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カノン②

突然、2階から叫び声が聞こえて来た。 何が起きたのだろうと驚いて響が跳ね起きると、 ドンドンと勢いよく階段を降りてくる足音が聞こえ、その足音はまっすぐ玄関へと向かって行った。 「えっ?え……?!」 響は慌てて玄関へ向かったが、そこにもう人影はなかった。 玄関からは、夏姫が来た時に脱いでいたミュールが無くなっていた。 よくわからないけど、帰ってしまった……のか……? 響は暫くの間、困惑して固まっていたが、やがてハッとしたように顔を上げた。 そうだ、奏さん! 響は何があったのか、奏は今どうしているのかが気になり、2階の寝室へと上がって行った。 ——寝室のベッドには誰もいなかった。 間接照明が部屋全体をぼんやりと照らしていたため、響が目をこらして一面を見渡すと、部屋の隅で小さくなっている奏の姿を見つけた。 「奏さん!?」 響は、丸くなって震えている奏の元に駆け寄った。 「どうしたんですか、奏さん!大丈夫ですか……?」 響が声を掛けても、奏は暫く無言のまま震えていた。 明らかに、何かがあった。 それは明白だったが、状況がまったく理解できなかった。 恐らくは怒った様子で家を飛び出して行った夏姫。 怯えたような表情で動かずにいる奏。 いったい何があったらこんな事態になるのだろう、と響は疑問でならなかった。 「……とりあえず、何か飲むものでも持って来ますね」 何も話そうとしない奏に、とにかく落ち着いてもらおうと思った響は、そう言ってキッチンへ行こうとした。 すると響の服の端を奏の指が掴み、唇を震わせながらこう言った。 「……さっき、夏姫が……抱きついてきた」 「は、はい」 「で——股間を触られた」 ……まあ、そういう行為に及ぼうとしたんだろうな。 自宅に泊まりだし、寝室で一緒に寝るっていうのは、つまりはそういうことだ。 「……それで……?」 「夏姫を突き飛ばした」 「ええ!?」 だから、あんな怒った様子で出て行ったのか。 彼氏との初めての夜にいきなり突き飛ばされたら、そりゃ怒るよな……。 「なんでそんなことしてしまったんですか?」 「股間を触られたことに、凄い恐怖を感じた。 全身から汗が噴き出して、心のざわつきが襲ってきて——夏姫が俺と何をしようとしているのかを悟った。 そしたら——悟った瞬間、思い出した」 「思い出した?」 「……『あの人』も、俺に同じことをしていたって」 「あの人、って誰ですか?」 「……母さん」 奏は絞り出すような声で言うと、ゆっくりと語り始めた。 「俺の母さんは、父さんと離婚した後、俺と二人で暮らしてたけど……家にはいろんな男が出入りしてた。 俺が大きくなるにつれて、男を連れ込むことは減って行ったけど—— 代わりに母さんは、俺に対して関心を向けるようになった」 「関心?——それって、まさか」 話を聞いていた響は、思わず声に出し掛けて止めた。 それはあまりに恐ろしく、残酷な真実ではないかと身構えた。 「……母さんは、俺の股間を弄って『一緒に気持ち良くなろう』って言ってくるようになった」 「……っ」 「母さん、俺の前で裸になってた。 俺は母さんのそんな姿は見たくないと思った。 だけど母さんは見せつけてきた。 で……小学生だった俺に、セックスを強要した。毎朝、毎晩」 「……」 「母さんとこんなことはしたくない、だけど言うことを聞かなきゃ見捨てられてしまうかもしれない——そう思ったら反発できなかった。 誰かに相談することもできないまま、ずっと過ごしてきた。 でもある時——母さんは逮捕された」 怯えたような表情のまま話す奏が、まるで小学生のように幼く見えた響。 何度も深呼吸をしながら、絞り出すように話をしようとする奏を見ているうちに これ以上無理をしてほしくないという気持ちに駆られた。 「——奏さん。もういいですよ」 響は奏の背中に手を回し、優しく諭すように言った。 「……奏さんが辛い思いをされてきたこと、充分伝わりました。 だからもう、無理に話そうとしなくていいです」 そう言って背中を撫でると、奏は今にも泣きそうな顔で響を見た。 その先も伝えたいと思ったのか、再び口を開いた。 「俺——母さんのこと……裏切った。 俺、母さんにされてること……一番仲良しの幼馴染に話した。 ——マネージャーの家族に、泣きながら話してしまった。 それからマネージャーの母親が警察に通報して……母さんは捕まったんだ」 「マネージャー……加納さんの家族が……」 響が思わず口にすると、奏は膝を抱えて俯いた。 「俺——バチが当たったんだろうな。 母さんが逮捕された後、それまでの記憶がすっぽり抜け落ちてしまった。 さっきの夏姫のことも、あんな風に怒らせたりして。 俺が、母さんを裏切ったりしたから——」 「奏さんは悪くない!!」 響は思わず——奏を抱きしめた。 男同士だということは、何も気にならなかった。 目の前で怯え、自分を責めて苦しんでいる奏のことを、どうにかして安心させたいと思った。 「——大丈夫、奏さんは悪くない。 自分を責める必要なんてない。 今、この場には、奏さんを傷付けるような人は居ない。 怖がらなくていいです……」 子どもをあやすように、背中をさすりながら奏の身体を抱き締め続ける響。 「……サツキ……」 奏は、ぎこちなく腕を上げると、響の身体にしがみついた。 「俺……母さんのことが理解できなかったんだ。 母さんの考えてること、何もわからなかった。 何で俺にこんなことをするんだろうって思うだけで、母さんの抱えているもの、一つも知らなかった。 俺が、他人の感覚が分かる人間だったなら……こんなことにはならなかったかもしれないのに……」 すると響は、響の後頭部に手のひらを伸ばし、頭を撫でながら言った。 「違う。奏さんが他人の感覚が分からない人間として生まれてきたんじゃない。 奏さんを取り巻く環境が、奏さんの感覚を鈍らせてしまったんだと思います。 ——他人の気持ちが敏感に感じ取れてしまうような人間だったら、きっともっと耐えられなかった。 だから無意識のうちに、自己防衛が働いたんじゃないかなって……」 「……難しいことは、よく分からない。 でも……サツキが、俺は悪くないって言ってくれるなら……それでいい」 奏は響の身体にもたれ、静かに目を閉じた。 瞼にうっすらと涙が滲む。 「奏さん——」 「——奏って呼んで」 「え?」 「ずっと思ってた。あんた歳上なんだから、俺に対して敬語を使うのはやめてほしい。 それから俺のことは奏って呼んで」 「……わかった。なら敬語はやめるよ。 ——奏」 「うん。今からはそうして」 「じゃあ、奏も俺のことも響って呼んでくれる? 俺ばかり苗字で呼ばれるのは、なんだか距離を感じるから」 「……響」 奏は響の名前を呼んだ後、身体を離し、ふっと口元を緩めた。 「キョウとソウって——なんか音が似てる」 「確かに……似てるかも」 「カノンみたいで心地良いね」 「カノン?どうして?」 「一つの名前でも、二つの名前が重なってても、綺麗な音に成るから」 「……そっか」 響は微笑むと、 「カノンといえば、有名なのはパッヘルベルの『カノン』だよね」 と、口にした。 「ああ。クラシック好きじゃなくても知ってるカノンと言ったら、それだろうね」 奏が同調すると、 「久しぶりにピアノで弾いてみようかな」 と響が言った。 寝室の中で、過去を思い出して怯えている奏の気持ちを紛らわせるためにも 別の場所に移動させたほうがいいのではという考えもあり、奏をピアノの部屋に誘った。 「——前にも話したけれど、俺、元の時代ではピアニストを目指してた時期があったんだ。 けど事故で指が思うように動かせなくなって…… しばらく演奏からは離れていたけれど、ここに来てからはちゃんとピアノが弾けて驚いた」 ピアノの前に座ると、響は鍵盤に指を乗せた。 カノンの優しい音色が室内に広がる。 どこか懐かしく、心が穏やかになるその旋律が、奏の心を少しでも癒してくれるように——気持ちを込めて響はピアノを奏でた。 『皐月響が弾くと、その音楽の魅力が更に高まる』 ピアノを弾いていた頃、よく揶揄された言葉。 あの頃の自分より、今の自分のほうが もっと思いをピアノに乗せて弾けるような気がする。 上手に演奏したいんじゃない。 奏のためにこれを弾きたい。 奏の苦しみを取り除けるような音楽を奏でてあげたい。 そんな思いで響がピアノを弾いていると、奏が隣に立ち、自身も鍵盤を弾き始めた。 連弾—— ピアニストを志してからは、誰かと一緒にピアノを弾くことはしなくなった。 自分が高みに行けるなら、それで良いと思っていた。 しかし奏が、響の旋律を追いかけるように追走——その名の通り、カノンを奏でることで 音が二重に広がり、室内に温かい音色が満ちていく。 ピアノを弾いていて、こんなに心地良いと感じたことはなかった。 ——暫く二人で追走の連弾を楽しむと、やがてピアノから手を離した奏が言った。 「……小さい頃——俺が記憶を無くしていた頃。 辛いことがあった時、俺の心を慰めてくれたのはピアノだった」 奏は自身の過去について再び語り始めた。 その表情は先程までとは異なり、穏やかだった。 「母親が男を連れ込んだ時も、母親が夜になっても帰って来なかった時も、ピアノを弾きながら、時が過ぎるのを待っていた。 母親から犯された時、自分が汚いものになってしまった気がしてショックを受けたけれど、ピアノだけはいつ弾いても穢れのない清らかな音だった。 俺が変わってしまっても、音楽は変わらなかった。 音楽だけは俺を裏切らないし、そばで寄り添ってくれた。 そういえば——その頃から、俺は自然と自分の中で曲を作り出せるようになったんだっけな」 奏は遠い目をしながら、鍵盤を指でなぞっていった。 「俺にとって曲を作るということは、俺の居場所を作る行為だったんだろうな——」 「奏にとって、曲を作ることが自分の居場所を作ることなら——」 響は、奏の指先を眺めながら呟いた。 「俺は、奏が作った居場所に、もう10年以上前から住まわせてもらっていたことになるね」 「俺のファンなんだものね、響は」 奏はふわりとした笑みを見せた。 「そんなに長い間、俺の作った居場所を快適に思って生きてきたなら—— これからも、ここで生きていって」 『如月奏・夏姫 破局』 『原因は如月奏の心変わり。新しいお相手はまさかの——!?』 ひと月ほど前には熱愛を伝えていた週刊誌が、今度は二人の破局記事を掲載した。 「やっぱさあ、音楽やってる人ってアウトローだよねえ」 ——コンビニで立ち読みをしていた女子大生達の声が、買い物中の響の耳に入ってきた。 「うちの元カレもバンドやってたんだけどさー。 あっ、小さい箱で不定期にライブする程度の、知名度はほぼ無いバンドね。 そんな売れてもないバンドのボーカルだった元カレでさえ、追っかけのバンギャと私とで二股してたからね。 如月奏もそういうタイプだったってことかあ」 「如月奏って、無欲そうな顔してホントは女好きだったんだね。 読モの彼女がいたのに一ヶ月で飽きて、今度は自分のマネージャーと……でしょ?」 「ねーっ!芸術家のすることは一般人には理解できないよねぇ」 響はそんな噂話を耳にし、ぎゅっと唇を引き結んだ。 違う。奏はそんな人間じゃない—— 「——もう一度だけ確認するけど、記事にあるような事実はないんだね?」 「はい」 奏の所属する事務所では、社長に呼び出された早苗がきっぱりとした口調でそう言い切っていた。 「じゃあ、この週刊誌の内容は出鱈目だと」 「夏姫との破局は本当です。 ですが、私とそーちゃん……如月奏の熱愛というのは事実無根です。 大方、夏姫か彼女の事務所が、自分たちのイメージを損なわないよう濡れ衣を被せてきたんでしょう」 「……今加納さんが話してくれた内容で間違いない?」 社長は、早苗の後ろに立つ奏にも尋ねた。 「間違い無いです」 奏が答えると、社長はふぅ……とため息をついた。 「まあ、君達の熱愛は脚色だろうとは思ったけどね。 一応、本人への事実確認はしないとだからさ、こういうのは。 ——それにしても、向こうの事務所からクレームの電話が来て困ったよ。 『真剣交際を宣言してから一ヶ月で破局なんてイメージダウンもいいところだ。 よくもうちのタレントを汚してくれたな!』って」 「汚して?——俺、夏姫とセックスしてません」 奏が真顔で言った。 「ちょ、そういうことは話さなくていいのよ?そーちゃん」 早苗は、社長に反論する奏を諭した。 「でも、手を出さなかったのは賢明よ。 さすがそーちゃんね!」 「とにかく、ほとぼりが覚めるまでは新しい仕事は触れないな。 スポンサーとなる取引先は、どこもイメージを重視するからねえ」 社長は胸ポケットに入れていたタバコを咥え、ライターで火をつけた。 「……私の立場であれこれ言うのは違うかもしれないですけど」 タバコを燻らせながら窓の外を見ている社長に、早苗が言った。 「そーちゃんは暫く謹慎のような形を取るのに、夏姫は今もメディアにガンガン露出してますよね。 こないだのラジオトークでも『純情を踏みにじられた』だとか、悲劇のヒロインぶってましたけど……。 あの子、アイドル活動していた時にも彼氏の存在がバレて干されかけたり、未成年飲酒の写真が出回ったりしてたから、元々純情なイメージなんて無いじゃないですか。 今回だって、そーちゃんに別れを切り出したのは夏姫の方なのに。 なんでそーちゃんばかり割を食わなければならないんですか」 「それが大きい事務所の力ってもんだよ」 社長はそう言って、遠回しに自分の事務所はそうでないことを示した。 しかし、社長はそこまで落ち込んだ様子は見せなかった。 早苗が不服そうな表情をしていると、社長は唇の端を上げた。 「——こういうのは、いずれ世間が気付いていくもんだから。 夏姫は若さだけが取り柄のタレントだ。 歌も上手く無いし、似たような系統で既に売れているモデルもいるから同じ路線でのタレント枠は残っていない。 売れるのはせいぜい10代のうちだけだろうから、あと少ししたら事務所も見限るだろうさ。 ——でも如月奏は違う。 奏君の音楽は人の心を掴み、長く愛される魅力を持っている。 こんなゴシップ一つで消えるような小物じゃない。 いずれもっと多くの曲を世に送り出して、如月奏を切望するファンがどんどん増えていくだろうよ。 だから——今だけの辛抱だ」 「——暫く謹慎って言われた」 社長に呼び出され、事務所に行っていた奏は、帰宅するなり響に言った。 「おかえり。……そっか。 じゃあ新しい仕事も、暫くは来ないってことだよね」 響が同情すると、奏は 「響のせいだからね」 と悪びれる様子もなく言った。 「えっ、どうして?」 響が目を丸めると、奏はこう告げた。 「響が、俺と夏姫が付き合うよう勧めてきた」 「や、それは——その時は、奏が抱えている過去のトラウマを知らなくて……」 「響が反対してたら、俺、夏姫の告白を受けたりしなかった」 「でも、決めたのは奏でしょ? 奏も夏姫さんに対して少なからず好意があったから受けたんじゃないの?」 すると奏は、冷凍庫から棒アイスを取り出し、口に咥えた。 暫くアイスを口の中で溶かしたあと、 「——好意は無かった」 と呟くように言った。 「それでよく付き合おうと思えたね……?!」 響が呆れたように言うと、奏は棒アイスを口から離した。 「——寝室の棚に入ってたやつ。あれ、何」 「何って、コンドームだけど」 「俺が夏姫とセックスすると思って買ったんだよね」 「まあ……。泊まりに来るからには、そういうもんだと思ったから……。 俺なりに気を利かせたつもりだったんだよ。その時はね」 「付き合ったらセックスするって、普通のことなの?」 そりゃ……中高生時代には、手を繋ぐので精一杯で、その先に進めないような恋愛もあった。 でもその先を経験してからは、交際するならば行為もあるのが当たり前だと思うようになっていた節はある。 「普通の人の価値観では、付き合ったらセックスするんだね」 「……あくまでも俺は、だよ? 俺の価値観では、あるものだと考えてた」 「俺の中に、そういう価値観はなかった。 だから学生時代にも、誘われた相手とはデートに行った。 会ってご飯食べたり、喋るだけなら、友達とだってすることだから負荷も感じないし。 だから、夏姫から身体を求められて驚いてしまった。 ——でも、響がコンドームを買って置いてったのを見て…… 響にとってはそれが普通のことなんだなって知った」 「……何が言いたいの?」 響は、棒アイスが溶け出していることも気にせず、じっとこちらを見つめてくる奏に対して言った。 「俺が夏姫さんと奏がセックスすることも含めて、交際を後押ししたのが気に食わないってこと?」 すると奏は「そうじゃない」とかぶりを振った。 「なんで響は、付き合った相手とセックスするのが普通だと思うのか知りたい」 「なんで、って……」 「俺は母親から無理やり犯された経験しかないから、なんで夏姫が身体を求めてきたのかが理解できなかった。 もしかしたら、俺以外の人にとっては、それって重要なものなのかなと思った」 「……お互いが合意の上で、それからお互いのことが好きだったら…… 好きな相手と触れ合えるのって幸せなことだから——だと思う」 「触れ合うのが幸せ?」 奏がきょとんとすると、響はこの会話をするのが気恥ずかしくなり、思わず目を背けた。 だが奏の追撃は止まらなかった。 「触れ合うと、なんで幸せなの」 「っ……落ち着くし、ドキドキもするし……。 あと……気持ち良いから……」 「……そうなんだ」 奏は暫く、何かを考えているそぶりを見せた。 その間が嫌に長く感じた響は、だんだん気まずさが増していった。 「ねえ奏。この話、そろそろ終わりにしない? なんか俺、恥ずかしいんだけど」 「恥ずかしい?なんで」 「なんでも」 「……」 奏は溶けかかったアイスの棒を食べ切ると、不意に響へ近寄った。 そして、椅子に座っていた響の身体に、後ろから覆い被さるように抱きついた。

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