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カノン④
暫くして早苗がそう言ったため、響はこう尋ねた。
「キャンセルできるんですか?」
「キャンセル料は払うことになるけど。
納期を過ぎてから完成してなかった、では業界での評判を下げて次が無くなってしまうから、それよりはマシよね」
早苗はその場で社長に電話をかけ、奏の状態を説明した。
社長も、曲が書けないのではどうしようもないと受け入れ、今来ている仕事は白紙となった。
早苗が事務所に戻った後、響はピアノの部屋で鍵盤を見つめている奏に話しかけた。
「あのさ、奏……。
さっき加納さんから聞いたと思うけど——」
「キャンセルの話なら聞いた」
「うん。だから、リビングで休みなよ。
また曲が浮かぶようになるまで、ピアノから離れてもいいんじゃないかな」
「……ミルクティー、淹れてくれる?」
奏は椅子から立ち上がると、ふらふらとリビングに歩いて行った。
——はぁ。
響は煮出しミルクティーを作りながら、長いため息を吐いた。
奏がスランプに陥ってるのが俺のせいだとしたら、俺はどうしたらいいんだ。
「奏ー、ミルクティー淹れたよ」
響はティーカップを持ってリビングに向かった。
「チョコレートも添えた?」
「うん。奏が紅茶飲む時はいつも添えろっていうから、ほら」
響はティーカップの受け皿にキャンディーチョコが乗っているのを見せた。
「……ん」
奏はキャンディーチョコの赤い包みを外すと、一粒口に入れた。
「……ハズレ」
「ハズレ?」
「このパック、2種類の味が入っててさ。
包みの色は同じだけど、チョコの中に入ってるフルーツピューレの味が違うんだよ。
イチゴとパイン」
「今奏が食べたのは?」
「パイン」
「パイン、ハズレなんだ……」
響は奏の隣に座ると、自分も赤い包みを解いてみた。
「ほんとだ、外側は普通のチョコレートでコーティングされてるから、中のピューレの色や匂いは確認できないね」
そう言って口に入れると、口内にイチゴの風味が広がっていった。
「……イチゴだ」
「アタリだね」
「まあ俺、どっちの味でも良かったけど。
——っていうか」
響は思い出したように奏に尋ねた。
「奏ってイチゴ嫌いじゃなかった?」
「うん。トマトとイチゴは酸っぱいから嫌い」
「じゃあなんでこのチョコはイチゴがアタリ判定になるの?」
「イチゴチョコは甘くて好き」
「……なんだよ、それ……」
響は呆れたようにストレートティーを口に含んだ。
「……奏の頭の中って、やっぱり俺にはわかんないな」
「俺には響の頭の中がわかんないけどね」
奏はあっけらかんとした表情でミルクティーを流し込む。
「——あのさ、奏」
響は少し迷いながらも告げた。
「曲が書けなくなったのって、これが初めて……だよね?」
「うん」
「その原因って、奏は何だと思ってる?」
「分からない」
「……そっか」
響はそこで言葉を切ると、視線を奏と合わせた。
「一度受けた仕事をキャンセルするのってさ……
多分だけど、奏だから許されることなんだと思う。
もし、作曲の才能のない俺がそんなことをしたら、二度と仕事は回ってこないと思うから。
奏には今までに築き上げてきた実績があって、それは間違いなく奏の努力の賜物でもあるから尊敬するよ。
ただ、キャンセルするということは関わっている人たちに迷惑をかけることでもあって——」
「迷惑?」
奏が目線を上げた。
「うん。仕事を依頼していた側は、人選からスケジュールまで色々調整していただろうし、加納さんだって新しい仕事を取って来れるように、今ごろ事務所でスタッフさん達と話し合っていると思うよ。
社長さんだって、依頼した相手に謝罪をしたと思うし……。
奏の代わりに頭を下げて、やるべき事が倍以上になった人達がいる。だから——」
「俺に、もっと反省しろって言ってる?」
奏がぽつりと言った。
響は慌ててそれを否定した。
「いや、反省しろというか……。
同じことが起きないよう——つまりスランプを抜けて、それから未来でまたスランプになることがないよう、対策を考えないとね、って話」
響がそう説明すると、奏は黙ってミルクティーを口に運んだ。
「……ここ最近、俺の心がぐるぐるしてて、よく分からない」
奏は独り言のように、響と目線を合わせず口にした。
「響に抱き締められたせいだと思う。
あれから俺、また同じことをしてもらいたいってことばかり考えてしまう。
曲を作ろうとしても、気付くと響のこと考えてる。
なんでこんなこと考えてしまうのか、よく分からない」
「……」
「付き合いの長いマネージャーに対しても、学生時代の友達にも、デートをした子達や夏姫にも、こんな気持ちになることはなかった。
抱き締められたい、とか……その人のことばかり考えてしまう、とか……」
「……」
「響と出会ってからの半年で、俺はなんだか自分が自分らしく無くなった感じがする。
こんな風に、音楽以外がずっと頭にこびりつくような経験は初めてだから」
奏は空になったカップを机に置くと、不意に響を見つめた。
「響。もっかい俺のこと抱きしめてくれない?」
「……無理だよ」
「なんで」
「そんなことをして——本気になられても、困るから」
「本気になる、って?」
「俺のこと、恋愛対象として見られても、その気持ちには応えられないって意味だよ!」
響は思わず声を荒らげて言った。
「……でも俺、響に抱き締められたら、また音楽が浮かぶようになるかもしれないよ」
「仮にそれでスランプを抜けたとして、それから先はどうするの?
俺が奏の期待に沿えない言動をしたら、またスランプにハマるんじゃない?」
「そんなの、なってみないとわからない」
「それじゃ困るんだよ!
だったらはじめっから、俺の存在を抜きにしてスランプを克服して欲しい」
「——どうして響は、そこまで俺を避けるの?」
奏に純粋な疑問をぶつけられ、響は言葉に詰まった。
「……っ、だってさ……。
俺は男同士で恋愛なんてしたことないし……。
もしかしたらいつか、元の時代に戻るかもしれないし……」
少し考えた後にそう答えると、奏は首を傾けた。
「響は、自分が過去に経験したことのないことは受け入れられないの?
それに、まだ来てもいない未来のことを考えて、今を受け入れようとしないの?」
「……それは……」
「響はずっと、過去や未来の話ばかりしてる。
今の話をしていない。
今の俺のことを、見てないでしょ」
奏は腰を上げると、響のすぐ隣に座り直した。
「っ、近いよ——」
「ねえ、響」
奏は響に吐息のかかる距離まで近寄った。
「俺は響のことが好きなのかな?」
「……っ」
「で、響は俺のことが嫌いなのかな」
「——嫌いじゃあ、ないよ……」
響が迷った末に言うと、奏の表情が少しだけ和らいだ。
「嫌いじゃないなら、さ……。
——俺とセックスしてよ、響」
「奏とセックスはできないよ」
響が答える。
「なんで?」
「男同士じゃできないでしょ」
「俺が女だったら、俺とセックスできた?」
「……しないと思う。
だって俺は奏のこと、友達のような存在だと思ってるから。
友達とはセックスしない」
響が言うと、奏は少し残念そうに顔を離した。
「そういうものなんだ……」
——奏は、母親から性的暴行を受けていた。
奏の同意なしに身体を重ねて、奏の心身に傷を与えた。
だから奏の中で、人を好きになる気持ちだったり、どんな時に誰とセックスをするのが普通なのかという感覚がないのだろう。
それは、心から同情する。
同情するけれど、傷ついた心身を癒せる相手にはなれないよ……
響は心の中で奏に謝った。
それから会話がなくなってしまった二人は、その後別々の部屋で過ごし、時間が流れていった。
食事の時も会話をあまり交わさないまま、そんな状態が一週間続いた時、
早苗が新しい仕事を持って如月邸にやって来た。
「聞いて、そーちゃん。
これを受けるかどうかは、あなたが決めていい。
今日はね、作曲以外の仕事の話を持ってきたの」
早苗が気を遣いながら話を切り出すと、奏は
「モデルの仕事はもうやらないよ」
と返した。
「ううん、モデルじゃないわ。
っていうか、それは私も反対。また夏姫みたいな女に狙われたら大変だから。
——あのね、俳優の仕事なんだけど、まず話を聞いてくれる?」
早苗が切り出すと、奏が「ちょっと待って」と止めた。
「……響もいる場で話してほしい。
俺が作曲以外の仕事を受けるかどうかは、響に決めてほしいから」
——早苗が響を連れてくると、早苗は改めて仕事の内容を話し始めた。
「業界では鬼才と称され、賛否両論ある作品を作ることで定評のある監督が、新しく撮影する映画のテーマをそーちゃんにお願いしたいんだって。
なんだけど、そーちゃんは今スランプでしょう?
断ろうとしたんだけど、『それならば役者として出てくれないか』って言って来たのよ」
「奏に役者の仕事?」
響は思わず言ってしまった。
奏に演技などできるのだろうか……?
「私も事務所の人達も、そーちゃんは俳優じゃないし、多分本人も受けないだろうって言ったんだけど……。
その監督、そーちゃんがデビューした『夜とレモンティー』が大好きらしくてね。
自分が監督として世の中に評価されるようになったら、いつかタッグを組んでみたいと、何年も考えていたらしくて。
今回撮影する作品は、自身にとって最高傑作になる予感がしているから、どんな形でもいいからそーちゃんとの共作にしたいって熱望しているそうなの」
「……ちなみに、なんと言うタイトルの映画を撮るんですか?」
響が尋ねると、早苗はこう答えた。
「たしか、『血染めの理想郷』——だったかしら」
血染めの理想郷——
知らないタイトルだ。
元の時代で、如月奏が手掛けた楽曲と、そのタイアップ作品はすべて把握していたつもりだったけど……
そうか。
奏はきっと、この仕事を断るんだろうな。
だから未来の時代——つまりは俺のいた時代にも、如月奏の経歴にこの作品が追加されることはない。
響がそう考えていると、不意に奏が口を開いた。
「俳優って、何の役の話が出てるの」
「奏、演技できるの?」
間髪を入れず響が尋ねた。
「できるかはわからない。やってみなきゃわかんないじゃん」
「できるかわからないなら、無理して受けることないんじゃない?」
響は、奏が再び仕事をキャンセルすることで、彼自身の地位を落とすようなことがないよう忠告した。
それから、元の時代との整合性が取れなくなるようなことはなるべく防いだほうがいいんじゃないか、と。
「——また響は、未来のことにばかり目を向けるんだ」
奏が言った。
「え……?」
「俺が演技できないなんて、どうして決めつけられるの?
どうしてできなかった時のことを考えるの」
「そりゃ、リスクはなるべく回避した方がいいでしょ」
「リスク?」
「もしできなくて、やっぱり降りるってなった時、また周りに迷惑をかけるでしょう?」
響の言葉に奏は押し黙った。
「……なんか、サツキくんって後ろ向きよね」
響と奏が暫く閉口していると、早苗が口を開いた。
「俺がですか?」
「挑戦して失敗することは誰にだってあると思う。
でもやる前から『どうせ演技なんてできないだろう』って考えるのはネガティブな考え方じゃない?」
「だってもし上手くいかなかったら、奏自身も自信を無くすし、周囲からの信頼も損なうかもしれないんですよ?」
「その考えもわかる。
わかるけど、そうやって挑戦をしなくなったら、何もできなくなるじゃない。
——作曲家という不安定な仕事をしながら、そーちゃんがここまでその仕事を続けて来れたのは、そーちゃんが目の前のことに精一杯向き合ってきたからよ」
早苗は奏の肩を抱き、そっと顔を覗き込んだ。
「……そーちゃん。
私はあなたのマネージャーとして、そして幼馴染としてあなたを見て来たからわかる。
あなたは真面目で責任感がある子。
こないだキャンセルした仕事だって、キャンセルするギリギリまで、ピアノの前で何十時間も向き合ってきたんでしょう?
どうにかして曲を作ろうともがいていたでしょう?」
早苗の言葉を聞き、響は思い出した。
確かに奏は、曲を作れなくなってしまったが、
それでもピアノの前を離れなかった。
ぼんやりと白紙の五線紙を眺めたり、鍵盤の上に指を乗せたりして、どうにか曲を作り出そうと、音楽と向き合っていた。
奏は仕事をサボったり、手を抜いたり、忘れてしまうような人間ではない。
早苗ほど共にいた時間は長くないが、この半年間、同じ屋根の下で暮らしてきた自分にはそれが見えていたはずなのに。
響は途端に、自分の言動を恥じる気持ちが湧いて来た。
そして、尚も黙り込む奏に対して言った。
「……もしさ、奏が俳優の仕事を受けてみたいと考えているなら……俺もサポートするよ」
「え?」
奏は顔を上げ、じっと響を見た。
「サポート、って?」
「たとえば奏が演技するのを見て、もっと良くなりそうなことに対してはアドバイスするだとか……。
奏がどう演技していいか分からなくなった時は、俺も一緒に悩んで、どう演技するか考える。
奏が最後までその仕事をやり切れるように、俺にできることは協力するから——
受けてみたらいいんじゃないかな」
すると奏は、こくりと頷いてみせた。
そして自分の肩を抱いている早苗の方に視線を向けた。
「俺……演技の仕事、やってみる」
——こうして、映画監督・五十嵐夏央の『血染めの理想郷』に役者として参加することになった奏。
五十嵐は奏と対面すると、嬉しそうに目を細めた。
「如月奏くんと仕事ができて光栄だよ。
ぜひ、貴方に演じて頂きたい役があるんだ」
五十嵐は奏と、一緒について来た響や早苗にも台本を渡した。
「——『禁断の愛に苦悩する男・大久保利通役』……?」
響が声に出すと、五十嵐が作品のあらすじを語った。
「これは幕末の動乱を描いた作品でね。
同郷の出身である西郷隆盛と大久保利通は、互いに国を良くしたいという理想を持っていて、日本の未来を語り合う仲だった。
けれども良い国を作るために必要な過程や政治の仕組みに対する考え方は相容れなかった。
大人になるに連れて互いに社会的地位が上がり、理想を叶える道筋が出来上がっていくほどに、道を違えていく二人。
とうとう二人は敵対する勢力の長同士になってしまう。
けれど実は大久保は、若い頃から西郷のことを一度だって憎んだことはなかったんだ。
西郷の考え方も尊重していた。それは大久保が西郷のことを人として、友として好いていたから。
そして同時に——情愛の念も持っていた」
五十嵐の言葉に、響と奏がそれぞれ息を呑む。
「結局、後に引けない状況に追い詰められた二人は戦をし、勝利した大久保は明治新政府のトップに立ち、敗北した西郷は戦禍と共に散る。
だけど大久保も、それから暫くして暗殺されてしまう。
大久保の死後、彼の自宅からは西郷に宛てた手紙が見つかった。
西郷の死後も、西郷を忘れたことは一度もないこと。
自分と西郷の間にあった障害とは性別ではなく、理想を捨てきれなかったこと。
もし生まれ変わることがあれば、今度は理想に生きるより、愛に生きてみたい——とね」
「……これ……」
「何これ!思いっきり主役じゃない!?」
五十嵐の説明を受けた奏と早苗がそれぞれに驚いたような反応を示した。
「奏が……主役……?」
響は、果たして奏が大久保利通の役を演じ切ることができるだろうか——と、一抹の不安を抱いた。
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