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『阿古耶の松』③

「……もしかして、奏のお母さん……?」 響が思わず尋ねると、女は小さく息を飲み込んだ後、やがてこくりと頷いた。 「……ええ。私は如月明音——奏くんのママ」 そう名乗った後、やはりおどおどとした様子で玄関に目をやった。 「奏くん、今いる?」 「いえ。奏は今仕事で日本を離れてます」 「えっ……。あ、そうなの……。 ……とりあえず入れてくれる……?」 「暫く戻らない予定なので、恐れ入りますがお引き取りください」 ——この人…… すごく綺麗で、すごく弱々しい雰囲気だけれど、奏を散々苦しめた元凶なんだよな。 初対面の相手にあまり敵意を向けたくはないけれど、奏がどれほどの苦労をしてきたのかを思うと、この人を好意的に見ることは到底できない。 響はそんな思いから、明音に帰るよう促した。 だが明音はこう返してきた。 「ここは私の家よ? 家政婦さんに追い返される筋合いはないと思うんだけど?」 う……。 響は内心、確かに自分の立場で言えることではないかと納得しかけた。 だが、すぐに眉根に皺を寄せて言い返す。 「確かに俺は家政婦ですが、奏の留守を預かっている身でもあります。 奏はあなたを家に入れたくないでしょうから、俺も入れるわけにはいきません」 「私を家に上げるな、なんて、奏くんが言ったの?」 「そうは言ってませんが、あなたが奏にしてきたことは話に聞いてます」 すると明音は、なぜか頬を染めて笑みを浮かべた。 な、なんだ……!? この人、どうして笑ってるんだ……? 響がぞっと背筋を凍らせると、明音は形の良い唇を開け、こう口にした。 「そっかぁ……。ちょっと恥ずかしいけど、奏くん、よその人にも私達のことを話してたんだぁ……」 「……は……?」 「ともかく、中に入れて? 家の中に、生活に必要な書類だとかハンコだとか、色々置いてあるのよ。 それを持っていかないといけないから」 「……奏の必要なものまで勝手に持ち出したりするつもりじゃないですよね? 奏のハンコとか、お金とか——」 「そんなこと、するわけないでしょ? どうして私が奏くんを困らせるようなことをすると思うの」 「っ、それは、だってあなた——」 「そんなに疑うなら、私が家を出るまで監視してくれてて構わないから。ねっ?」 「……」 よく分からないけど、この人が持ち出そうとしているものに俺が目を通していいなら、大丈夫……か……? 幸いにも今は奏がいないから顔を合わせることもないわけだし。 奏が帰ってきてから改めて訪問されるよりは、用事を済ませてさっさと帰ってもらえる方がいい。 それに—— この人、なんか変だ。 子どもだった奏に酷いことを散々した割に、まるで何事も無かったかのような話し方…… 響は、この如月明音という女がどういう人間なのかが気になった。 玄関で押し問答をしていても埒が明かないだろうし、自分が入る時に一緒に入ろうとしてくるんじゃないだろうかと考えた響は、 心の中で奏に謝った後、仕方なく彼女を家の中にあげることにした。 「……私のインテリア、ほとんど捨てられちゃったのね……」 明音は家の中に入ると、廊下と隣接するリビングやキッチンに目をやって言った。 「リビングに置いてたぬいぐるみも、お花のオブジェも、家族写真も……。 奏くんが模様替えしちゃったのかなあ……」 寂しそうに呟く明音に、響が言った。 「用事があるのはどの部屋ですか?」 「……書類関係だから、書庫に置いてたと思うけど……。 久しぶりの我が家、ゆっくり回らせてくれない?」 「……」 「あ。ピアノの部屋はどうなってるかなぁ」 明音は颯爽と歩いて行くと、一階奥にあるピアノの部屋のドアを開けた。 「……ああ、やっぱりここのインテリアも無くしちゃったんだ。 でも——白いピアノは相変わらず置いてくれてるのね」 明音がそう言ってピアノに近寄ろうとしたため、思わず響は叫んだ。 「それに触るな!!」 自分でも驚くほど大きな声が出てしまい、響はハッと口を閉じた。 明音はその声にびくりと身体を揺らしたものの、響に構わずピアノの前の椅子に腰掛けた。 「……懐かしいなァ。 ここでよく、奏くんと連弾を楽しんだっけ……」 「——え?」 「このピアノ、私がパパ——別れた旦那さんに買ってもらったモノなの。 奏くんも気に入ってたから、ピアノだけは残してたのね……」 そう言って、遠くを見つめながら寂しそうに息を吐く明音を見た響は、不思議な気持ちが湧き上がってきた。 この人……やっぱりおかしい。 奏にあんな暴力を振るった人のはずなのに、奏のことを「ちゃんと」好いていたような言動ばかりだ。 奏がされたことは事実だと知っている。 奏が母親からセックスを強要されていたことは、幼馴染の加納さんも知るところで 加納さんの家族が母親のことを通報したからこの人は逮捕され、奏から引き離されたのだと聞いている。 そして奏の身体に開いたピアスも、この母親がしたことに違いない。 わざわざ接着剤で固定までして—— そんな狂気じみた行動を取る、頭のおかしい人物だと思っていたのに…… 「……あなたは奏に酷いことをしたのを忘れてしまったんですか?」 思わず、響が尋ねる。 すると明音は、きょとんとした目で響を見上げた。 「酷いこと?私が、いつそんなことを?」 「とぼけないでください。 あなたは逮捕までされているんですよね? 覚えが無いとは言わせませんよ」 明音は、「逮捕されたことも聞いてるんだ」と少し悲しそうに呟くと、再び響を見て言った。 「あの日のことなら覚えてる。 突然、おうちに警察の人がやって来て—— 奏くんと引き離されてしまったんだっけ。 何が起きてるのか、さっぱり理解できなくて……。 刑務所に入れられた後も、罪状を読み上げられた時も、私は自分がしたことの何が悪かったのかわからなくて……。 刑務所を出た後も、地元で実家の家族と暮らすように言われて、東京のこのおうちに戻ることを許してもらえなかった。 いつのまにか旦那さんからも離婚されてて—— あれからずっと、奏くんに会えないまま時が流れちゃった……」 「……っ!」 響はたまらず、明音の元まで歩み寄った。 そして告げた。 明音が奏にしたことを。 どうしてそれが罪なのかを。 きちんと本人に理解させなければ、彼女は悪びれず、また奏に会いにくるのではないかと思ったからだ。 自分の口から、奏がされたことを話すのは胸が痛んだが、しかし自分がこの人を諭さなければという使命感に駆られていた。 ——響が勢いよく話し終えた後、明音は暫く放心していたが、やがて頬に一筋の涙を落とした。 「……なんで……? 一番大好きな相手とエッチすることが、どうして罪になるの?」 「……それはあなたが母親だから……ッ! 奏の同意なく、奏の尊厳を奪うような行為をしたから——!」 だが明音は涙を流したまま、ふるふると首を横に振った。 「違う!違う……っ! 奏くんに『エッチしよ?』って言ったら、奏くん『いいよ』って答えてくれたもん! 同意はちゃんと貰ったもん!」 「セックスの意味も同意の重要性も理解できないような幼い子どもを相手に、そんな言い訳が通じると思いますか!?」 「でも奏くんは『気持ち良い』って言ってたわ! それに『大人になっても、ママ以外の子とはこういうことしちゃダメだよ』って言ったら『うん』って答えてくれたもの! 私と奏くんは両思いだったんだから!」 「両思いだと思っていたのはあなたの思い込みです!」 「そんなこと、なんで他人のあなたに分かるのよ……ッ」 明音は力無く項垂れると、奏との思い出を語り出した。 「あなたは知らないでしょうから、教えてあげる——。 奏くんは……私によく似た、天使みたいに可愛い子だった……」 あまりに悲壮に満ちた表情で話すため、響は苛立ちを覚えながらも黙ってそれに耳を傾けることにした。 「——私は若い頃、アイドルを夢見て上京してきた。 歌が好きで、歌うのも上手だねってよく褒められていたけれど、ずっと売れないまま歳を重ねてしまって……。 生活のためにクラブで働き始めて、そこでパパと出会って結婚して、奏くんを産んだ。 パパは仕事人間で、私が歌を歌ってみせても全然喜んだりしなかった。 だけど相手にされないことに不満を言ったら、代わりに白いグランドピアノを買い与えてくれたの。 『これで勝手に弾いて勝手に歌ってろ』って。 ——私、歌は好きだけど楽器なんて習ったこともなかった。 だけど奏くんを寝かせるために子守唄を弾く練習をしてたら、だんだん奏くんがピアノに興味を持つようになって……。 大人の私は無理だけど、小さい奏くんならばきっと飲み込みも早いと思って、三歳くらいからピアノ教室に通わせ始めたの。 そしたら奏くん、お家でも生き生きとピアノを練習するようになって……。 『ママ、僕がピアノを弾くから、ママはお歌を歌って』 ——奏くんがそう言ってくれたから、私は奏くんの演奏で歌を歌うようになった。 とても幸せな時間だった。 奏くんも、とっても幸せそうに見えた——」 明音はそう言ってふと微笑みを浮かべた後、不意に表情に陰りを見せた。 「……奏くんが8、9歳くらいになった頃かな。 奏くん、同じピアノ教室に通う子からラブレターを貰って来たの。 その後も、同じ学校の女の子たちと下校したり、バレンタインには手作りのチョコレートを何個も持ち帰ってくるようになって。 ご飯の時も、いろんな女の子が自分に話しかけてくる、親切にしてくるって話すことがあった。 それで気付いたの。 私の奏くんのことを狙ってる女が、世の中には沢山いるんだってこと——」 その後の明音の話は生々しいものだった。 『世界で一番好きな異性は誰か』と尋ね、『ママ』と答えた奏に対し、 『ママが幸せになれて、奏くんも気持ち良くなれることをしましょ』と言って奏と関係を結んだこと。 裸の身体を触られる不快感や、意志と反して変化する自分の身体に動揺する奏に対し 『ママは幸せ。奏くんとエッチしてる時が一番幸せ。奏くんと触れ合えなくなったら、ママ死んじゃうかも』などと繰り返し告げ、奏が行為をやめたいと言えないように仕込んでいったこと。 そして『奏くんがもっと大人になっても、他の女とエッチしようなんて気持ちが起こらないよう』にと、奏の乳首とへそにピアスを開け、自分の所有物だという証を作ったこと—— 「……パパは結婚してから私に興味を無くしてしまったけれど、奏くんはずっと私のことを愛してくれた。 私のことを『好き』って言ってくれて、毎晩エッチして、私を恋人として愛してくれていたのに—— どうして奏くん、友達の家族に私たちの関係を話しちゃったりしたんだろう……。 奏くんがうっかり話したりしなければ、私たちは今も一緒に暮らせていたはずなのに——」 「うっかり、な訳があるか。 ——あなたとの関係を終わらせたかったから、奏は勇気を出して第三者に打ち明けたんだよ……!」

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