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カノン③

「な……!?」 響が驚いて固まると、奏は響を抱きしめたまま 「……ほんとだ」 と呟いた。 「っ……ほんとだ、って?」 「過去の記憶を思い出した夜——響がこんな風に抱きしめてくれた。 その時、響が今言ったような感じがした」 「へ——」 「一時的な感覚かもと思ったけど、今こうしてたら、やっぱり同じだ。 落ち着くし、どきどきするし、気持ちいい」 「……!」 響は咄嗟に、奏の腕から身体をすり抜けた。 「っ、あのさあ——前提を忘れてない?」 響は戸惑いで高鳴っている心臓を押さえた。 「前提?」 「俺は、好きな相手と触れ合うことが幸せだって言ったんだよ。 好きな相手とだから、触れ合ったら落ち着くし、ドキドキするし、気持ち良いんだって言ったよね」 「——じゃあ俺って、響のことが好きなの?」 「俺が聞きたいよ!!」 響は即座に切り返した。 「奏はさ、俺のことを何だと思ってるの? どうして俺に抱きついて、ドキドキするわけ? ——俺、男だよ?」 「響が男だと、抱きついちゃダメなの? この前の夜は響が抱きついてきたじゃん」 「あれはっ……奏を慰めたかったからで……他意はないよ」 「他意?」 「だから、つまり……。 別に奏のことが好きだから、抱き締めたってわけじゃない……」 響は髪の毛をくしゃくしゃと掻いた。 「響、俺のこと好きじゃないの?俺のファンなのに」 奏はぽかんとした表情で響を見つめる。 「ファンだけど——そういう『好き』じゃないっていうか……。 異性に向けるような『好き』ではないから……」 「異性に向ける『好き』? 男に対してと女に対してじゃ、『好き』の意味が変わるってこと?」 「変わる。変わるよ、全然違う。 ——俺の価値観ではね」 「……そうなんだ」 奏は混乱した表情を浮かべていたが、 混乱しているのはこっちの方だ——と響は思った。 奏の中では、男も女も線引きがないのかもしれない。 仮に奏が俺を『好き』だと明言したとして、その『好き』の定義が、俺の想定するものと逸脱していたらどうしよう。 俺の中では、奏は同居人であり、憧れの作曲家であり、最近は良い友人になれるかもなんて思い始めていた存在。 でも——奏のほうは、どうなんだろう。 「響は、特定の誰かを好きになったことがあるんだよね? そして、その相手とセックスしたことがあるんだよね?」 響がもやもやと考えていると、奏が唐突に尋ねてきた。 「突然、何だよ」 「答えて」 「……あるよ。特定の誰かを好きになったことも、セックスしたことも」 「異性だった?」 「うん、好きになったことがあるのは全員異性だよ」 「だから響の価値観は、そういう風に構築されたんだね」 「……うん、俺の価値観。 世の中では、同性同士で好きになる事があるのは知ってるよ。 でも、俺が好きになった相手は異性だけ」 「——そう。わかった」 奏は納得したような表情を浮かべたが、同時にそれはどこか物悲しい様子もたたえていた。 それから数日、二人の間にどことなく気まずい空気が流れていた。 正確には、奏は今まで通りマイペースに暮らしているのだが、 響の方は奏が自分に対してどのような意味での好意を向けているのか気になって仕方がなかった。 恋愛としての好意を向けられても、応えられる訳がない。 奏がもし真剣な気持ちだと言ってきたら、俺はそれに向き合うことができないと思う。 そうなったら、ここには居られない気がする。 でも、どこに行けばいいか分からない。 元の時代に戻れる術も見つかっていない。 どうしたらいいんだ—— それからさらに数日後。 響は、ここ暫く奏がピアノの部屋に入っていないことに気がついた。 作曲している時はいつもピアノの前に奏がいて、五線紙を床に撒き散らしていたり、飲み物をピアノの上に乗せていたりして乱雑になる。 その片付けを渋々していたものだが、もう十日以上、片付けをしていなかった。 部屋が散らかっている様子がまるでなかったからだ。 その理由は明確である。 謹慎生活中の奏には、新たな仕事が舞い込んで来ないからだ。 とはいえ、二人で食事をしている時も 何か考え事をしているようにぼうっとすることの増えた奏が心配になった響は、 とうとう奏をピアノの部屋に連れて行くことにした。 「何?俺、この部屋に用事ないんだけど」 「あまりにもブランクが空くと、曲が思いつかなくなっちゃうんじゃないかと思って」 「そんなことないでしょ」 「少なくとも俺は、数日ピアノを弾かない日が続くとガクッと腕が落ちることを学生時代に学んだ。 作曲も同じとは言わないけど、仕事がなくても何か創作してみるのがいいんじゃないかな」 「……何か、と言われても」 奏はぼんやりと鍵盤を眺めた後、視線を響に戻した。 「何か、お題ない?」 「お題?——ああ、『バニラアイス』とか?」 「そういうやつ」 「うーん……。俺の好きなもの……」 そう言われると、パッと出てこないなあ。 俺って、何が好きだっけ。 「セックス?」 「は?!」 唐突な奏の言葉に、響は目を見開いた。 「突然なに!?」 「響の好きなもの。違う?」 「いやっ、好きとかそういうんじゃ——」 「じゃあ嫌いなの?嫌いなのに、セックスしてたの?」 「一旦セックスから離れてくれない!?」 響は頬を若干赤らめながら奏を制した。 「まず、恥ずかしげもなく連呼するような言葉じゃないから……。 それにお題にするのは無理があるだろ」 「そう?別に音楽のお題って、バニラアイスとかモノだけじゃないでしょ」 「そうかもだけど、別のテーマにして欲しい」 「じゃ、響は何が好きなの?」 「……えー。じゃあ、まあ……『麦茶』」 「麦茶ね」 奏はすんなり頷くと、鍵盤の上に指を乗せた。 ——だが、なかなか弾き始めようとはしなかった。 五分ほど、その場で固まっている姿を見ていた響は、『麦茶』ではお題としてイメージが沸きにくかっただろうか?と不安になってきた。 「奏。『麦茶』はもういいや。 代わりにさ、『水族館』とかどうかな?」 「水族館、好きなの?」 「うん。海の生き物が好きだから」 「俺、水族館って行ったことない」 「そうなんだ……。じゃあ『アザラシ』でどう?アザラシ知ってる?」 「アザラシ——テレビで見たことはある。 ……分かった」 奏は頷いたものの、そこから再び動かなくなってしまった。 十分ほどそんな時間が続いたところで、響はとうとう 「……今日、もしかして調子悪い?」 と尋ねた。 「うーん」 奏は鍵盤から手を離し、腕を組んで唸り出した。 「……まあ、日によって音楽が浮かびやすい日もあれば、そうじゃない日もあるよね。 ごめん、気分が乗らない時に作曲させようとして」 響が謝ると、奏は腕を組んだまま言った。 「なんか、頭の中がごちゃごちゃしてる。 ごちゃごちゃしてるのに、空っぽな感じ。 音楽がひらめく部分だけ、すっぽり抜け落ちたような……経験したことない感覚だ」 「それ、暫く作曲から離れてたせいとかじゃなく? 最後に曲を作ったの、『君に逢いたくて』の劇中曲以来でしょ? 結構時間空いてるしさ」 響が言うと、「そうかも」と奏は答えた。 結局、その日は何も浮かんでこなかったため、次の日にまたお題に沿った即興音楽を作ってみようとしたのだが、やはり奏の中に音楽は浮かんで来なかった。 さらにその翌日—— 夏の暑さが和らぎ、季節の変化に合わせるように世間の騒ぎも落ち着いてきたところで、奏の謹慎が解かれた。 落ち着いた、というより、世間の流れが変わったことが理由として大きかった。 夏姫の歌った楽曲は、ほとんどCDが売れることもなく、 またラジオ番組で『如月奏に浮気されて捨てられた』と語っていたのだが 夏姫が奏と交際宣言をしていた期間に、事務所の幹部とホテルでの密会をしていたことが関係者から告発された。 そして奏の浮気相手とされていた早苗も、彼女自身がメディアに顔を出して誤解であることを訴えた。 自分と奏が幼い頃からの友人であり、姉弟のように育ってきた仲だと、当時の写真を交えて紹介。 同じピアノ教室に通っていた仲間などからも証言をもらったことで、 『奏がマネージャーと浮気をして夏姫を捨てた』というのは、夏姫が自身の枕営業を隠すためについた嘘だと世間は気付いていった。 元々は読者モデルとして同性人気の高かった夏姫だが、 枕営業と嘘をついたことでイメージダウンしたところに 彼女の元交際相手や級友が、週刊誌にお金を貰って 過去の男達との生々しい関係、クラスメイトをいじめていたことなどを洗いざらい話したため 頼りだった同年代女性の支持も完全に失ってしまった。 それらによって激しいバッシングが起きた夏姫は芸能界での居場所がなくなり、 代わりに奏が清廉潔白であったことが世間に広まったことで、奏は想像よりも早くに謹慎期間を解かれたのであった。 ——こうして、また新たな仕事の依頼が舞い込むようになった奏。 だが、正式な作曲の仕事であっても、奏は相変わらず曲が浮かばず、スランプに陥っていた。 「そーちゃんがスランプってホント?」 納期が近くなっても進捗が無く、心配した早苗が如月邸を訪れた。 世間の誤解が解けるまで、早苗が家に来ることは暫くなかったため、三人で会うのは久しぶりのことだった。 「まさか、夏姫と別れたショックで何も手につかない——とかじゃないわよね!?」 早苗が言うと、響は 「いや、それは無さそうです」 と返した。 響は薄々感じていた。 原因は、もしかしたら自分との関係にあるのではないかと。 奏が自分に抱きついてきたり、過去のセックスについてを聞こうとしたりしてくるのは 友人としてではない好意を自分に向け始めているからではないか。 その一方、奏自身、それを自覚していないのではないか。 そっちの方が厄介だな——と響は思った。 奏が自分の心を自分自身で把握できておらず、もやもやとした気持ちの中を彷徨っているのだとしたら、 それに終止符を打つにはどうしたらいいのだろう。 奏と響が距離を取るにしても、響には他に行く当てがない。 帰る場所がここにしかなかった。 自分から離れていくことはできず、 かといって家主である奏を追い出すこともできないため 微妙な距離感のまま、ここ暫く暮らしていた。 「……そーちゃんと、何かあった?」 ピアノの前でぼうっと座り続ける奏を置いて、早苗が響をリビングに呼んだ。 「いえ……特には」 「ほんとォ?」 「何かあるわけないじゃないですか! 俺ら男同士なんだから……ッ」 「——別に、あなた達がやましい関係だなんて疑ったわけじゃないんだけど?」 「!!」 「なんか距離ができてるから、喧嘩でもしたかと思ったけど…… でも、サツキくんの発言を聞いて、なんかピンときちゃった……」 響がどきりと心臓を鳴らすと、早苗は突然、響の手を取った。 「いいじゃない!! そういうの、アリ!全然アリだわ!!」 「……はい?」 響がぽかんと口を開けると、早苗はどこか興奮した様子で嬉しそうに言った。 「四六時中、同じ屋根の下で暮らしていたら ひょんなことが起きてもおかしくないわよね! あー良かった、そーちゃんが夏姫みたいな女とズルズル行かなくて。 サツキくんだったら安心してそーちゃんを任せられるわあ」 「ち、ちょっと待ってください!!」 響は慌てて早苗の手を離した。 「なんか勘違いしてませんか? 俺は別に、奏のことを意識してるわけじゃ——」 「あれえ?いつの間に呼び捨てになったの?」 「っこれは——奏が呼び捨てにしてって言ったから……」 「なるほどね。呼び捨てで呼び合いたい関係ね。ふふん」 「だからぁ……俺は奏のことは友人だとしか思ってないんですって!」 「でも、その口ぶりだとそーちゃんの方はあなたに気があるってことなんじゃないの?」 「それは……分かりません。 ない、と思いたいけど……あるかもしれない……。 でもきっと本人も分かってないと思う……」 響は必死で、奏と特別な関係になったわけでは無いことを話したが、 早苗は終始にやついた顔でそれを聞いていた。 ——なんかこれ、既視感がある。 響は、どうにか早苗に分かってもらおうと話しているのに まるで相手にされていないような虚しさを感じ、ふと思い出すことがあった。 それは、自分が奏と夏姫の交際を後押ししていた時のことだ。 デートの誘いを受けるべきだと言い、奏本人が夏姫への好意を示すそぶりを見せたことは一度もないと言うのに 二人が上手くいくようサポートにまわっていた。 挙げ句の果てに、気を利かせてコンドームを買いに行き、奏の寝室に置いた。 その時、奏は何を思っただろう。 さあっと顔から血の気が引いていく。 響は、自分が奏に対して酷いことをしてしまっていたことに気付いた。 奏の気持ちをおざなりにして、果てには自分が気の利いた人間であるような悦にまで浸っていた。 実際は奏の立場に立って考えることをまるでしていない、独りよがりな行動だった。 それで奏が後に引けないような状況を俺が作り出し、俺の期待に応えるかのように奏は夏姫と付き合った。 けれど奏が夏姫を好きになることはなかった。 無理やりお膳立てされて、自主性を奪われて、付き合うことへのプレッシャーを掛けられて どれだけ居心地の悪い思いをしていただろう。 奏本人がその居心地の悪さに気づいていたかはわからない。 でも少なくとも、俺と奏がくっ付くことを 期待した眼差しで見つめてくる加納さんに対して、俺は今嫌悪の気持ちが湧いている。 こんな嫌な思いを、俺は奏にさせてしまっていたのか。 「響のせいだから」という奏の文句は、まさに言い得て妙だ。 響は過去の言動を悔やんだ。 「……加納さんが想像してるような関係じゃないですよ。 でも——奏に酷いことをした覚えはあります」 響が深く沈んだ様子で言うと、にやけていた早苗の口角が少しずつ元に戻り 「……そっか」 と、ぽつりと口にした。 「まあ、サツキくんが原因とも限らないし。 そーちゃん、今までが頑張りすぎてるくらいだったから。 中学生で作曲家として注目されてから、ずーっとお金儲けの話ばかりされる世界に身を置いてさ。 お金はもらえたけど、心をすり減らすことも多かっただろうなって。 ほんとはそーちゃんがスランプになる前に、ずっとそばにいた私が気づいてあげなきゃいけなかったのに……」 「いや、加納さんのせいじゃないですよ!」 自分を責め始めた早苗に、慌てて響が言った。 「でも、とにかく今は、奏がまた曲を書けるようになるためのサポートは必要だと思ってます。 ……ただ、俺じゃ奏をサポートできると思えない……。 どうにかしてあげたいとは思うんですけど……」 「とりあえず——今来てる仕事はキャンセルするしかないわね」

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