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『阿古耶の松』②
その後、熱が引いていった奏は再び『阿古耶の松』の楽曲制作に取り掛かり、無事納品を終えた頃——
「そーちゃん!大変よ!」
響と奏が夕食をとっていた時、早苗が興奮した様子で家に入って来た。
「そーちゃん、パスポート持ってるわよね!?」
「あー……うん。海外に行く予定は無いけど、マネージャーに作っておけって言われたから、去年作った記憶がある。
——なんで?」
「そーちゃん海外デビューよッ!!」
「え?」
響と奏が同時に声を漏らすと、早苗は目を潤ませて言った。
「五十嵐監督がね、昔から親しくしている映画監督にそーちゃんの演技と音楽のことを沢山紹介したんですって。
そしたら紹介された監督が、そーちゃんの『2月のセレナーデ』を聴いて、ぜひ自分が今度作る映画のサウンドトラックを作曲して欲しいって言ったそうなの。
——その監督というのが、あのクリス・ノランなのよ!!」
その名前を聞いて、響はすぐにピンと来た。
そうだ。元の時代でも、奏は確かに海外の映画作品に楽曲提供をしていた。
そしてそれがきっかけで『如月奏』は『世界のソウ・キサラギ』として国際的な作曲家になっていくんだ。
映画に疎い俺でも、クリス・ノラン監督作品は必ずヒットすることで有名だと知っている。
彼の作品自体には日本人俳優は出てこないけれども、
日本人の奏が映画音楽を手掛けたことがあるってことで話題になったらしい。
その映画も、公開されたのは元の時代でいうところの俺が1、2歳の時だから、やっぱり映画自体は見たことがない。
見たことはないけれども、奏の作った音楽だけはよく知っている。
日本国内で如月奏作品として最も有名なのは『2月のセレナーデ』だけれど、
国際的に知名度が高いのはその映画に使われた音楽だから
俺も『2月のセレナーデ』を弾けるようになった後、次に手を出した楽譜がそれだったっけ。
懐かしいな……
「凄いじゃん、奏!」
響が言うと、奏は「ふうん」とあまり関心なさげにカレーを口に運んだ後、ふと思い出したように顔を上げた。
「——さっき、パスポートがどうとか言ってたけど。
まさか海外で仕事しろって言ってる?」
「……そうよ!」
「日本で曲作るんじゃダメなの?」
「ノラン監督って業界でもこだわりが強いことで有名でね。
仕事で関わる相手は役者でもスタッフでも、対面で会話をして、綿密な擦り合わせをしながら作品作りをする人だそうなの。
だからそーちゃんに対しても、ノラン監督は自分の居るところ——つまりアメリカまで来て欲しいって言ってるの」
「いやだ」
奏は即答した。
「電話やメールじゃ駄目?
対面で話したところで、言葉通じないでしょ」
「ノラン監督の方で通訳を手配するって言ってるわ。
それに滞在中は一流ホテルのスイートを用意するとまで言っていて。
お金を掛けてでも、そーちゃんと対面で仕事をしたいそうなのよ」
早苗は「これは本当に凄いことなのよ」と繰り返した。
その後も早苗が、渡米の手配は事務所がする、マネージャーとして自分も同行する、滞在中の不便は感じさせないからと説得をしたが、奏は結局その日のうちに首を縦に振ることはしなかった。
「奏。受けた方がいいよ、この仕事」
——早苗が帰った後、ずっと渋ったまま結論を出さなかった奏に響が言った。
「世界的に有名な監督の作品に曲を提供するなんて、奏じゃなかったら到底もらえないオファーだよ。
どうして迷うのかわからない」
すると奏は「わからないの?」と顔を上げた。
「だってアメリカで仕事しろって言われてるんだよ?
響と離れ離れで暮らさなきゃいけないじゃん」
「そんな理由で断ろうとしてたの?」
響が目を丸めると、奏はムッと眉根に皺を寄せた。
「悪い?」
「アメリカに住むって話じゃないし……。仕事が終わったら戻って来るでしょ?」
「でも、曲作りにどれくらいかかるかわからない。
——っていうかさ」
奏は顔を上げ、じっと響を見つめた。
「響も一緒にアメリカ行かない?」
「!」
「それなら俺、仕事受けるよ」
響は一瞬、自分が奏に着いてアメリカに行くことを想像した。
また一緒に遠出できるのも、異国の地を見て回れるのもきっと楽しいだろうな。
奏と貴重な経験を共にして、また忘れられない思い出を作ることができるだろうな。
——でも……
「……無理だよ。俺、パスポート無いから」
「!」
「正確には、持ってたけど……元の時代での話だから。
『ここ』では、俺の身分を証明できるものが一つもないんだよ」
響が言うと、奏は暫くして落胆したように息を吐き出した。
「……そういえば、そうだったね。
響といる時間が長くなって、響との距離が近づくほど——響が『この世界』の人間じゃないってことを忘れてしまいそうになる」
「ねえ、奏。奏がアメリカに行ってる間は俺が家のこと管理するからさ。
といっても、いつも通り家事をして、家計簿付けるだけだけど。
何も心配せずに行っておいでよ」
——食器を片付けた後、ソファに深く沈んでいる奏の横に座ると、奏は響の肩にもたれかかった。
「俺、響と出会って一年近く経つけど——毎日一緒にいたんだよ。
それが急に何日も会えないなんて、想像できない」
「でも……それを理由に断るには、あまりにもったいない案件だと思う」
「響の知る『元の時代での俺』は、この仕事を受けてた?」
「……受けてたよ」
響が言うと、奏は「ふうん」と呟いた。
「——もしさ。俺がこの仕事を受けたら……
俺はどんな音楽を作るの?」
「え?ああ、凄く高い評価を得る音楽を作っていたよ。
『2月のセレナーデ』に並ぶ名曲として、奏が世界に存在を知らしめるきっかけにもなってた」
「そんなことはどうでもいい。
俺が聞きたいのは——俺が作る曲を、響はどう感じた?ってこと」
「俺?……好きだな、って感じたよ。
奏の作る曲はみんな好きだけども」
「……そっか」
奏は暫くして、
「なら、受けるしかないか」
と呟いた。
「ほんと?」
「響が俺の曲を好きって言ってくれるなら、作るしかないじゃん」
「俺も好きだけど、世界中の人が奏の音楽を好きになるよ」
「俺は響が好きな音さえ作れればいい」
「……そう言ってくれるのは嬉しいけどさ。
俺は奏の音楽、世界中の人に届いて欲しいって願望もあるよ」
「——アメリカ、行くか……。はぁ」
奏は重い腰を上げると、パスポートを探しにリビングを出て行った。
「——はぁ」
これでいいよな。
そりゃ、俺だって奏と暫く離れて暮らすのは辛いけども。
奏の才能は——奏の音楽は、俺が独り占めしていいものじゃないんだから。
そういえば加納さんも言ってたけど、サウンドトラックの制作ってことはメインテーマだけ作曲して終わりじゃなくて、映画の各所で使われる挿入音楽をすべて奏が作るってことだよな。
いつも俺がびっくりするくらいのスピードで曲を作ってしまう奏だけど、十数曲もとなるとそれなりに時間はかかるだろう。
移動もあるし、現地の人との打ち合わせや交流会だってあるだろうから
数ヶ月は戻って来れないんじゃないかな……
自分から奏の背中を押しておいて、こんなこと本人には言えないけど——
「……寂しいな」
奏が仕事を受けることを伝えると、あっという間に渡米に向けての手配が進み、奏や響が予想していたよりもずっと早くに出立の日が決まった。
「——日本、離れたくないな」
奏が出立する前の晩、二人はベッドの中で抱き合いながら言葉を交わしていた。
「響、俺が日本を離れてる間に勝手に誰かを連れ込んだりしないでね」
「しないよ。ここ奏の家なんだから」
「俺の家じゃなかったら連れ込むわけ?」
「そういうことじゃなくって。
奏が浮気を疑ってるなら、そんな心配は不要って言ってるんだよ」
「浮気は疑ってないけど、響のことだから速水さんを連れ込んでどんちゃん騒ぎするつもりじゃないかって疑ってる」
「……ダメ?」
響は少ししゅんとした表情を見せた。
「奏と加納さんがアメリカに居る間、俺、誰とも口を聞かずに暮らすことになるからさ。
この世界で俺が関わりあるのって、あとは右京だけだし。
右京からも、今度遊びに行かせてよって言われてたんだけど、奏が居心地悪いかと思って先延ばしにしてたんだよね——」
「……はぁ。じゃあ——ピアノだけ、勝手に触らせないように言ってくれるなら……家に上げてもいいよ」
奏が仕方なさそうに言うと、響は「いいの?」と笑顔で返した後、くすりと笑った。
「奏、だんだん心が広くなってきたね。
前は自分が嫌だと思うこと、頑なに拒んでたのに」
「……だって旅行した時に言ったろ。
響とずっと一緒にいるために、俺も響に擦り合わせる努力するって」
「そっか、努力してくれてたんだ。——奏は偉いなぁ」
響が冗談半分で奏の頭を撫でると、奏は頬を染めながら響を睨みつけた。
「そうやって人のことを子ども扱いする……」
奏は目を吊り上げながら響に口付けた。
「っ、突然どうしたの」
「俺が子どもじゃなくて対等な恋人だってこと、分からせてやった」
「ふふ。今のでよーく分かった」
「ほんとにィ?」
奏は疑いの目を向けてきたが、外が白み始めてきたことに気付くと、響のパジャマをぎゅっと握った。
「……あと一回しよ」
「え——さすがにもう寝なくて大丈夫?」
「大丈夫。飛行機で寝るから」
奏が響にしがみ付くと、響は困ったような笑みを浮かべながらも奏を抱き締め返した。
「じゃあ、一睡もさせないから。覚悟してね」
——それから陽が高くなり、二人は慌てて支度を済ませると、間も無くやってきた事務所からの迎えの車に奏は乗り込んだ。
空港へ向けて去って行く奏と早苗を見送った後、響は暫く脱力感に襲われたが、やがて「よし」と呟き気持ちを切り替えた。
奏が曲を作って帰ってくるまでの間に、俺もひとつのことを成し遂げよう。
響は書き途中の譜面を引っ張り出すと、ピアノの前に座った。
「君がミスター・ソウだね。会いたかったよ」
「……はじめまして、ノランさん」
アメリカのとある一流ホテルの一室で、奏は通訳を介してクリス・ノラン監督と挨拶を交わした。
「君の評判はナツオから聞いてるよ」
「ナツオ?……ああ、五十嵐監督か」
「ナツオは私とよく似て、作品作りのこだわりが強い男だ。
ナツオの作る映画はどれも素晴らしい。
全てのことを突き詰めながらもまとまり良く仕上げる彼の手腕は国際的にも高い評価を得ていることは君も知っているだろう。
そんなナツオが、君の音楽と演技を絶賛していたんだよ」
ノランはソファに腰掛けると、奏にも座るよう勧めてきた。
「ナツオが公開前の試作フィルムを送ってくれたから、君の演技しているシーンを拝見したよ。
——正直、演技に関しては荒々しく、評価するには至らないものだと私は感じた」
「……でしょうね」
「でも、確かに音楽は素晴らしいものだった。
『2月のセレナーデ』だったかな?
日本人ではない私にはブシドーだとか思想的な話は理解が難しかったが、日本人ではない私も音楽には心を動かされた。
オークボの理念はわからずとも、オークボの恋心はしっかりと伝わった。
……いや、オークボというよりも……。
ソウ、君の恋心を表現した音楽なのだろうことが伝わってきたんだよ」
ノランはそう言って奏の音楽を称賛すると、「それで」と話を切り出した。
「ぜひ、私の今制作している作品にも、君の魂が籠った音楽を提供して欲しい」
「はい。そのつもりで遥々アメリカまで来たんです」
「メインテーマのほかに、20曲近くサウンドの制作を頼みたいのだけれど、大丈夫かい?」
「それぞれのシーンのあらましを口頭か文書で教えてもらえれば作ります。
あとはホテルに電子でもいいのでピアノを用意してもらえれば、早くて一週間程度で作れると思います」
「一週間で!?」
ノランは驚いた表情で息を呑んだが、やがて「それは心強いね。ただ……」と切り出した。
「曲作りは、私の撮影現場を見た上で制作して欲しいんだ」
「!」
「ホテルに籠って完結するなら、わざわざアメリカに招いたりはしない。
私はね、ソウに私の作る映画を深く理解してもらいたいんだ。
現場の空気、アクターやスタッフの熱意を肌で感じてもらった上で音楽を作り上げてもらいたいんだよ」
「……なんかこの人が会社で働いてたら、台風の日でも出社して来いとか言い出しそうだよね。
俺、ストーリーさえ聞けば曲作れるって言ってるのに、なんでそんなに現場へ引っ張り出したいの?」
奏は、後ろで控えていた早苗に陰口を囁いた。
通訳がそれも訳そうとすると、早苗は慌てて
「通訳さん?今のはオフレコでお願いね?」
と釘を刺した。
「そーちゃん。あなたも五十嵐監督の映画に出て色々な学びがあったでしょ?」
「……今回は演技するわけじゃないし」
「でも、映画を撮影する経験の中でサツキくんとの関係にも変化があって、それからサツキくんへの想いを音楽にしたためたわけでしょ?
それが結果として五十嵐監督の心を動かして、映画のテーマにもなったわけで……。
きっかけってどこでどう繋がるかわからないものだから、ノラン監督の言うとおり、現場を見て人と関わることで新しいインスピレーションが浮かぶかもしれないじゃない」
「インスピレーション……」
「そうよ!結果的に、ホテルに籠ってるより早く曲作りができるかもしれないわよ?」
「……うーん」
奏は唸りながらも、再びノランの方に向き直った。
「わかりました。現場へ伺うので、日程と場所を教えてください」
「ありがとう。詳細は私のスタッフから君のマネージャーに伝えるようにするから。
今日は君に挨拶がしたくて、撮影の合間にここへ立ち寄ったんだ。
じゃあ、改めてこれからよろしく!」
ノラン監督は奏と握手を交わすと、通訳と共にホテルの部屋を出て行った。
「……はぁ」
奏はベッドに突っ伏すと、ぐったりとした表情で息を吐き出した。
「そーちゃん。頑張りましょうね」
「……まあ。でも、暫く日本に帰れそうにない雰囲気だったな、って……」
「ノラン監督が納得するような音楽を作って、胸を張って日本に帰りましょ?
サツキくんも、そーちゃんの作る曲を楽しみにしていると思うわよ」
「!」
奏は目を見開くと、こくりと頷いてみせた。
「……そうだね。響のためにも……ちゃんと映画と向き合った音楽を作らないと」
——奏がアメリカに発ってから一週間が過ぎた。
響がスーパーでの買い出しを終えて如月邸に戻って来ると、玄関の前に人が立っているのが見えた。
——女性?
加納さん以外が訪ねてくるなんて珍しいな。
響は玄関まで歩いて来ると
「あの、何か御用ですか?」
と、チャイムに手を伸ばそうとしている女に声を掛けた。
すると女はビクッと身体を揺らし、驚いたように後ろを振り返った。
「ッ!……あなた……誰……?」
「ええと、ここに住み込みで働いている者です。
奏……さんならば、今は——」
響はそう言いかけて、はっと息を呑んだ。
おどおどした表情で、怪訝そうにこちらを見上げて来る女は、恐ろしいほどに美しかった。
奏と瓜二つの造形を持つ美しい女を見て、響はすぐに悟った。
この人——まさか、奏の……!?
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