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『阿古耶の松』④

響は拳を握り締めると、明音を椅子から立たせた。 「あなたは奏の本心に気付かなかった! 奏の心の痛みを理解してやれず、今もそれは変わっていない。 ——あなたのような人に、奏の母親や恋人だなんて名乗ってほしくない! 早く必要なものを取って出て行ってください……ッ」 すると明音は、「離して!」と甲高い声をあげて抵抗した。 「他人のあなたに、奏くんの本心が分かるとでも言うの? 母親であり恋人である私より、奏くんのことを理解できるとでも言うつもり——」 「俺が奏の恋人だから!!」 響がそう声を張り上げると、明音は呆然とした表情を浮かべた。 「……何、言ってるの……?」 「奏は……っ、今は俺の恋人だから……! あなたより俺の方が、奏の気持ちを理解できるはずだって信じてます……!」 「……嘘よね?だってあなた、そもそも男——」 「男同士で愛し合って何がいけないんですか!?」 響が息を切らして叫ぶと、明音は眉間に皺を寄せた。 「……男同士で愛し合うのが許されるなら、どうして母と子で愛し合うことは許されなかったの? ——ねえ。どうして私だけが逮捕されたの?」 「それは奏があなたとの行為を望んでいなかったからです!」 「……っ、じゃあ——」 明音から、生唾を飲み込む音が聞こえた。 「じゃあ——あなたは奏くんから、エッチを望まれてるというの……?」 響がこくりと頷くと、明音は全身を震わせ始めた。 「嘘、嘘……っ! 奏くんが私以外とエッチしてるなんて、嘘……ッ!」 そう言って明音は、取り乱した様子で響の胸元のシャツを掴んだ。 「そんなのおかしいじゃない! 私の方が奏くんの側にいて、奏くんのお世話をして、奏くんに愛情をあげていたのに—— なんで奏くんは私との約束を破って他の人とエッチができるの? そんなのあなたの出まかせなんでしょ? ねェ……ッ!!」 そう言ったところで、明音はぴたりと動きを止めた。 シャツを掴んだ拍子に裾が捲り上がり、響の肌が露出していた。 そして腹部に開いているピアスを目にした明音はその一点を凝視した。 「へそピ……、あなたも開けてる……の?」 「——奏が開けてくれました」 「ぇ……」 「この場所を、俺と奏が繋がっている証にしたい、って」 「……ぁ、あ……」 明音は力無くその場に膝をついた。 「……違う……おへそは、おへそは私と身体の中で繋がってた場所……。 乳首は私の栄養を吸って、奏くんが大きくなった場所……。 どっちも私と奏くんが繋がっていた証……。 あなたと繋がってる場所なんかじゃない……ッ!」 明音はさめざめと泣き、やがて顔を上げると 「……そのへそピ、今すぐ外して」 と言って手を響の方へ伸ばして来た。 「絶対、外さない」 響はきっぱり断ると、伸ばして来た明音の手首を掴んだ。 「痛いっ!」 「あなたを奏の人生には介入させない。 奏の人生は奏のものです。 奏があなたを人生から排除したことが、奏の答えです」 「……ぁ……。うぅ……」 明音は手首を掴まれたまま、がくりと頭を垂れた。 「嘘……。嘘よォ……。 奏くん……、奏くん……」 そう言って咽び泣く明音に、響はだんだんと哀れみを向けるようになっていた。 この人は、悪意があって奏を傷つけていたわけではないらしい。 奏の本心に気付かず、奏も喜んでくれているはずだと信じて行為を繰り返して来たのか。 この人からすれば、突然奏と引き離されて、いつのまにか知らない相手と奏が恋人になっていたという衝撃的な場面に陥っているのだろう。 そんな悲劇の渦中にいるような人を、無理やり引きずって追い出すようなこと、俺にはできない—— でも、このままというわけにもいかない。 響はふと、奏や早苗から聞いていた過去の話を思い出した。 そして違和感に気づくと、泣き続ける明音に対してこう告げた。 「……あなたの話には、嘘が混ざってる」 「……え……?」 「俺が聞いている話では、あなたは旦那さんから、逮捕されるより以前に離婚を切り出されていたはずです。 その後は奏とこの家で二人暮らしをしていたけれども、家の中に色々な男性を上げていたと聞いています」 明音の喉がひくりと鳴った。 「奏のこと、恋人のような目で見ていたのはあなたにとって事実かもしれません。 だけど恋人と称する奏と暮らす家で取っ替え引っ替え男性を連れ込むという行為からは誠実性が感じられない」 「……ぁ……」 「あなたの思いが純愛だとするならば、奏以外とそんなことをする気の迷いなんて起こさないはずではありませんか……?!」 「……そんなの……ッ」 明音は顔を上げ、涙に濡れた瞳を響に向けた。 「そんなの、仕方ないじゃない! だって奏くんはまだ子どもで—— パパに去られた心の傷を奏くん一人じゃ埋めきれなくて——」 「だから色々な男と寝たと。 そうして寂しさを埋められる相手に事欠かなかったというなら、奏とまでそんなことをする必要はなかったのではないですか?」 「奏くんは特別なの! 奏くんは小さくて、私が気持ち良くなることはできなかったけれど、心の穴を一番に満たしてくれたのは間違いなく奏くんなの! 他の人には奏くんが埋められない場所だけ埋めてもらってただけ。 本当に愛していたのは間違いなく奏くんだけだった! あなたなんかより、私の方が奏くんのことを知っているし、愛してるんだから!」 「……そこまで言うなら」 響はツカツカとピアノの方まで歩いて行くと、やや乱暴にピアノを奏でてみせた。 明音は、響の唐突な行動に混乱した様子だったが、響は何小節か弾き終えると視線を彼女に向けて言った。 「——今の曲。なんと言うタイトルか分かりますか?」 「え?え……?」 「今のは奏が中学生の時に初めて世の中に対して発表した曲です」 「え……と。あ……」 明音は涙を拭うと、小さな声で言った。 「そ……奏くん、作曲家になったのよね……。 今の曲も……聞いたことがある……ような」 「今のは『夜とレモンティー』です」 「!そ、そう!そんなタイトルだったわ」 「じゃあ、これは」 響は続けてピアノを奏でた。 「……ええと……」 「『君に逢いたくて』。ドラマの挿入曲です」 「……実家の家族が、そんな名前のドラマを観てた気がする……」 「——奏のことを良く知ると言うのなら…… あなたは奏の音楽をちゃんと聴いたことがあるんですか?」 響は鍵盤から手を離すと、明音に問いかけた。 「奏は作曲家です。作曲は奏のアイデンティティそのものです。 あなたが奏をよく知っている、愛しているというなら、奏の作った音楽のこともよく知っていて、愛しているのではありませんか?」 すると明音はムッと唇を尖らせた。 「な、何なの……? 自分の方が奏くんの音楽に精通していると言いたいの……? 私だって、奏くんが作曲家として有名になったことは、刑務所を出てから親戚に聞いたから知っていたわ。 でも……私が聴くのは、自分が歌えるようなポップス系ばかりだから、奏くんの作るようなクラシックは専門外なの……」 「奏はクラシックだけじゃなく、歌手への楽曲提供もしてます。 雨宮アゲハとかご存知ないですか?」 「っ……音楽の好みなんて人それぞれでしょ? 揚げ足を取るようなこと、しないでくれる?」 「俺は——奏のことも、奏の作った音楽も、どちらも愛してます。 奏の音楽が好きだったから奏にも惹かれたし、奏を好きになったから奏の音楽もより愛するようになりました。 奏を愛するというのは、奏の音楽も愛することと同義だと俺は思っています。 だからあなたの気持ちに劣る気がしない」 響が真っ直ぐ明音を見つめると、明音は唇を噛み、声を震わせた。 「たまたま音楽の趣味が合うからって、自分の気持ちの方が上だなんて言われて…… 納得できるはずないじゃない……」 「確かに、どちらがより奏を愛しているか張り合っても結論は出ないでしょう。 でも——奏自身は、俺のことを愛してくれていると自信を持って言えます」 「な……ッ!?」 明音が目を見開くと、響は再び鍵盤に指を乗せた。 「——奏は俺に、音楽で気持ちを伝えてくれたから。 奏はあなたにはとうとう本心を伝えられなかったけれど、俺に対しては音楽という形で思いを表現してくれたから。 俺は自信を持って、奏に愛されていると信じていられるんです」 響はそう言って、再びピアノを奏で始めた。 力強くも儚い音色が指先から溢れ出る。 音楽があったから、奏と繋がることができた。 音楽があるから、奏とこれからも繋がっていられる。 奏の作った音楽を、奏の代わりに届ける思いで響がピアノを弾き上げると、暫くの間沈黙が部屋の中に広がった。 互いに無言のまま音の余韻に浸っていたが、不意に明音が口を開いた。 「……今の、何て曲……?」 「『2月のセレナーデ』です」 「2月の——」 明音は言葉を切ると、よろよろと立ち上がった。 「……書庫に寄ったら、帰るから」 「え——」 突然、人が変わったように落ち着いた様子でピアノの部屋を出ていく明音を響が追いかけると、 明音は書庫で必要な書類をひと通りかき集めていった。 「ハイ。見て。私が持ち出しても問題なさそうな書類ばかりでしょ?」 「……確かに」 明音は響に書類を見せると、玄関で靴に足を通していった。 急に穏やかな様子で帰り支度をする明音に響が戸惑っていると、玄関のドアに手を掛けながら明音がこちらへ振り返った。 「——奏くんって、ああいう音楽が作れるんだ。 ……私、ちょっと驚いちゃった……」 「え?」 「奏くんが曲を作ってることは話に聞いてた。 私が歌を歌って、奏くんがピアノを弾いて遊んでいたって話したでしょ? その遊びの延長で、ままごとのような感覚でやってるんだろうなと思ってた。 クラシックとか映画音楽とか、私は興味なかったからちゃんと聞いたこともなかった。 ……でも、あなたが弾いた『2月のセレナーデ』を聴いて——遊びの延長なんかじゃないと分かった」 明音は玄関のドアにもたれ、小さく息を吐き出すと、独り言のように呟いた。 「……あの子の才能に気づけなかったってことは、私が一緒にいても奏くんの才能を引き出せていなかっただろうな。 奏くんがあんな曲を作れるようになったのは、私と離れた後の日々で感性を磨いたからなんだろうな。 そうだったら、私は——恋人としても母親としても、奏くんの側にいちゃ駄目ってことじゃない。 奏くんの才能を信じていなかった私じゃ、奏くんの才能を潰してしまうだけ——」 「……それでも、あなたがピアノを習わせてあげて、あなたと一緒にピアノを弾いた思い出が、奏の原点になっていることは間違いないです」 明音の後ろ姿に向かって響が言った。 すると明音は響の方を振り返らないままこう返した。 「——奏くんの作った音楽、全部聴かないと。 奏くんの音楽を全部聴いて、音楽ごと愛せるようになったら—— また奏くんに会いに来てみようかな……」 明音は、響が何かを言うのを待たずドアを開けると、颯爽と去って行った。

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