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血染めの理想郷①

その後、奏は他の役者と挨拶をしたり、撮影のスケジュールの説明を受けたりと忙しそうにしていた。 早苗も、奏が主演の役を与えられるとは思っていなかったらしく、慌てて事務所にスケジュールの共有をしていた。 響は、奏や早苗が忙しそうに動いている間、楽屋にこもって台本を追っていた。 『君に向ける感情は愛憎入り混じり、懐古したと思えば新鮮にも感じ、水のように形のないものだ。 これを友情だと君が呼ぶならば、これは友情だろう。 これを愛情だと君が呼ぶならば、これは愛情だろう。 君が与えてくれたこの難儀で愛おしい感情と共に、これからも生きていく』 ——自身を良く思わない輩に襲撃され、死にゆく大久保利通役の奏が、過去の輝かしい日々を回想しながら、そんなセリフを遺して幕を閉じる。 重厚で、決して爽やかな終わりとは言えない内容であった。 大久保と西郷の決別。 二人に振り回される高官たち。 遠くなっていく、穢れのなかった日々の記憶—— ハッピーエンドではないため、この映画を好きだと感じる人ばかりではないだろう。 戦争のシーンでは人の首が飛び、おどろおどろしい表現がいくつも登場するようだ。 だが、響はこの映画の完成を観てみたいという想いに駆られた。 『血染めの理想郷』 そんなタイトルの映画があったことすら知らなかった。 今撮影をしているということは、元の時代で考えると 映画が公開されたのは響が産まれる少し前、それか赤ん坊の頃ぐらいのことだろう。 元々、そんなにドラマや映画などの映像作品には関心が薄く 音楽にばかり傾倒してきた響にとって、これが観たことのない作品であってもおかしな話ではなかった。 響は、元の時代で観たことがなかったから尚のこと、この役を奏がどう演じるのかが気になった。 ——10月に入り、本格的な撮影が始まった。 奏の事務所のスタッフで、身の回りの世話をする助手という名目で、響も撮影現場に同行することを許してもらえたため 響は奏が演技する姿を毎日見守るようになった。 元々表情の変化に乏しく、声に抑揚もない奏だが、 『血染めの理想郷』の大久保利通は、沈着冷静で寡黙な人物という役柄だったため 五十嵐監督もそこまで細かく演技指導をすることはしなかった。 むしろ、脚本の言い回しなどを奏が話しやすいものに書き換えたりと、監督は奏のありのままをなるべく生かそうとしている節があった。 もう一人の主役である西郷隆盛役の俳優・速水右京は子役上がりの実力派で、 彼と同じ場面で演技をしていると、明らかに奏の素人感が際立った。 あまりにも実力差があるため、響と早苗は 「今の演技で大丈夫かな……」 などと心配しながら見学していた。 すると奏は、休憩の合間に響の元へ近寄り、今の演技がどうだったかを聞くようになった。 「そうだなあ。間の取り方を、もう少し溜めてみるのはどうかな」 「間?」 「うん。さっきのシリアスなシーンとかは、速水さんがセリフを喋った後、気持ち一拍ぐらい置いて話すとバランスが良いかも」 「一拍って具体的には?」 「一秒くらい」 「BPM60か。分かった」 奏は響のアドバイスを聞くと、休憩明けにそれを踏襲した演技をしてみせた。 元々ドラマも映画もあまり見ない響は、自分が演技指導をできるような知識がないことはわかっていたため 自分よりも五十嵐にアドバイスを求めるべきでは?と思った。 しかし奏は、五十嵐の指導は聞きつつも、自発的に疑問や意見を言いにいくのは響相手にばかりだった。 「さっきのシーン、監督からは 『大久保は自分の本心を隠して西郷にきつい言葉をぶつけている。無表情に見せつつも、心の中で傷を負っているような、切ない演技をしてほしい』って言われた。 ——どうしたらいいと思う?」 「ええっ……それは難しいな……」 「まず、大久保の本心って何」 「……大久保は本当は西郷が好きなわけでしょ。 でも立場ってものがあるから、西郷には厳しいことしか言えない。 きつい言葉を言ってるのは大久保だけど、その言葉で真に傷ついてるのは大久保のほう。 そういうのを、目線とか声のトーンで表現してみてってことじゃないかな」 「どんな目線で、どんな声のトーンだったらいいと思う?」 「そこまではわからないな……。 とりあえず色んなトーンのパターンを試してみたら、そのうちのどれかに監督がOKを出すんじゃない?」 「『色んな』って言われても、程度が分からないんだよ」 「だから、具体的な指示は監督に聞いた方が絶対に良いって」 「……」 奏は少し考えた後、じっと響を見た。 「じゃあ——西郷を響だと思って演じてみる」 ん? それを言うなら『響を西郷だと思って』演じるんじゃないのか? 響は少し引っかかったが、 「そのままここに立ってて」 と奏に言われ、大人しくその場に留まった。 奏は響から数歩後ずさると、先ほどカメラの前で発していた言葉を再び口にした。 「僕は昔からね、君の脳みそは筋肉でできているんじゃないかと思っていたよ。 君の考え方は、日本国を破滅に導かんとしているように思えるね。 合理性を欠いた主張しかできないようでは、誰も君の言葉に耳を貸さなくなるだろうよ。 分かったら……俺の案に、黙って従ってくれないか? そうでなければ、俺は君と——道を違えなければならなくなる」 たっぷりと間をとり、視線を外しながら話す奏。 自分の口から発する辛辣な言葉を相手はどう受け止めているだろう。 それが怖くて、真正面からぶつけることができない。 しかし最終的には、相手の反応が気になってしまい、恐る恐る目線を向ける。 その瞳は怯えた子犬のようで、どこか母性本能をくすぐられる—— 「——今の、どうだった?」 「……あっ」 はっ、と我にかえる響。 今の演技があまりにも自然で、演技を見せられていることをすっかり忘れてしまっていた響。 びっくりした。 今、奏の切ない視線が自分の目を捉えた時、 守ってあげたいという思いに駆られてしまった。 口ではこちらを傷つけようとしてきているのに、言っている奏のほうがどこか辛そうにしていて—— そんなに強がらなくてもいいのに。 俺はそんな駆け引きに乗るような人間じゃない。 君の本心は分かっているつもりだ。 ……そう返してあげたくなってしまった。 「——とても良かったよ。 今の感じで、本番も演技してみたら?」 「……わかった」 奏は頷くと、休憩を終え、五十嵐や速水のいるセットの方へ戻って行った。 家に帰って来てからも、奏は台本を読み込んでいる時間が多くなった。 響が食事を作って同じテーブルで食べている時も、奏は箸を持つ手を止めて台本を見ていたりする。 リビングにいる時も、幕末や明治初期を描いた作品のレンタルDVDで言い回しを研究していた。 響が話しかけても、暫く反応がないこともあったため、家に居ても響が奏に話しかけられる機会は減っていった。 響がピアノの部屋で勝手に演奏していても様子を見に来るようなこともなく、お茶やお菓子の差し入れを求めることもしなくなった。 撮影のないオフの日でも、「監督と演技の勉強をしてくる」「速水さんと演技の打ち合わせをしてくる」と言い、家を空けて映画関係者と会っている時間が長くなった。 そのうち撮影現場でも、奏が響に演技のアドバイスを聞いてくることはなくなった。 日に日に奏の演技は上達して行き、その一方で会話が減っていく二人。 家に居ても撮影現場にいても、奏と話すことのないまま 響は一人でいるか、奏以外の誰かと過ごしている時間が増えていった。 ——奏は凄いな。 あんなに演技に集中できて、学んだことをすぐ吸収して再現していく。 あの人の才能は作曲だけじゃなかった。 たぶん、芸術家肌ってこういう人を言うんだろう。 俺にはとても真似できない。 響は、カメラの前で魅せる演技を身につけて行き、周囲から褒められる奏の姿をじっと見守っていた。 撮影が始まるまでは、ちょっとウザいなって思うくらいに俺をこきつかったり、質問攻めにしてきたりしていた。 俺のことをあれこれ知りたがって、俺に何でもやらせようとして、 面倒くさいなって思うことすらあったのに。 奏の為に作るケチャップ薄めのオムライスも、砂糖なしの煮出して作るミルクティーも、二箱はストックしておく棒アイスも 奏がいつのまにか求めてこなくなったことで 響は自分の役割を失ったような気さえしていた。 奏は今、演技に夢中になってる。 真面目で集中力のある奏は、このまま俳優としての才能を開花させていくんじゃないか。 いや、もう花開いているように見える。 奏がキラキラして見えて、眩しい—— そう思うと同時に、響は元の時代にいた頃の自分を思い出してしまった。 それに比べて、俺は—— ピアニストになることも諦め、作曲家になることも諦めて 遊びや恋愛に逃げ、そこそこの仕事で満足していた。 仕事で褒められたり、可愛い子にアプローチされたり、そんなことで承認欲求を満たして自分を誤魔化していた。 本当は音楽で認められたかった。 音楽で誰かに褒めてもらいたかった。 音楽で人を喜ばせたかった。 音楽で自分の渇望を満たしてやりたかった。 だけど今の俺なんかじゃ、何者にもなれやしない。 俺には才能がないのだから。 今さら努力したって無駄。 俺がどれだけ頑張ったところで、俺は如月奏を越えられることはない—— そう思いながら、生ぬるい日々を送ってきた自分が情けなくて、目を背け続けていた。 俺は自分の憧れだった人と生活を共にしてから その人のわがままだったりだらしなかったり、弱い部分を見たりして—— 肩を並べて歩けた気になっていた。 奏と同じ足並みで歩けているつもりになっていた。 でも、それはとんでもない勘違いだった。 本当は——俺と奏の関係は『カノン』だったんだ。 俺が追いついたと思っても、奏はそれより先を行ってて。 後ろから追いかける音は、先を行く音を追い越すことは決してない。 カノン——追走曲とはそういうものだ。 俺と奏の場所が入れ替わるようなことは、決してないのだろう—— 奏が演技に磨きをかけていく一方で、日に日に元気をなくしていく響。 ある時から、奏の撮影現場に行くことはしなくなった。 生き生きと芝居をして、周囲から褒められて、本人は無自覚だがいつも輪の中心になっている奏を 輪の外から眺めていることしかできない自分に嫌気がさしたからだ。 まるで自分が、主人公の圧倒的存在感に嫉妬する、名前すらないモブのように思えた。 そして、自分の存在などすっかり忘れて大久保利通になりきる奏に苛立つのか、 そんなことを考えてしまう自分に苛立つのか、曖昧でもやもやとした気持ちに支配されていった。 「——ねえ。今日も来ないの」 ある日の朝、出かける支度をしている奏が、キッチンで洗い物をしている響に尋ねてきた。 「うん。家の掃除もしたいし…… それに奏、もう俺にアドバイスとか求めて来ないでしょ? 俺がいなくたって、ちゃんと演技できるようになったじゃん」 視線を合わせずシンクを拭いていると、奏は響の側へ近づいて来た。 「——響、撮影現場に居て」 「なんで?俺ってあの場に必要?」 「必要。俺、響が見てるからちゃんと演技できるんだよ」 奏は鞄の中から台本を取り出した。 表紙がボロボロになった台本を、奏はペラペラとめくって見せる。 中にはびっしりと書き込みがされており、奏が懸命に演技の勉強をしていることが見てとれた。 だが、奏が台本の中がよく見えるよう、響の目の前にずいっと差し出すと、そこに書いてある内容に響は言葉を失った。 『ここを溜めて話したら、響に褒められた』 『響が微妙な反応をしてた。演じ方を変えた方が良さそう』 『このやり取りでは響が真剣に見入っていた』 『このセリフに響がくすりと笑っていた。ここは少しおどけてみせる演技が良さそう』 台本の中に書き込まれていたのは、監督からのアドバイスでも、共演者からのコメントでもなく すべて奏が演技している時に見せる響の言動や挙動を書き留めたものだった。 「……は、は……」 ——あんなに集中して演技しているように見えたのに。 俺の気づかないうちに、こんなに俺のことを観察していたのかよ。 西郷役でもカメラでもなく、俺のことばかり見ていたのかよ。 「笑わないで。俺、困ってるんだよ。 響が来なくなってからのこの一週間、台本に書けることが無くなってしまった。 後から振り返っても、どう演じればいいのか、その時自分がどう演じたのかを思い出せない」 奏は真剣な表情で響に言った。 「響、言ったじゃん。 俺をサポートしてくれるって。 俺が最後まで仕事をやり遂げられるようにしてくれるって」 「……言ったけど……俺がいなくてもどうにかなると思ったから、俺——」 「だめ。響がいないと、だめなんだよ」 「……っ」 なぜだか、奏の言葉が嬉しくて胸に沁みた。 俺よりいつも先を走っている、どうやっても追いつけない存在のはずなのに。 その存在は、俺のことが必要だと思ってる。 カノン——追走曲は、一つの進行だけでは成り立たない。 後から追いかけてくる進行があって、同じ終着点を目指して進んで行く。 そして追走しているからこそ音に深みが生まれ、感動が生まれる。 カノンは、常に奏が先を進行しているけれど、 俺がいなければ成り立たない追走曲でもある……? 「……分かった。一緒に行くよ」 ——この日の撮影はスタジオではなくロケ地へ移動してのものだった。 共演者やスタッフと共に大型バスに乗り込み、撮影するための地方へ向かう。 「建物の中とかはセットで組めるんだけど、この時代の町の様子まで再現するにはお金と場所がかかり過ぎるからさ。 よく幕末をテーマにした作品を撮る時に使われるロケ地があるから、そこで四泊くらい滞在して撮影するんだって」 行きのバスの中で、奏が響に行った。 「泊まりがけなんて聞いてないんだけど!? しかも四泊て……!」 何も聞かされず、今日もいつもの都内のスタジオで撮影するのだとばかり思っていた響。 バスに乗せられた時、他の演者たちがスーツケースを持ち込んでいるのを見て違和感を感じていたが、まさか遠方に泊まりがけとは思ってもいなかった。 「俺、泊まる準備何もして来てないよ!」 「大丈夫じゃない?旅館に泊まるそうだけど、そこで何でも貸してもらえるらしいし」 「何でもじゃないだろ!着替えはどうするの」 「浴衣も旅館のを貸してもらえるそうだよ」 「いや、旅館の中ならいいけど撮影現場にその格好では行けないだろ! っていうか奏は泊まりがけって知ってたのに、それしか持ってこなかったの?」 響が、小さな鞄で来た奏に指摘する。 すると奏は首を傾げて言った。 「逆に、他の人って何をそんなに持って来たの? 俺、旅行とかしないから、何を持って来ればいいのか分からなかった」 「はぁ……それなら俺に聞いてくれたら、一緒にパッキング手伝ったのに」 「……だって響、最近元気がなかったから……」 「え?」 「だから手伝いとか頼むのは気が引けてしまった」 驚いた。 奏が俺に遠慮するなんて。 「——なんか、頼みにくい雰囲気出してしまってたなら謝るよ。 別に元気がなかったわけじゃないよ」 「そうなの?」 奏はどこかほっとしたように表情を緩めた。 「初めての旅行だけど響と一緒だから、何かわからないことがあった時に聞けて安心」 「いや、映画の撮影なんだから旅行じゃないでしょこれは」 「じゃあ、今度遠くに行く時は旅行がいいな」 奏はそんなことを言いながら、窓の外の景色を見た。 「——曲を作る時に、近くを散歩して自然に触れることはよくしてた。 でも、こんなに遠くまで来たことはない。 行ったことのない場所に行ったら…… また、音楽が作れるようになるといいな」 「……奏」 響は、奏が生き生きと芝居をしているために忘れかけていた。 今、奏が作曲のスランプ状態にあることを。 演技にのめり込んでいるように見える今も、奏の中では音楽に対する焦りがあるのかもしれない。 ……仮に、この映画をきっかけに奏が俳優の仕事も楽しいと思ったとしても…… 奏はきっと、音楽の道に戻って来るんだろうな。 だって奏はこのあとの世界で、あの名曲を生み出すはずなんだから。 ……俺のせいでその歴史が改変されてしまっていなければ、の話だけど…… 「……じゃあさ。 奏がまた新しく曲を書いたら——それができた時に、旅行しよっか」

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