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『My Chocolate』②
それを聞いた奏が固まり、同様に響も一瞬固まってしまった。
早苗だけは
「あらぁ。速水くんも知ってたの?」
と朗らかに返した。
「ええ、まあ。遠征ロケで秋祭りに行った時に、二人が手を繋いで歩くのを見ましたから」
速水はカラッと笑うと、響を見て言った。
「マネージャーさんは二人の関係を知ってるみたいだから、喋ってもいいよな?
あの晩、奏さんを追いかけて走って行った響を見て——二人、何かあるなって思ったよ。
そしたら帰りがけ、仲良く手を繋いで旅館に戻る姿を見かけたから……そういうことなんだなって察したわけ」
速水は、その後「あっ誰にも話してないから安心しろよな!」と付け足した。
「そっか……見られてたのか」
黙って俯く奏とは反対に、響は苦笑いを浮かべながらも口を開いた。
「うん。あの日がきっかけで俺たち、恋人になったんだ」
響が隠すことなく言うと、早苗は
「旅先で恋に落ちるなんて素敵ねえ」
とうっとり目を細めた。
「まるで最近そーちゃんがお仕事で関わった『My Chocolate』のストーリーみたい!」
「——あれは海外で出会った男女が恋する話じゃん。
俺と響はそれ以前から出会ってるし、男同士だし、全然違うよ」
黙っていた奏がぼそりと言った。
「そーお?でも、ロマンチックなシチュエーションってことは共通してるじゃない!
いーなあ、私も恋したいなあー」
早苗が言うと、速水は
「マネージャーさん、彼氏いないんですか?」
と尋ねた。
「暫くいないわねえ。
社会人になってから、ずーっと仕事一筋でやって来たから」
「へえ。こんなに美人なのに、もったいない」
「美人って褒めてくれるのはありがと!
でも、美人だったら恋愛してなきゃいけないなんてことはないでしょ?」
「はは、おっしゃる通り。
——でもそういうことならば、マネージャーさんをデートに誘っても、それに怒るような相手はいないってことっすよね?」
速水が意味深な言葉を投げかけると、奏は突然立ち上がり、ツカツカと速水のほうまで歩いて来た。
「マネージャーのこと口説こうとしてる?
やっぱりチャラいじゃん、あんた」
「ちょ、奏——」
奏が喧嘩腰になっているのを察し、響は顔を青くして止めに入ろうとしたが、
その前に早苗がケラケラと笑ってみせた。
「えーっ、嘘!今、私口説かれちゃってたのぉ?」
そうやって場の空気を悪くしないよう、早苗が気を利かせているのだと響はすぐに気づいたが、
奏はそれを察することなく早苗に言った。
「マネージャー、こんな安っぽい口説きに引っかかっちゃ駄目だよ。
そうやって前にも変な芸能関係者にホテル連れ込まれそうになったんでしょ?」
「やだっ、その話を今持ち出さないでよ。
確かに業界人のパーティーにお呼ばれして、高いワインを飲んでちょっと酔っ払っちゃってたけど……
ホテルに連れ込まれる前にちゃんとタクシーに乗って逃げたもの!」
「マネージャーの『ちょっと』は『ちょっと』じゃ済まないんだよ」
「だ、だって……」
「とにかく、こんな口説きに乗ってデートしたって、相手は本気じゃないことが多いんだから。
耳を貸さないほうがいいよ」
「待ってください。
俺が『本気じゃない』なんて奏さんに決めつけてほしくないですよ」
すると、早苗と奏のやり取りを聞いていた速水がそう遮って言った。
「俺、『2月のセレナーデ』の撮影が始まってから、いつも現場に来ているマネージャーさんのことを見てたんです。
周りに気が遣えて、一生懸命仕事してて、奏さんに対して明るく優しく接しているマネージャーさんを見てて、
こんな人と付き合えたら楽しいだろうなあってずっと思ってました。
マネージャーさんの仕事に支障をきたすのは悪いと思って、撮影中はあんまり話しかけられなかったけど……
『2月のセレナーデ』をクランクアップした今なら、デートに誘うチャンスだと思ったんです。
——気になる人を誘うって、この歳でも結構勇気がいるんすよ。
『安っぽい口説き』ってな一言で片付けられたくはないっす」
「……速水くん……」
早苗がぽかんとして速水を見つめていると、響が奏を小突いた。
「奏。二人に謝りなよ」
「は?なんで」
「早苗さんのお酒の失敗をここで持ち出すのも、速水さんの真剣な気持ちを軽い口説きだと決めてかかったのも、奏が悪いよ」
「……」
奏が口をつぐむと、速水は真顔から一転して笑みを浮かべた。
「ああー、撮影前なのになんかマジなトーンで話しちゃってすんません!
俺、全然傷ついたり怒ったりしてるわけじゃないんで!
軽いか重いかはおいといて、マネージャーさんを口説いたのも事実っすから!」
速水は奏に言い、早苗にも
「突然こんなこと言って、すみませんでした!」
と謝ると、先にスタジオに行っていると言い残してメイクルームを去っていった。
「……」
速水が居なくなった後、早苗も奏も、それぞれに何かを考え込むように押し黙ってしまった。
「……奏。なんで謝らなかったの」
暫くして、響が嗜めるように言った。
「速水さんに謝れとか、俺に強要しないで。
保護者じゃないんだからさ」
「でも、明らかに喧嘩を売ったのは奏でしょ。
それに右京の気持ちは本気だったっぽいのに——」
「本気かどうかなんて、口先だけならなんとでも言える。
俺は——マネージャーに傷ついて欲しくないから……
ああいう冗談なのか本気なのか分からないような口説き方をしてくる奴にはマネージャーのことを任せられない」
奏が言うと、早苗は奏のほうを見た。
「……そーちゃん」
早苗は名を呼ぶと、奏に近づき、ぎゅっと身体を抱きしめた。
「嬉しいっ!私の身を案じてくれてるのね……!」
「それはそう」
早苗に抱きつかれながらも、表情をむすっとしたまま奏が返すと、
「うれしー」
と再び言い、早苗は泣き出してしまった。
「っ、加納さん、大丈夫ですか?」
響が慌てて尋ねると、早苗は奏から離れ、身に付けていたポシェットから手際よくハンカチを取り出した。
「大丈夫。泣くのに慣れてるから」
アイメイクが崩れないよう下瞼を優しく抑えながら、早苗は自分の涙を拭った。
「……はぁ。仕事ばっかりしているせいか、日常で気持ちが揺さぶられるようなことってあんまりなくてね。
逆に、ちょっとでも嬉しかったり悲しかったりした時には、すーぐ泣くようになっちゃって」
早苗はハンカチをしまった後、奏と改めて向き合った。
「そーちゃんが私のことを心配してくれてる気持ちがわかって嬉しかった。
それから……速水くんが口説いてくれたのも、正直嬉しいって思った」
奏が眉間に皺を寄せると、早苗は
「聞いてちょうだい?」
と言って奏を落ち着かせた。
「私確かに、初対面の人に軽い気持ちでナンパされることってよくあった。
お酒がなければ突っぱねられるところを、酔うとギリギリまでアラートが作動しなくなったり、そーちゃんを冷や冷やさせることが何度もあったと思う。
で……速水くんのことは、撮影現場で何度も挨拶をしてて、普通に業界慣れしている好青年の役者さんだな程度にしか今まで思ってなかったけど……
さっき彼が、私の仕事をしてる様子や周りと接している時の様子を見てくれてたって話をしてて、私のことをよく見ていた上で口説いてくれたんだなって分かった。
だから、すごく嬉しいって感じたの……」
早苗はそう言うと、奏の手をぎゅっと握った。
「最近のそーちゃん——サツキくんと恋愛するようになってからのそーちゃんは、凄く生き生きしてて楽しそう。
忙しそうだけど、幸せなオーラも放ってるって、側から見て思ってたの。
ここ最近で完成した『2月のセレナーデ』も『My Chocolate』も、今まで以上に素敵な音楽だし——
そーちゃんが恋愛を通して色々成長してるんだなって思ったら、私もそろそろ恋がしたいかもなんて感じ始めていたところだったの」
「……マネージャーは、速水さんと付き合いたいの?」
奏が怪訝そうな顔で聞くと、早苗はこう答えた。
「付き合ってみたら楽しそうだな、とは思ってる。
でも、それでそーちゃんが気にしちゃって作曲が手につかなくなるようだったら——」
「そんな遠慮はいらないですよ!」
奏が何か言うより早く、響が言った。
「加納さんの人生なんですから。
加納さんが付き合いたいなって思った人とお付き合いすればいいと思います」
「……」
奏が何も言えず俯くと、早苗は響に向かって微笑んだ。
「ありがと。
でもね、私の人生って、そーちゃんが常にセットなのよ。
私はそーちゃんの幼馴染であり、マネージャーでもあるから。
自分の身内——そして仕事のパートナーから応援してもらえないような恋愛だったら、しないほうがマシだと思うのよ」
「でも……それじゃ奏が良いって言うまで、いつまで経っても加納さんが幸せになれないかもしれないじゃないですか!」
「恋愛してなくても、今だって幸せは幸せよ?」
「……それはそうかもしれませんけど……
でも良いんですか?奏の言いなりで——」
「言いなりにはなってないわ」
早苗はきっぱりと答えた。
「私がそうしたくて、そーちゃんの意見を尊重してるだけだから。
——あ。そろそろ撮影が始まる時間よ。
みんな、行きましょ!」
早苗が腕時計を見て言うと、響と奏は彼女に続いてメイクルームを出た。
スタジオへ向かう途中、誰も一言も話さず気まずい空気が流れていたが、スタッフ達と合流すると慌ただしく奏の撮影が始まった。
「奏さん、こっちのカメラを見て、ニコッと笑いかけてもらえますか」
シャッター音が鳴り響く中、時折奏に表情やポーズに対しての指示が入る。
「うーん……ちょっとまだ固いですねえ」
先程のいざこざもあったせいか、奏の表情は一貫して固く、温度感のないものだった。
すると、困ったカメラマンが奏にこんなアドバイスを始めた。
「何か好きなものを思い浮かべてもらってもいいですか?」
「好きなもの?」
「想像すると笑顔になれるようなものを思い浮かべながらカメラを見てください」
「……笑顔になれるものが思いつかない」
「なんでもいいんですよ。
たとえば赤ちゃんとか」
「赤ん坊なんて、泣き声がうるさいだけでしょ」
「じゃあ動物なんてどうです?犬とか猫とか」
「犬も猫もそんなに好きじゃない」
「何かペットとか飼ったことはないですか?」
「動物全般、どこにでもフンするし、鳴き声もうるさいし、嫌い」
「——奏さんの表情が固いのって、さっきの俺のせいですかね」
スタジオの奥で響がハラハラと見守っていると、先にソロカットの撮影を終えていた速水が隣にやって来た。
「いや。右京のせいじゃないよ。
その後に俺が奏にあれこれ言っちゃったからだと思う……」
響が言うと、
「でも、その原因って俺だろ?」
と速水が申し訳なさそうに返した。
——その頃、どう提案しても笑顔を作らない奏に困り果てたカメラマンが、こう告げていた。
「……ええーと……じゃあ、笑顔はもう結構なので……
恋をしている表情を撮らせてもらいたいんですけど、そっちの方が難しいですかね……?」
「恋してる表情?」
奏が返すと、カメラマンがこう続けた。
「『2月のセレナーデ』って幕末の動乱と共に禁断の愛を描いている作品じゃないですか。
だから使命と恋心との狭間に揺れる大久保利通——の設定を活かしたカットを撮らせてもらいたいんです。
表情、作れそうですか……?」
すると奏は、カメラのフレームから突然消え、スタジオの奥へすたすたと歩いていった。
——速水と話し込んでおり、カメラマンと奏の会話を聞いていなかった響は
突然奏がやって来て腕を掴んだことに目を丸めた。
「な、何?」
「来て」
「えっ」
「速水さんも」
奏に引っ張られ、響が慌てて付いていく。
速水も、自分まで呼ぶなんて何事だろうと隣をついて行くと、奏は響をカメラマンのすぐ横に立たせた。
「ここで見てて」
奏はそう言い残すと、再びカメラの前に立ち、レンズに向かって視線を向けた。
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