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血染めの理想郷②
響はふと思いつきでそう言った。
旅行がしたいと言う奏に、スランプを抜けたらご褒美として旅行ができることを提案すれば、もしかするとやる気を出してくれるかもしれないと思ったからだ。
すると奏は思いのほか目を見開いた後、やがて目を細めた。
「……じゃ、頑張らないと」
そう言って奏が微笑む。
「あ……」
「何?」
「いや……。奏が笑うの、いつぶりだろう?って……」
「演技の時、結構笑うシーンあったけど」
「演じてる笑いじゃなくて、自然に溢れてくるようなやつだよ」
「ああ。確かに、笑ったのは久しぶりかも」
奏はじっと響を見ると、その後眉間に皺を寄せた。
「俺が全然笑えてなかったの、響のせいだ」
「……うん」
「言い返さないの?」
「だって……自覚あったから。
俺のせいで、奏が色々ともやもやしてるんじゃないかと思ってた。
——でも、俺だって最近笑えてなかったのは奏のせいだよ」
「なんで」
「奏が……あんまり俺と話してくれなかったから……」
何でこんなことを言ってしまうんだ。
これじゃまるで、俺が奏に構ってもらえなくて拗ねていたみたいな言い方じゃないか!
「——俺と話せなくて、寂しかった……ということ?」
「はぁ!?寂しいとか思ったことないよ!」
咄嗟に響が否定すると、奏は鞄から台本を出し、パラパラとめくっていった。
「今の、ほんと?
この台本だと、西郷が俺の演じる大久保に対してこう言ってるよ。
『お前と話が出来ないことほど寂しいことはない。
俺はお前といくらでも対話をするつもりで、腹を括ってここへ来た。
お前の考えを、洗いざらい話してみてくれんか』——って」
すると響は、呆れたように苦笑いを浮かべた。
「それはあくまで西郷のセリフだろ?
俺は別に、奏と会話できないから寂しいなんてことは思わないよ」
「そうなの?西郷と響は、何が違うの?」
「何って、考え方も性格もまるで違うと思うけど。
昔の時代の偉い人の考えなんて、俺には到底理解できないよ」
「でも、監督は言ったよ。
『登場人物全員の気持ちが分からないと、心のこもった演技はできない。
心のこもってない演技は、見ている人の心を掴むことはできない』って。
——西郷が『話せなくて寂しい』と言ったのは、本心ではなかったということ?
俺、そこの認識を間違えたまま演技していたかもしれない」
奏が演技について気にし出したため、響は仕方なく答えた。
「いや、西郷の言葉は本心そのままだと思うよ……。
大久保はつむじ曲がりだから、本音とは逆の言葉を口にすることが多い。
だけど西郷は真っ直ぐな人だから、思ったことをそのまま言葉にする。
だから西郷の言う『寂しい』は、本当に寂しいんだと思う」
「つむじ曲がり?」
それを聞いた奏は、突然両手を頭の上に乗せた。
「……何、してるの」
響が、突然の謎の行動について尋ねると、奏は後頭部を触りながら答えた。
「大久保はつむじが曲がってるんでしょ?
俺のつむじはどうなってたかなと思って……」
奏が大真面目に頭のつむじを探しながら言うため、響は思わず噴き出してしまった。
「ははは……っ!
つむじ曲がりって、そういう意味で言ったんじゃない……あははは!!」
「ねえ。笑ってないで、どういう意味で言ったのか教えて」
あまりに響が笑うため、奏は困惑した様子で聞き返した。
「そうだなあ、ひねくれ者とでもいうか……」
「ああ、ひねくれ者。
最初からそう言ってくれたら良かったのに」
「つむじ曲がりで通じると思ったんだよ。
まさか自分のつむじを押さえるとは思わなかったから——ああ面白かった」
響は深呼吸をしたが、まだどこかおかしそうに笑っていた。
「……」
奏は、どこか不服そうにしながらも、頭から手を放した。
「ふふ。二人が仲直りしたみたいで良かったわぁ」
——前の席に座っていた早苗が、身を乗り出して二人を覗き込んできた。
「この一週間、サツキくん現場に来てなかったから、今日もそーちゃん一人で来るかなって思ったけど……」
早苗は大きなボストンバッグから一冊の雑誌を取り出すと、「じゃーん!」と言って響に見せた。
「ロケ地の近くにある旅館に泊まるって話は聞いたわよね?
ここ、温泉マニアの間では人気の温泉街でね。
美肌の湯ってことで有名なとこでもあるの!」
「……マネージャーは、温泉に入るのを楽しみについて来たらしいよ」
奏が響に言った。
「へえー、美肌の湯……」
響は、早苗から受け取った旅行雑誌をめくり、温泉街について紹介されているページを見た。
すると、見ている途中で早苗が話を続けて来た。
「それだけじゃないの!
この温泉街には色々観光スポットが点在してるんだけど——
目玉は何と言っても縁結び神社!
ここでお参りして恋のお願いをすると叶うって有名なんだからぁ!」
「……マネージャーは、この縁結び神社にお参りするのを楽しみについて来たらしいよ」
奏が再び言った。
「はは……加納さんは完全に、仕事というより観光目当てで来てる感じですね……」
「ここの温泉で美しさに磨きをかけて、神様に素敵なご縁をお願いすれば、怖いものナシだもの!
——っていうか、そういうサツキくんだって観光目的で来てるんじゃないの?」
「いや、俺は奏について来てって言われたからで……。
まあ、でも……温泉は久しぶりなので、ちょっとは楽しみですけど……」
——三人が会話をする間にもバスは移動を続け、長い時間をかけて目的の温泉街へ到着した。
着いた頃にはすっかり日が沈んでいた。
「はぁー。途中で休憩を挟んだりしたけど、長旅だったわねえ」
バスを降りた後、早苗が大きく伸びをする。
「秋に入って、日が沈むのも早くなったし。
——あ、そうそうサツキくん。
この地での撮影は日のある時間に撮りたいそうだから、基本そーちゃんの仕事は朝から夕方までなの。
毎夜はフリータイムだから、各々好きに時間を過ごしていいことになっててね。
だから今夜は、二人の部屋にお酒を持ってお邪魔するわね!よろしくー!」
「二人の部屋?」
響がきょとんとすると、早苗は
「あれ?言ってなかった?」
と小首を傾げてみせた。
「演者もスタッフも、基本2人部屋で押さえてあるの。
サツキくんはそーちゃんと同じ部屋よ!」
「え!?」
響は目を丸めて、「聞いてないですよ!?」と訴えた。
「今日サツキくんが来るか分からなかったから、とりあえずそーちゃんはサツキくんとセットで部屋を押さえてもらってたの。
サツキくんが来なければ一人でのびのび使えるだろうし、来たとしても、普段から同じ屋根の下で暮らしてるあなた達なら気兼ねせずに過ごせるでしょ?
四泊も泊まるのに、それほど親しくない人同士で同室になっても気まずいだろうから、私が宿泊先手配するスタッフさんに言葉添えしておいたのー」
早苗は感謝しろと言わんばかりに鼻高々な様子で語った。
奏と同室——
いや、確かに奏とは同じ家で暮らしているけど……大きな屋敷で部屋数もあるし、寝る時は別々だ。
でも旅館となると、寝る時までずっと同じ空間にいるってことになるよな。
……四泊も、やっていけるだろうか……
「——響がイヤなら、組み合わせ変えてもらってもいいけど」
響が戸惑っているのを表情から察したのか、奏が申し出た。
「えっ!?」
「俺と寝る時まで同じ部屋なのはイヤなんじゃない?」
「……別に、そんなことは……」
そう答えつつ、どこか身構えてしまう自分がいる。
奏のことは尊敬してるし、友人だと思ってるけど、
もし突然抱きつかれたりなんてしたら——
俺が奏を咄嗟に振り払ってしまわないか心配になる。
「マネージャー。部屋、今から変えられる?」
奏は、響が歯切れの悪い返事をしたため、早苗に相談をした。
「ええっ!?二人、同室ダメだった?
……うーん、できるかちょっと聞いてくるね……」
早苗は困惑しつつ、スタッフに確認を取りに行った。
そして二人の元へ戻って来ると、残念そうにかぶりを振った。
「ごめんねえ。部屋の空きがもう無いみたい。
連泊するし人気の温泉街だしで、かなり前から予約してギリギリ確保できたレベルなんだって。
で、男女が同じ部屋にならないように調整したから、仮に私とそーちゃんで同じ部屋に変えてもらったとしても、私と同室になるはずだった女性スタッフさんがサツキくんと同室になっちゃうわけ。
女性スタッフさんも戸惑うだろうし、サツキくんも気を遣うでしょ……?」
「そういうことなら、大丈夫です」
響は申し訳なさそうに頭を下げた。
「土壇場で確認に行かせてしまってすみません。
——奏と俺の同室で問題ないです」
加納さんにも迷惑をかけた上に、こんな態度じゃ奏のことも傷つけてしまったよな。
ああ……でも、どうしたらいいんだ。
ここにいる間——いや東京に戻ってからもだけど、奏とどんな距離感で関わっていくのが正解なんだろう。
——チェックインの手続きを済ませ、スタッフや演者は各自の部屋へ散って行った。
撮影は明日の朝から始まるため、ここからは完全にフリーになる。
「……確か、夜に加納さんがお酒を持って遊びに来るって言ってたよね。
まだ夕方だし、俺は先に温泉に入って来ようと思うけど」
客室につき、荷物——といっても小さな鞄一つを畳に置いたところで響が言った。
「どうする?奏も一緒に入りに行く?」
「……俺は温泉はいいや」
「そっか。じゃ、行って来るよ」
響は、どこかほっとした気持ちで答えると、部屋に備え付けの浴衣やタオルを持って部屋を出た。
響が大浴場に着くと、そこには既に先客がいた。
「あ。五十嵐監督と、西郷——じゃない、速水さん!」
「おう!君か」
「お疲れっす!」
響は先客が五十嵐夏央と速水右京であることを認識すると、「お疲れ様です」と声を掛けた。
身体を洗って温泉に入ると、とろりとした柔らかい湯が身体を包み込み、自然と緊張がほぐれていくのを感じた。
「はー……気持ち良い」
目を閉じたまま、思わず声に出してしまった後、ハッと響は我に返った。
目の前で、五十嵐と速水が笑みを浮かべている。
「あっ、すいません……!」
「いやいや、いいんだよ」
「この温泉、気持ち良いっすよね!」
それぞれからフォローが入り、響は恐縮した。
「いやー、しかし……」
五十嵐はそのまま、速水と響を囲んで話し始めた。
「奏君は本当に努力家だね。
一緒に仕事をするまでは天才肌だと思っていたけれど、彼、根性も凄いよ」
「それに素直な人っすよね。
監督の指示の意味がわからなかったら聞き返したり、俺に聞いて来たり。
俺この業界長いっすけど、下手に長いせいか変な見栄が働いて、人に聞くのが恥ずかしいって思っちゃうことがあって。
奏さんはそういうのを恐れずにガンガン聞いて吸収するんで、そりゃ成長も早いよなーって思いますもん」
二人が奏を褒めるのを聞いて、響はなんだか自分まで嬉しい気持ちになった。
奏の頑張りが周囲に認められているんだな。
本人がこの話を聞いたら喜ぶだろうなあ。
「——そういえば、奏さんと同室なんすよね?
奏さんは温泉入りに来ないんすか?」
速水が尋ねてきたため、響は
「奏は温泉はパスみたいです」
と答えた。
「そっすか……。
これからの撮影のことで、ちょっと相談したいことがあったんすけど……まあ明日話せばいいか」
速水が少し残念そうにしたため、
「相談したいこと?」
と聞き返した。
「このロケ地で撮影するシーンの中で大久保が、俺の演じてる西郷に対して初めて自分の本心を打ち明けるんす。
西郷に向ける気持ちには特別なものが含まれていることを仄めかすんすけど、西郷は鈍感だから気付かない。
大久保はそれに苛立って、また西郷を責めるような言い方をしてしまう。
そこで西郷が言い返して、激しい口論に発展しちゃうんすけど——
どういうテンションで演じようかって悩んでて」
「そう。監督である私も、そこをどう演じてもらうかまだ決めかねていてねえ……」
五十嵐も悩ましげに、湯の中で腕を組んだ。
「脚本では、激しい口論の末に、とうとう大久保はいつもの冷静さを欠いて、ついに本音の言葉を告げてしまうんだ。
大久保が素直な心のうちを真っ直ぐにぶつけるのは、これが初めてのシーンになる。
西郷は、大久保が自分に向ける想いを知って戸惑う。
——激しい怒り、動揺、葛藤……
ワンカットの中で様々な感情の揺らぎが生まれるこのシーンは、大久保役の奏君と西郷役の右京君の息を上手く合わせて欲しいんだ。
的確な指示を私が出せれば、奏君はそれを再現してくれるとは思うんだけどね。
肝心の私の中にも、まだ具体的なイメージが浮かんでこないんだ」
五十嵐と速水はその後も、ここはセリフの言い回しを変えた方がいいのではないか、など演技について熱く語り合っていた。
相槌を打ちながら聞いていた響だったが、だんだんとのぼせてきた。
それに気づいた速水が「そろそろ上がりましょうか」と声を掛けたことで、三人揃って湯を出た。
脱衣所にて、響が裸の身体に浴衣を羽織ろうとすると、速水が「あれ?」と声を掛けてきた。
「下着、部屋に忘れてきたんすか?」
「……あー、実は……」
響は、今日から泊まりがけの撮影だということを知らされずに来たため、着替えを持ってきていないことを伝えた。
「そういうことっすか!
——あ、俺ちょうど新品の下着持ってきてるんであげますよ。
私服も多めに持ってきてるんで、良かったら貸しましょうか」
響は、それは申し訳ないと一度断ったが、速水は一度自室に向かい
新品未着用の下着と、私服の上下セットを持って戻ってきた。
「下着は全然気にしないでください。
ウニシロでセールの時にまとめ買いしたやつなんで。
私服も多めに持ってきたものの、日中は撮影で別の衣装を着るし、旅館では浴衣のがラクなんで、あんまり着る機会ないと思うんす」
速水の気遣いに感謝し、響は新品の下着を身に付け、浴衣を羽織って自分の部屋に戻った。
「ただいま」
響が部屋の戸を開けると、奏は浴衣姿で布団の上に転がっていた。
「長かったね」
奏は布団の上で台本をめくりながら返した。
「うん。大浴場で監督と速水さんに会ってさ。
二人のお芝居への情熱あふれる話を聞いているうちにすっかりのぼせてしまったよ」
「ふうん」
「二人とも、奏のこと努力家だって褒めてたよ」
奏は「へえ」と興味なさげに返した。
「あと、速水さんから着るものを貸してもらった。
明日何を着て撮影現場に顔を出せば良いかって困ってたから、ほんと助かったよ」
「着るもの?」
奏が顔を上げた。
「うん。新品の下着は譲ってくれたもので、こっちが速水さんの私服」
響は机の上に置いてあるシャツとパンツを指差した。
「俺が着るには不似合いというか、ちょっと気恥ずかしい派手目なデザインだけど、速水さんの私服ってすごいお洒落だよね。
これ海外のブランドのものだと思う」
響はシャツを自分の身体にあてがいながら、服のデザインをしげしげと観察した。
すると奏は、響があてがっていたシャツをむんずと掴んだ。
「ほんとだ。響に全然似合ってない」
「や、それはそうだけど……」
「こんなの着なくていいじゃん」
そう言って奏がシャツを取り上げたため、響は「何するんだよ!」と言ってシャツを奪い返した。
「せっかく速水さんが善意で貸してくれたんだから、着るよ。
っていうか、これ着なきゃ現場に行けないし」
「今の格好で来ればいいじゃん」
「これ浴衣じゃないか!旅館の外には着ていけないよ」
「響が何着てるかなんて、誰も気にしないと思うけど」
「いや、モラルを問われてしまうだろ。
——っていうか、奏が泊まりがけだってちゃんと教えてくれていたら、俺だって人から服を借りたりせずに済んだんだけど?」
響が少し苛立ったように言うと、奏は不機嫌そうに起き上がった。
「……俺、シャワー浴びてくる」
奏はそう言って、部屋に備え付けのシャワールームへ篭ってしまった。
……子どもかよ!
響は、自分の落ち度を責められたことで逃げたと思われる奏に対して、心の中で毒付いた。
そして奏がシャワーに行った直後、部屋の戸をコンコンと叩く音が鳴り、酒を持った早苗が入って来た。
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