通話が終了した音が流れる。 「——そうだ」 奏は受話器を置いた後、ふと思い出したように顔を上げた。 「響ってオペラ食べたことある?」 「オペラ……ないかもしれません。でもどうして?」 「オペラ、美味しいよ。響も食べてみて」 「じゃあ今度、ケーキ屋さんに行く機会があったら探してみます」 「明日、一緒に来なよ」 「……えぇ……!?」 響はブンブンと首を横に振った。 「それはダメですよ! デートのお誘いなんだから!!」 「でも、オペラが美味しいお店に行くって」 「じゃあ後日、俺も一人でそこに行ってみますから」 「後日?なんで一緒じゃダメなの」 「……奏さん。デートしたことないんですか」 まさか冗談かと思っていたけど 加納さん、学生時代にも奏さんが誘われた時に全部予定を潰していたんじゃ—— 響がそう考えて顔を青ざめていると、奏からあっさりとした答えが返って来た。 「あるよ」 「えっ」 「デートって、二人で出かけるやつでしょ? それなら学生時代に何度も経験してる」 「なんだ、そうでしたか……。 ——ん?じゃあ、これも俺がついて行ったらマズイって分かりません?」 「夏姫……だっけ? 今の電話の人、別に二人で出かけたいなんて言わなかった。 『サツキがついて来るのはダメ』なんてひと言も言わなかったよ」 「そりゃあ夏姫さんだって、奏さんが他の誰かを連れてくるなんて夢にも思わないでしょうからね」 「そうか……『普通の感覚』って、そういうものなんだ」 奏は噛み締めるように、一人で頷いた。 「じゃあ、一人で行ってくる」 ——翌日、奏が一人でタクシーに乗り込むのを響は見送った。 それから十数分後、入れ違いで早苗が訪ねて来た。 「そーちゃん、家いる!?」 チャイムが鳴り、響が玄関へ出迎えに行くより早く、合鍵で中に入って来た早苗。 「今、ちょうど外に出て行きました」 「何しに!?」 「……夏姫さんとケーキを食べに……」 「一足遅かったか! ——なんで引き留めなかったのよぅ!?」 早苗が響の襟元を掴んで言った。 「い、痛いです……」 「あの女、行動が早すぎるわ。 昨日会ったばかりの男をデートに誘うなんて! ……私達も行くよ、サツキくん!」 「ええ……!?」 響は呆れたように、襟元から早苗の手を放した。 「デートの邪魔をするつもりですか?」 「そうよ。悪い?」 「やめましょうよ、そういうの」 「じゃあサツキくんは、そーちゃんに彼女が爆誕してもいいわけ!?」 むしろ女性と付き合うことで、相手の機微に気づいたり、言動から本心を察することができるようになったら 奏さんがわからなくて悩んでいるという『他人の感覚』も掴めるようになるんじゃないか。 そしたら俺と奏さんの対話も、今よりもっとスムーズに行くようになるかもしれない。 それなら奏さんの悩みも解消されて、俺も快適な同居生活を送れるようになるのだから一石二鳥だ。 ——響がそういったことを早苗に話すと、早苗は「正気ィ?」と口にした。 「あなたそれでいいの? そーちゃんに彼女ができて、家にも連れ込むようになったら あなたが気まずくなるとか考えないの?」 「家に遊びに来たら、俺も挨拶しますよ。 もしくは邪魔にならないよう、俺が家を空けてもいいですし」 「あなたが良くても、私は嫌よ。 ふらっと寄った時に、メスの顔をした女と出くわすなんて!!」 早苗は、額に手を当てて項垂れている響に 「ねえ、どの店に行くかは聞いた?」 と尋ねた。 「いや、青山にあるオペラの美味しいお店としか……。 なので俺たちが奏さんたちと合流するのは無理ですよ」 「青山の、オペラが美味しいお店——カフェ・フルールね!!」 「……加納さん、怖い」 「芸能界でジャーマネやってる人間の情報力を舐めないでくれる? さ、オペラ奢ってあげるから行くわよっ!」 ——結局、早苗を引き留めることはできず、かと言って一人で行かせてしまうのは危険だと判断した響は、渋々早苗と共に青山までやって来た。 カフェ・フルールに入ると、窓際の席に華やかな雰囲気を放つ男女が座っているのが見えた。 「ね、あの席の二人って芸能人かな? この辺り、芸能人よくいるしさ」 「女の子の方って読モの夏姫じゃない? 今度始まる恋ドラの主題歌を歌うらしいよ」 「え、夏姫って『アネモネ』のナッピちゃん? へー、芸能人でもこういうお店でフツーにデートとかするんだね。 相手の人は誰だろう?」 「男の子の方は私も知らなーい。 でも美男美女でお似合いだよね」 響と早苗が入り口で受付を待っていると、 入り口近くの席に座る女子グループが、そんな噂話をして盛り上がっていた。 「お待たせしました。 店内奥の席が空きましたのでご案内いたします」 店員がやって来て、響たちを空席に案内しようとすると、 「あ、知り合いと待ち合わせしてるんですぅ」 と早苗がにっこり微笑んだ。 「あの窓際に座ってる二人がそうなんです。 さ、行きましょ!サツキくん」 「……はぁ……」 早苗に連れられ、響も仕方なく後に続く。 窓際では、楽しそうに話す夏姫の姿があった。 「——でねっ。ウチのマカロンが可愛くてねっ」 「マカロン……は、フランス発祥の焼き菓子だっけ」 「あははっ!マカロンは我が家のワンちゃんの名前だよぉ。 さっきケータイで写真を見せた子!」 「ああ、犬。お菓子が可愛いって話かと思った」 「奏くん、天然って言われるでしょ? 私も天然系だから、お揃いだね!」 「自分で自分を天然系っていう子は、養殖系なのよぉ」 夏姫の背後から、低い声が響く。 「マネージャー」 奏は、夏姫の後ろに立っている早苗の存在に気がついた。 「……あれ。結局、サツキも来たの」 「どうも……」 響はバツの悪そうな表情で頭を下げた。 「えっ?マネージャーさん? ——あっ、昨日撮影場所にいた人だぁ!」 夏姫は振り返って見上げると、早苗の顔を見てにっこり微笑んだ。 「こんにちはぁ。今日は奏くんを借りちゃってます!」 「貸したつもりはないのよ?そーちゃんはモノじゃないから」 「マネージャーさんも、彼氏さんとデートですか? 同じ店で会うなんて、すごい偶然ですね!」 「デー……!?」 早苗が否定しようと口を開きかけたところで、響が慌てて言った。 「そ、そうです!俺たちもデート中なんです!!」 デートの邪魔をしに来た、などと夏姫に言うわけにはいかず、響がそう言って誤魔化すと、奏は不思議そうに首を傾けた。 「……マネージャーと、サツキがデート?」 「とりあえず、偶然会えたのも何かの縁だし、四人で座ってお喋りしましょ? ちょうどこの席、4人掛けできるし」 早苗が精一杯の作り笑顔を貼り付けて言うと、夏姫はにっこりとこう返した。 「ごめんなさーい! 今日は奏くんとの初デートなんで、ダブルデートはまた今度しましょ!」 「なっ……」 「それに——プライベートまで仕事仲間の人が近くに居たら、奏くんもリラックスできないんじゃないかなあ?」 「っ、あのね?私とそーちゃんは仕事仲間ってだけの薄い付き合いじゃなくてね——」 「あと、ほら!やっぱり世代が違うと話す話題も違うじゃないですかぁ。 私、あんまりおばさま世代とお話しする機会がないんで、なんだか緊張しちゃう……っ」 「おば——!?」 早苗が激昂しかけたところで、響が早苗の口を塞ぎ 「それじゃお二人とも、ごゆっくり!」 と言うと、早苗を引き連れてその場を離れた。 「私っ、まだ24よォー!? おばさんじゃないもんー!!」 ——結局何も注文せず、そのままカフェ・フルールを出て来たところで、早苗がさめざめと泣き出した。 「落ち着いてください……!」 「だって!24なのにィー!!」 「加納さんは若いし美人ですよ! でも、あんな風に喧嘩腰で行ったら、そりゃ相手だって挑発し返すに決まってますよ!」 「私を挑発するなんて生意気だわっ! 私だってねえ、夏姫と同じ10代の頃なんて 黙って外を歩いてるだけで沢山ナンパされたんだからーっ!」 「……ああもう」 響はくしゃくしゃと頭を掻くと、ポケットからハンカチを取り出し、マスカラの取れた早苗の目元を拭ってやった。 「加納さん。加納さんにとって奏さんが家族のような存在ならば、家族の幸せを願うのが家族としてあるべき姿じゃないですか? 恋愛して、楽しい時間を過ごすことで奏さんにとっての幸せが増えるなら、喜ばしいことだと思いましょうよ」 「でもぉ……、あんなのが将来義妹になったらイヤじゃない?!」 「そもそも加納さんは本当の姉ではないので、縁者になるかもとかの心配はしなくていいですよ」 「サツキくん、ひっどーい!!」 早苗は、ブルーのハンカチがマスカラで黒く染まるまで泣くと、やがてすっきりしたのか顔を上げた。 「もういい。私、事務所に行って仕事する」 「今から仕事ですか?」 「ほんとはデートの妨害のために有休取ってたけど、失敗したし残りの時間がもったいないから出勤するわ」 「妨害のために有休……凄まじい執念だ」 「私は何事にも全力なのよ。 今日という一日を失敗だけで終わらせないよう、無駄なく効率的に残りの時間を費やすわ」 その心掛けは本当に尊敬するけれど、そういったガッツは仕事にだけ注いでくれたらいいのにな—— 響はそんなことを思いながら、早苗と別れた。 加納さん、美人で仕事もできるのに本当にもったいないよな。 奏さんのことが恋愛対象じゃないのなら、そこまで奏さんの行動を監視しなくたっていいのに。 そのエネルギーで、別の男性と恋愛したらいいのにって思うけど…… 俺には分からないだけで、加納さんも思うところが色々あるのかもしれないな。 俺は奏さんと暮らし始めて数ヶ月程度の関係だけど、加納さんはもっと長い年月を共に過ごして来たわけだし。 たとえ恋愛感情じゃなくたって、独占欲のような気持ちは湧き出てくるものなのかもしれないな。 俺はまだ、そこまで一人の人間に執着したことはないけれど。 ——本当に、そうだろうか? 歩きながら思考していた響は、ふと立ち止まって思い直した。 独占欲とは違うけど、一人の人間に執着した経験ならばあるじゃないか。 幼い頃から、素晴らしい音楽を生み出す才能を持ったその人に憧れて、 その人が亡くなった時には世界も同時に終わったかのような衝撃に襲われて…… 長い間、思い焦がれてきた相手。 作曲家・如月奏に対して十年以上執着してきたことを、俺はこの数ヶ月の間ですっかり忘れてしまっていた。 夜、奏が家に帰ってきた。 「おかえりなさい」 響が出迎えると、奏はどこか浮かない表情で「ん」と返した。 「夏姫さんとのデート、楽しかったですか?」 「……ん」 そう返事をする割には、どこかつまらなそうな顔のまま、奏は手に持っていた箱を響の前に突き出した。 「はい」 「何ですか、これ?」 「オペラ」 「え……?」 「何も注文せずに店、出てたでしょ。 テイクアウトできたから、サツキとマネージャーの分、買って帰ってきた」 「……ありがとうございます!」 響は礼を言いつつ、早苗は仕事に行ってしまったことを伝えた。 「そっか。それ、消費期限が今日までらしいから、マネージャーには渡せなさそうだね」 「ですね……」 「じゃ、マネージャーの分は俺が食べる」 奏は、シャワーを浴びて部屋着に着替えてくる間に、オペラを箱から出して皿に乗せて置くよう響に言った。 奏さん、俺と早苗さんの分のケーキもお土産に買ってくれたんだ。 俺が作ったご飯なんて、気に入ったおかずは俺の分まで平らげてしまうような人なのに…… 響は、奏が見せた気遣いに面食らってしまった。 だが、それと同時に——嬉しいという気持ちも芽生えた。 「——皿に出しといてくれた?」 「はい。紅茶も用意しておきましたよ」 奏がバスルームを出たドアの開閉音を合図に、響はオペラの乗った皿と紅茶の入ったカップをテーブルに二つずつ並べた。 奏が椅子に座って紅茶に手を伸ばしたため、響もオペラにフォークを通した。 「……美味しい」 響は、初めて味わうオペラケーキに思わず頬を緩めた。 「俺、ケーキって誕生日かクリスマスにしか食べないんですけど。 そういう時に食べるのって大抵苺の乗った、どこのケーキ屋さんにも置いているようなやつで……。 オペラは初めて食べましたが、チョコクリームやコーヒークリームが何層にもなっていて、トップには金箔が乗っていて見た目にも綺麗だし、層ごとに違った味わいを楽しめて気に入りました」 響が感想を述べると、奏は自分もオペラを一口食べた後に言った。 「……誕生日やクリスマスにはケーキを食べるものなのか。 また、俺の知らないことをサツキから教えてもらった」 「あ……」 そうか……奏さんはご両親が離婚して、母親も逮捕されているから、記憶のある中学生以降のほとんどを一人暮らししてきたんだっけ……。 俺の常識で語ったりして、申し訳ないことをしてしまったな—— 「奏さん、ごめんなさい。今のは——」 「そういえば、今気づいたことなんだけど」 響が謝ろうとした時、奏がそれを遮った。 「気づいたこと?」 響がぽかんと口を開けると、奏はこう続けた。 「今日お店で食べたオペラと、今食べたオペラ。 どっちも同じ店で作られたケーキのはずなのに、サツキと今食べてるケーキの方が美味しいのは何でだろう」 「え……」 そんなことがあるのだろうか? 奏の話を聞き、響は首を傾げた。 「うーん……同じお店でも、ベテランのパティシエが作ったものと、新人さんの作ったものが混ざって販売されてる……とか?」 「でも、原材料は同じはずだよね。 俺、今日店で食べた時は、普通のケーキだとしか思わなかった。 でも今食べてるこれは、ちゃんと美味しい。 原材料が同じでも、作る人が違うとこんなに味に差が出るのか」 奏は、「知らなかった」と独り言のように言い、再びオペラを口に運んでいった。 響は確かに、なぜ味に違いが出るのだろうと暫く考えていたが、やがて弾かれたように顔を上げた。 「そうか!もしかしたら、お店では夏姫さんと一緒にいたから、緊張して食べ物の味がしなかったのかもしれませんね」 「緊張すると、味が無くなるの?」 「そうですよ!」 「俺、別に緊張してなかったけど」 奏があっさり言うと、響はめげずに自分の説を通した。 「でも……っ、気になる異性との食事って気を遣うだろうし、無意識に緊張していたのかもしれませんよ?」 すると奏は、帰宅した時に見せたような不機嫌な顔になった。 「……サツキにそういうこと言われるの、なんか嫌だ」 「え?……俺、何か気に触ること言いました?」 「『気になる異性と』って言い方。 俺が夏姫のことを、気になる異性だと思ってる前提で話してる。 俺、そんなことは一言も言ってないのに」 「……あ……」 しまった。 奏さんの言うとおりだ。 奏さんが夏姫さんとデートしたのは、夏姫さんから誘われたからだ。 そして俺も、二人が恋愛関係に発展したら良いんじゃないかと思って、背中を押した。 でも、奏さんの意思はそこに反映されてない。 奏さんが夏姫さんのことを気にいるかどうかは、奏さんが決めることなのに。 俺はまた、自分の主観を奏さんに押し付けてしまった—— 「……ごめんなさい。 俺、奏さんと夏姫さんが上手くいくと良いななんて考えていたせいか、 その願望を押しつけるような話し方をしてしまいました」 響が素直に謝ると、奏は少し考えた後、こう口にした。 「……サツキは……、俺が夏姫と上手くいくことを望んでいるの?」 「え?……はい、まあ……夏姫さんは奏さんを気に入っているようだし、はたから見てもお似合いに思えたので、二人が付き合ったら素敵だろうなとは……。 でも、俺の考えを奏さんに押し付けるのは良くないことでした。今のは撤回します」 すると奏は、少し間を置いた後、呟くように言った。 「撤回しなくていい。 それが、サツキの本音ってことだから」

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