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『阿古耶の松』①
——翌日、四人は旅館のチェックアウトを済ませ、バスで空港へ移動した。
「一泊って、ほんとあっという間だったなぁ」
「寝台列車でも一晩過ごしたから、二泊じゃない?」
飛行機の中で、窓の景色を眺めながら響と奏が話す。
「そうだった。——まあ、仕方ないよね。
右京がドラマの撮影中で、長い休みが取れないってのもあるし」
「……一日しか観光の時間がなかったのに、一緒に行動しなくてごめん」
「奏、もう謝るなって!」
響は奏の太ももをぽんぽんと叩いた。
「ほら、今だって一緒に空の旅を楽しんでるよ」
響が窓の外を眺めながら言うと、奏も空の景色を覗き込んだ。
「……飛行機って初めて乗ったけど、電車や車とは違う景色が見れていいね」
「そっか、奏は飛行機初めてなんだね」
「うん」
「俺も、寝台列車は初めてだったけど、いつもと違う景色を見れて楽しかったな。
空から眺める景色も、夜の街並みも、全部楽しい」
「うん。……響と一緒に見る景色は、全部綺麗」
奏は響の肩に顎を乗せ、満ち足りた表情で窓の外を眺めていた。
響はそんな奏を愛らしく思い、そっと肩に手を回して抱き寄せた。
羽田に到着すると、速水はそのまま仕事へ行くと言ってタクシーを捕まえた。
去り際、早苗を一度抱き締めてから去って行った速水は
全身から早苗への愛が漏れ出ているように見えた。
早苗も、顔をぽうっと赤らめながらも
違う路線に乗って帰るからと、地下鉄乗り場で別れた。
響と奏は二人で同じ電車に乗り込み、最寄駅で降りた。
家までの道中、冷たい風が何度も顔の横を吹き抜ける。
「……早く、冬が明けないかな……」
身を震わせながら響が言うと、
「そんなに、冬が嫌い?」
と奏が尋ねた。
「だって寒いじゃん」
「俺は夏の方が嫌い。暑いし」
「そう?夏はイベントが沢山あって出掛けたくならない?
花火とか、海とか、音楽フェスとか……」
「俺、そういうイベントとは無縁だから。
行きたいと思ったこともない」
「俺と一緒でも?」
響が言うと、奏は一瞬立ち止まり、少し考えた後にまた歩き出した。
「……響がどうしても行きたいっていうなら、付き合ってあげてもいいよ……そういうイベントも」
「ほんと!?」
響は顔を輝かせた。
「じゃあ、冬が明けたら色々行こう。
春になったら花見もしたいな。
——奏と、もっと沢山思い出を作りたい」
「……」
「楽しみだなあ」
「……俺も」
旅行から戻った後、奏は熱を出した。
「——大丈夫?」
響は粥を作り、寝室で寝ている奏の元へ運んだ。
「うん」
奏はゆっくり身体を起こすと、スプーンを取った。
「慣れないことしたから、身体壊したみたい」
「慣れないことって、旅行?」
「うん」
「そっか……」
「旅行自体は楽しかったよ」
奏がそう言って粥を口にすると、響は
「それなら良かった」
と返した。
ふと、ベッドの横に書きかけの五線紙が置かれているのを見つけた響がそれに視線を向けると、奏は「ああ」と気がついて言った。
「さっきまでベッドの中で書いてたやつ。
熱のせいで、ピアノの椅子に座るのが怠いから」
「早く良くなるといいね……。制作途中の曲があるんだっけ?」
「そう。時代モノの映画のテーマ」
『阿古耶の松』
実際に伝承として地域に残る物語を元に映画化することとなり、奏は今この作品のテーマを任されていた。
とある公家の娘・阿古耶が、月夜の晩に家を抜け出し千歳という山の中を歩いていると、どこからか美しい笛の音が聴こえてくる。
音を辿ると、立派な松の木の下で笛を奏でている見目麗しい男と出会う。
男は自身を名取太郎と名乗った。
阿古耶は男と恋に落ち、それから月夜の晩に逢瀬を繰り返すが、あるとき男は阿古耶に打ち明ける。
『私は松の木の精です。あなたとこのまま愛を通わせていきたかったが、明日の朝、私の命が宿る松の木が斬り倒されることが決まりました。
斬られた私の体は名取川に架ける橋となるのです』
そう言って男は松の木でできた笛を阿古耶に託し消えてしまった。
阿古耶は男と結ばれない運命を悟り嘆くが、せめて引導は自分が渡すことを決意する。
翌朝、その松の木は斬り倒されたが、何十人がかりでも松を運ぶことができなかった。
そこへ阿古耶が現れ、松の木の笛を奏でると、驚くほど松は容易に運べるようになった。
無事、松の木の橋が架けられたあと、阿古耶は松の木があった場所に庵を建て、そこで男との思い出を胸に静かな余生を過ごす。
「——だ、そうだよ」
奏があらすじを話すと、響が
「悲しいけれど、阿古耶の愛の深さに心打たれる話だね」
と感想を述べた。
「そう?俺、阿古耶には言いたいことが色々あるけど」
「え?」
奏がこの物語に納得がいっていない様子を示したため、響はきょとんと目を瞬かせた。
「どの辺が納得いかないの?」
「まず、なんで月夜の晩にしか会わないの?」
「それは……だって、これって昔の話だろ。
今より明かりがなくて、夜は真っ暗だった時代なわけでしょ。
まして山の中だし、月明かりが出ていなければ足元が見えなくて外を歩けなかったんだと思うよ」
「そもそもなんで夜に山へ行くの」
「何か辛いことがあったんじゃないかな。
ほら、有力な家柄の娘ってことは、生活に色々な制約があって息苦しかったのかもしれないよ」
「あと、自分の好きな人が斬られるって知らされたなら、止めなかったのかとも思うし」
「橋を架けるって、今よりずっと大掛かりなことだったと思う。
今でこそ橋はたくさんあって、対岸との行き来が容易だから物流も人の交流も活発だけどさ。
苦労してでも橋を架けなければ、人々の生活がままならないような土地だったんじゃないかな。
阿古耶もそれを知っていたから、自分の事情ひとつで止められるような話ではないと分かっていたのかも」
「……ふうん」
奏は響の説明に一応は納得しつつも、最後にこう口にした。
「……でもさ。松が斬られた後、松のあった場所で寂しく余生を過ごしたんでしょ。
死ぬまで一人ぼっちになるくらいなら、松の木を全力で守ることを頑張れば良かったのにって思う。
だって他にも木はあったでしょ」
奏がフンと鼻息を鳴らすと、響はおかしそうに笑った。
「それは最もだけど——奏、なんでそんなにムスッとしてるの?
あくまでも伝承でしょ?松の木の精なんて本当に居るとは思えないし、ほとんどフィクションのような話にそんな目くじらを立てなくても」
「出雲大社では神様の存在を信じていた響がそれを言う?」
「う……」
響が口を閉ざすと、奏が続けた。
「俺がこの話に納得いかないのは——松の精が死んで、阿古耶が一人取り残されるっていうバッドエンドなのに美談ぽく書かれてるところ」
「それ、『2月のセレナーデ』も同じだよね。
西郷隆盛が戦で死んで、残された大久保利通も最後は殺されてしまうけれど、奏は『綺麗な終わり方だった』って監督に感想言ってたじゃん」
「……う……」
今度は奏が黙り込んだ。
「もしかして出雲大社で皆の参拝中、一人で書いていたのもこの曲だった?」
響が旅行中の出来事を思い出して言うと、奏はこくりと頷いた。
「うん。参道に松の木が沢山植えられていたからインスピレーションも湧きやすかった。
響に置いて行かれて、恋人に先立たれた阿古耶の気持ちを擬似体験できたし」
「奏がお参りしないって言って残ったんじゃん……まったく」
響は呆れたように笑うと、
「とにかくゆっくり休みなよ」
と言い、空になった器を下げようとした。
すると、奏が響の服の袖を掴んで言った。
「待って」
「——え?」
「俺も下に降りる」
そう言って奏はベッドから降りると、響の背中に張り付いた。
「寝てなくて大丈夫?」
「——響、ピアノ弾いて」
奏は響の背中にもたれたまま言った。
「ピアノ?いいけど……何弾けばいいの?」
「響、何か作曲してるって言ってたじゃん。あれ弾いてよ」
「……あれはまだ制作途中だからなあ」
響がそう言って難色を示すと、奏は
「じゃあ何でもいい」
と答えた。
「何でも?」
「うん。なんか、ずっと寝てると落ち着かないんだよ。
自分でピアノを弾く体力はないけど、ピアノの音を聴いていたい」
奏は両腕を響の身体に回し、
「俺、響が弾くピアノの音、好きなんだよね」
と溢した。
「——分かった」
響は一緒に階段を降りて行くと、ブランケットを奏の身体に巻きつけ、ピアノの部屋の隅に座らせた。
「寒くない?」
「平気」
奏が言うと、響はピアノの蓋を開けた。
何を弾こうかな。
ああ、そうだ。
さっきの『阿古耶の松』になぞらえて、あれを弾いてみるか。
響は鍵盤に指を乗せると、ベートーヴェンの『ピアノソナタ第14番』通称『月光』を奏で始めた。
——重厚なピアノの音が部屋に広がる。
昼間だというのに、夜のしじまを思わせる、重くしっとりとした旋律が白いグランドピアノから零れ出て行く。
奏はその音色に耳を傾けながら、ピアノを奏でる響の横顔を見つめていた。
この曲、沢山練習したな。
初めて挑戦したのは小学生の時だったけど、指の長さが足りないために、どうしても同時に押せない音があった。
それが悔しくて、身体が大きくなっていくたびに再挑戦してたっけ。
響が昔を懐かしみながら演奏を終えると、パチパチという拍手が鳴った。
「——『月光』を弾いたんだね」
「うん。さっきの『阿古耶の松』は月の出た晩に男女が出会う話だったから。
それになぞらえてみた」
「すごく綺麗な音だった」
奏に褒められ、響はくすぐったい気持ちがしながらも奏の隣に座り込んだ。
「それは良かった」
「——知ってる?『月光』って、ベートーヴェンが片思いの相手に贈った曲だって」
「ああ。確かジュリエッタっていう貴族の娘に恋をしたんだっけ」
「そう。でも当時、音楽家の地位は低かった。ベートーヴェン自身の生まれも庶民だったから、身分違いの恋が実ることはなかったんだよね」
「でも、音楽家の地位を上げたのもベートーヴェンと言われているよね。
彼はプライドが高く、そのせいで貴族と対立することもあったけれど、音楽家という職業に誇りを持っていたからこそ自分の信念を貫き通した。
それが後の音楽家たちや職業の在り方に対して大きな影響を与えたそうだよ」
響が言うと、奏はこくりと頷いた。
「……『月光』ってさ。誰が聴いたって、楽しくなるような曲ではないじゃん。
重々しくて、悲しみを感じるような」
「まあ——明るい曲とは言えないけど。それがどうかした?」
「恋をしていて、好きな人を想って作る曲なら、もっとわくわくするような曲調を作りそうなものでしょ?
この曲からはそういう『恋をしていて楽しい』なんて雰囲気は一切感じない。
音楽家の地位を向上させたのは確かにベートーヴェンかもしれないけど、彼はこの身分違いの恋が決して実ることはないと分かっていたから、こんなにも悲壮感のある音楽を作ったんじゃないかなって思うんだよね」
「……かもしれないね」
響は頷くと、ふと笑みを浮かべた。
「音楽って凄いよな。
こんな風に、曲を聴いただけで、作った人の気持ちを想像することができるんだから。
それが正解かは分からないけどさ。
言葉にしていないのに、音で気持ちが伝わってくるなんて不思議だよね」
「——ねえ、響」
奏は顔を上げ、響をじっと見つめた。
「『2月のセレナーデ』、弾いてくれない?」
「いいけど……」
響はそう言いつつも、「でも」と返した。
「俺、奏が映画の撮影で弾いた時のあれが印象に強く残っていて。
曲の作者である奏が、あんなに綺麗に奏でているのを聴いてしまったら、あれ以上の演奏ができるとは思えないよ」
すると奏は僅かに目を細めて言った。
「響ってさ、音楽のことになるといつも自信を無くすよね。
俺、響の演奏好きだよ?
普段、俺がピアノの前に居座ってるからあんまり弾けないんだと思うけどさ、
初めて出会った日に響が弾いたオリジナルの曲も良かったし、一緒に連弾した『カノン』も楽しかったし、今弾いてくれた『月光』だって——
響が弾くピアノって、柔らかくて力強くて優しくて、聴いてると幸せな気持ちになれる」
「……本当?」
「ほんと。——響は、俺の作った音楽が好きなんでしょ?
『2月のセレナーデ』も、沢山弾いてくれていたんじゃないの」
「……うん。大好きな曲だから、何度も練習したよ」
「じゃあ、俺に聴かせてよ」
奏はそう言って響に頬を擦り寄せた。
……奏って甘えるのが上手だよなあ。
そんな風に褒めてもらえて、擦り寄られたら断れないじゃんか。
響は立ち上がると、再びピアノの前に座った。
——元の時代で指を骨折してから、まともにピアノを演奏できなくなってしまい、
『2月のセレナーデ』も自分の満足のいく弾き方が出来なくなってしまった。
大好きな曲だからこそちゃんと弾きたくて、自然とこの曲を弾く機会は減っていった。
ても、ちゃんと弾くのと大事に弾くのは違うよな。
響は心の中でそう呟いた。
これは奏が俺を想って作ってくれた曲だ。
俺もこの曲を大切に弾きたい。
響は鍵盤に指を乗せると、静かに音楽を奏で始めた。
儚く煌びやかな音色が部屋中に沁みていく。
和音も不協和音もおしなべて美しく、音の一つ一つが自分の存在意義を示してくるかのような旋律。
その主張を一つの大きな円の中に包み込むようにして奏でる響のピアノは、奏が弾いた『2月のセレナーデ』とは全く異なる音楽にも聴こえた。
奏の『2月のセレナーデ』は、心の奥底から湧き上がってくる想いを外へ押し出そうともがいているような、情熱的な音に。
響の『2月のセレナーデ』は、辺り一面にはじけた熱の粒達を大きな愛で包み込むような、深みのある音になって体現されていた。
同じ曲を奏でていても、こうも違う音楽になるのか——
聴いている奏も、弾いている響も、心の中でその違いに気が付いていた。
でも、どっちも心地良い。
どっちの『2月のセレナーデ』も好きだ。
響は最後の小節まで気持ちを込めて弾き切ると、いつのまにかピアノの隣に立っていた奏と目を合わせた。
「座ってなくて大丈夫?」
「……平気。それより……」
奏は響に抱きつくと、
「——やっぱり俺、響の音楽が好きだな」
と告げた。
「違うよ。これは奏が作った——」
「今のは、響の音楽だよ。
響にしか演奏できない『2月のセレナーデ』だった」
「……ありがとう」
響は奏の背中に腕を回した。
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