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アメリカにて①
「……んっ」
ホテルの一室で、奏は艶やかな声を溢した。
「——はぁ……」
こんなことをしている場合ではない、と頭では分かっていつつも、抗えない欲求に耐えかね奏は自身を慰めていた。
響のせいだ。
日本から持って来た荷物を漁っていたら、普段は響に貸しているシャツも持って来ていたことに気付いて——
シャツは限られた数しか持ってこなかったから、それに袖を通してみたら、響の匂いが漂ってきて——
響にパッキングを頼んだから、間違えて入れたのは響だ。
でも、もし間違いじゃなくてわざとだとしたら?
いつもは響が身につけていて、響の匂いが染みついたシャツを、あえて俺の荷物に紛れ込ませたのだとしたら、よっぽどの手練だ。
そのせいで俺は嫌でも響のことを考えてしまって、こんなところに来てまで一人で——
奏は果てた後、ようやく冷静になった頭でベッドから机に戻った。
机に置いてある譜面は白紙のままだった。
そして机の下のゴミ箱には、細かく書き込まれた譜面の束が突っ込まれている。
——こんなことは初めてだ。
奏は昨晩の出来事を思い返し、額に手を当てて項垂れた。
「悪いけど、全部却下だね」
この一週間ほどで書き上げたサウンドトラックを、ノラン監督はすべてボツにした。
「現場を見てくれて、スタッフと交流しながら曲作りをしてくれていることには感謝しているよ。
短期間でこれだけの曲を書ける君の才能も評価している。
——でも、私のイメージとこの曲は合わないんだよ」
ノラン監督は、奏のデモテープを聴いた後に迷うことなく告げた。
「じゃあ、あなたのイメージをもっと具体的に教えてください」
自分の作った曲を、若干のアレンジを提案されることはあっても、丸々却下されたのは初めての経験だった奏は、やや苛立ちを隠せない様子で尋ねた。
「イメージはイメージだよ。
言葉で説明できるものなら、それこそ日本に居てもらったまま作ってもらうこともできた。
君には言葉では言い表せないイメージを掴み取って欲しいから、アメリカに滞在してもらっているんじゃないか」
「現場で撮影を見て、台本も読み込みました。
これ以上にイメージできることはありません」
「イメージに限界なんてないよ。
君もプロならば、自分の限界をそう簡単には定めるものじゃない」
ノランはそう言うと、優しい口調で続けた。
「私は映画を作る時、いつもは色んなイメージが湧いてくる方だけれど、行き詰まることも往々にしてある。
そういう時はもっと突き詰めたい、もっとこの映画をよく出来るはずだと信じている時なんだけど、イメージがそれ以上湧いてこなくて立ち行かなくなるんだ。
——私はそこで粘って、ひたすら作品と向き合って、自分を信じてイメージの限界の先へ行こうともがく。
そうして先へ突き進めた時、初めて人の心を動かす映像を作れると信じているからね」
——それってただの根性論じゃん。
俺は音楽を作る時に、そんな突き詰めて考えたりしない。
感じるまま、浮かんできたままを形にする。
それが俺のやって来た曲作りのやり方だ。
あんたのやり方は、俺とは違う。
奏はそう言いたかったが、やり方はともかく
クライアントであるノランが現状の作品にノーを出す以上、感覚だけで音楽を作っても立ち行かないことは理解していた。
一週間、休む間もなく曲を作ってきたのは一日も早く日本に帰りたかったからだ。
時間をかけている暇はない。
とにかくストーリーから受けるインプレッションを音楽という形に変換していく。
その繰り返しを20回こなせばいい。
そうしたら、響に会える。
そう楽観視していたのに、待っていたのはすべて最初からやり直しという結末だった。
奏は机に座り直したものの、ペンを持つ手が動かなかった。
また感覚で曲を書いて、同じような批評をノラン監督から受けたらどうなる?
また一週間を無駄に消費して、帰国の日が遠ざかってしまうだろうか?
どんな曲を作れたら、ノラン監督のお眼鏡に叶うのか。
どんな音楽ならばノラン監督を納得させられるのか——
奏はその後も粘っていたが、この日は結局一曲も譜面を完成させることはできなかった。
翌日、早苗がホテルにやって来た。
「そーちゃん、どう?進んでる?」
「全然」
奏は白紙の譜面を指でつまんでみせた。
「俺は俺なりに、出来の良い音楽を作ったつもり。
でも監督からは『イメージと違う』で片付けられてしまった」
「まあ、仕方ないわよねえ。
どんなに良い音楽でも、イメージと合わないんじゃ使ってもらえないもの」
「俺、今までそんなこと言われたことなかった。
作って欲しい曲のイメージを聞いて、そのイメージに沿った音楽を作って。
『2月のセレナーデ』だけは自発的に作りたくて作った曲だけど、それ以外はクライアントの要望通りに作って満足してもらえてきたんだよ」
すると早苗が、ふと思いついたように言った。
「ねえ、そういえば——ノラン監督がそーちゃんの起用を決めたのも、『2月のセレナーデ』を聴いたからなのよね?」
「え?ああ、うん、そう言ってたね」
「その『2月のセレナーデ』は、そーちゃんが作りたくて作った曲よね」
「うん。あの時は自分の気持ちが溢れ出るままに書いたというか……。
響への気持ちを感じるがままに書き起こしていった感じ」
「つまりあの曲には、そーちゃんの『想い』が詰まってた。
誰かに指示されてではなく、そーちゃんの心の奥底から湧き上がってくる想いを込めた音楽だから、みんなの心を動かすような曲に仕上がったんじゃないかしら」
「——『2月のセレナーデ』と同じモチベーションで作ってみたらって言ってる?」
奏は早苗に尋ねると、「それは無理でしょ」と続けた。
「だってこれ、仕事だもん。
ノラン監督のお眼鏡に叶う曲じゃなきゃいけないんだから。
心の奥底から湧き上がる思いなんて何も無いよ」
すると早苗はこう言った。
「だからノラン監督は、そーちゃんに現場見学を勧めたんじゃない?」
「え?」
「自分の作品のことをよく知ってもらうことで、作品そのものを好きになってもらう。
そーちゃんが作品のことを好きだと感じる強い気持ちを、音楽で表現して欲しい——
そういう意図があってのことじゃないかしら?」
早苗が言うと、奏は暫く閉口した。
俺に足りていないのは作品へのパッションだ。
それは分かっている。
だけど作品のことを深く知って、好きになろうとすれば、それはとても時間がかかることだろう。
ただでさえ、映画やドラマを観ることは趣味ではないのに、ノラン監督が手掛ける作品は複雑で多様な解釈ができるようになっているものが多い。
この、観た人に結末を委ねてくるようなスタイルが俺は苦手だ。
だって正解がないのと同じなのに、音楽は一つしか作れない。
物語の結末はいく通りにも解釈できるようにしてあるのに、俺が作る曲はノラン監督がOKを出すたった1パターンでしかあり得ない。
その前提の中で、作品を理解し愛さなければならないなんて——
そんなことを真面目に取り組んでいたら、響に会える日がどんどん遠ざかってしまうじゃないか。
「……回りくどいことをしている場合じゃないのに……」
思わず奏が漏らすと、早苗は「ああ」と顔を上げた。
「そーちゃん、焦ってるのね」
「……」
「サツキくんに会えなくて、早く曲を作り上げたくなる気持ちは分かるわ」
「……結果空回りしてるけど」
「——ねえ、サツキくんと電話してみたら?」
早苗の提案に、奏は目を見開いた。
「でん、わ……?」
「ええ。国際電話。通話料は国内よりかかるけど、事務所から支給されてる携帯電話は事務所がお金を払ってくれるし。
私が事務所から借りてる携帯貸してあげるから、サツキくんに電話してみたらどうかしら。
声を聞くだけでも、寂しさが紛れると思うから」
「……マネージャーは、この携帯使わないの?」
「日中は事務所とか、映画のスタッフさん達とのやり取りに使うけど、夜の間は貸してても大丈夫よ」
「いや、でも——速水さんとの電話に使ったり、しない?」
すると早苗はニコッと微笑んだ。
「気にかけてくれてありがと!
でも大丈夫。速水くんは暫く撮影で忙しくしてるみたいなんだけど、
こっちとは時差があるから、私がかけられる時間はいつも速水くんがお仕事をしてる時間と被っちゃうのよね。
それに私の場合は、声を聞いたら余計に会いたくなっちゃうかもだからー」
そう気丈に振る舞う早苗だったが、奏は内心彼女に負い目を感じた。
マネージャーだって、早く帰りたいよな。
だけど俺が曲を完成させるまでは帰れない。
俺のせいで、マネージャーにも割りを食わせてしまっている。
そのうえ俺が携帯まで借りてしまっていいんだろうか——
すると、奏が躊躇いを見せていることを察した早苗は奏の頭を撫でて言った。
「そーちゃん、私のことは気にしないで!
そーちゃんをサポートするのが私の仕事なんだから!
そーちゃんは健やかな心で曲作りに励んで。ねっ?」
早苗は奏の手の中に携帯電話を押し付けると、自分の部屋に戻ると言って去っていった。
奏は申し訳なく思いつつも、携帯電話を開いた。
自分の家に掛けるだけなのに、なぜか緊張してしまう。
よく知った番号を打ち込むと、呼び出し音が流れるのを受話器越しに聞いた。
——暫く待っていると、受話器を取る音が聞こえた。
『はい。如月です』
響の声だ!
奏は胸が躍ると同時に、ふと気がついた。
今、『如月です』って言った?
……ああ、そうか。俺の家の固定電話だからそう応えたのか。
表示されている番号も、事務所から借りているものだから名前が出て来ないだろうし、掛けてきたのが俺だって分からなかったんだな。
「もしもし。如月だけど」
『——えっ。奏?』
電話越しに、響が驚いたような声を上げたのが聞こえてきた。
「うん。如月奏」
『……びっくりしたぁ。これ、奏の携帯番号だったんだ』
「マネージャーが事務所から借りてるやつを貸してもらった」
『なるほどね。……っていうか奏が俺相手に自分のことを「如月だけど」とか言うの、なんか新鮮だね』
「響が『如月です』って出たから、真似してみた」
『はは、なにそれ』
「俺と響が同じ苗字になったみたいで、面白かったから」
『……そっかぁ』
そっかぁ、って、それどういう感情?
奏はそわそわとした気持ちになった。
「——俺と同じ苗字だと、不満?」
思わず不安になり、奏が尋ねると、響は少しの沈黙の後に答えた。
『……どうせ同じ苗字なら、「皐月」がいいな』
「!」
『ほら、もちろん逆もあるけどさ、日本だと結婚した時に大抵は夫側の苗字になるじゃん?』
「……俺も男だから、響が如月になったっていいじゃん」
『まあ、それもそうか』
自然にそう答える響の声が嬉しかった。
同じ苗字——結婚してもいいって、響は思ってくれてるのかな。
如月響……
皐月奏……
うん、どっちの苗字になっても、いい感じだ。
実際、男同士で結婚なんてできるのかは分からない。
だけど少なくとも響は、これからも俺と一緒に暮らしていく未来をイメージしてくれているのかもしれない。
そう考えると、奏はたまらなく嬉しさが込み上げてきた。
『——ところで、曲作りは順調?』
響からの問いかけに、奏は「う」と声を漏らした。
「いや……。作ってはいたけど、作ったものを監督に却下されて、一から作り直しになった」
『ええっ?奏がボツを食らうなんて珍しい』
「うん。初めての経験」
『マジかー……。ノラン監督、厳しいなあ。それだけ作品作りにこだわりが多い人ってことなんだろうけど……』
「俺さ。今まで曲を作る時に、あまりこだわったことってなくて……。
監督が何をそこまで拘っているのか、意図が分からないんだよね」
『——奏はひらめき型だものね』
響はその後、少し間を置いて続けた。
『——俺はどっちかと言えば、ノラン監督側の人間かもしれない』
「え?」
『俺も何かを作る時は、突き詰めようとして、凄く時間をかけるタイプだから。
特に曲を作ろうと思ったら、何ヶ月もかかったりする。
音大時代は一曲を仕上げるのに時間をかけ過ぎて、先生からも注意されたことがある。
でも、自分が納得できるまで何度でも書き直したりして、拘っちゃうんだよね』
「……そうなんだ」
『あくまで俺の場合は、ね。
時間をかけたからって良いものができるとは限らないけど、自分が納得いくまで練り上げて、良いものを作りたいって気持ちが強いんだよ。
その分、完成したモノが愛おしく感じるんだけども』
響の言葉に、奏は思うことがあった。
響はこだわりをもって丁寧に作ったからこそ、自分の作品を愛せるのか。
だったら——ただ閃きのままに曲を書いて、相手が満足すればそれでいいと思っていた俺の作曲スタイルが、ノラン監督と相容れないのも当然のことかもしれない。
だって俺は、自分の作品をそこまで愛していない。
自分の曲に愛着がないし、まして他人の作った映画だとかドラマだとかへの愛情やリスペクトなんてまるで無い。
ノラン監督には、そんな俺の心のうちが、音楽を通して透けて見えたのかもしれないな——
「——ねえ、響」
『うん?』
「自分が好きじゃないものを好きにならなきゃいけない時——
どうやったら好きになれると思う?」
『え?』
響は戸惑うような声を出したが、奏が
「真面目に答えて」
と言うと、響は「うーん」と唸りながら言った。
『……今まで好きじゃなかった人を好きになったという意味で、なら……
奏のことがまさにそんな感じだったよ……?』
「うん?」
『え?そういうことを聞いてるんじゃなくて?』
「……続けて」
『ほら、俺は元々は奏に対して音楽家としてや友人としての好きって感情しか持ち合わせていなかったけど……。
奏の気持ちを知って、俺も奏のことを好きになりたいって思って——
その時、俺はもっと奏のことを知りたいと感じた』
「俺のことを、知りたい……?」
『うん。奏のこと、もっともっと知っていきたいって思った。
それで奏のことを知って、奏のことが分かっていくうちに、自分の気持ちもどんどん大きくなっていって——
今じゃもう、奏に会えない日々が辛いって思うくらいに奏のことが好きになったよ』
知りたい。
その気持ちが、好きに繋がる——?
奏は、響の言葉を受けて、現状を打破するきっかけを得たような気がした。
だがそれに気付くより先に、響が発した「好き」という言葉に意識が引き寄せられてしまった。
「……俺のこと、そんなに好きなんだ?」
『うん。好き』
受話器越しに響が答える。
「……そっか」
『……奏がアメリカに行くまでさ、最近はずっと同じベッドで寝てたじゃん。
ご飯を食べる時もだいたい一緒だったし。
今は奏がいない家に一人きりで、すごく寂しいよ』
「……本当?あんなにアメリカへ行くべきだってプッシュしてたのは響なのに?」
『それは奏にチャンスを失ってほしくなかったからだよ。
奏が作曲家として飛躍するきっかけを、俺の寂しいなんて感情ひとつで潰してしまう訳にはいかないと思ったし』
「そのせいで俺、今すごく困ってるんだけど。
日本に早く帰りたいのに帰れなくてさ」
奏が文句を言うと、響がくすりと笑う声が漏れてきた。
『奏も早く帰りたいって思ってくれてるんだね』
「当たり前じゃん」
『当たり前って思ってくれてるのが嬉しい。
俺たち両思いなんだなって思えるから』
「うん。……両思い……」
奏は気持ちが込み上げてくるのを堪え、代わりにこくりと頷いた。
「……今日、さ……。
響が普段着てるシャツが荷物から出てきたせいで……
時間を浪費してる場合じゃないって分かってるのに、抑えきれなくなって——」
『え?俺を想像して抜いたってこと?』
「っ、抜いたとか言うな!!」
『じゃあ何してたの?』
「……響の匂いがするシャツを着て、響のことを思い出しただけだよ……」
『——それだけ?』
「っていうか、あのシャツ紛れ込ませたのってわざとだよね?」
『そんなつもりないけど?元々全部奏の服だし』
「あ、そ。俺の考え過ぎか」
『ちなみに俺は奏のこと考えながら毎晩抜いてるよ』
「!!」
奏はどきりと心臓を鳴らすと、
「……ほんとに?」
と念を押した。
『ほんと。だから奏も俺で抜いてたら嬉しいなーって思ったけど……。奏はしてないんだ』
「……さっき、した……」
奏は頬を染め、誰に見られていると言うわけでもないが顔を背けた。
『——ふふ』
受話器の向こうから、響がくすっと笑う声が聞こえる。
『……ほんとは、俺の着てるシャツを紛れ込ませたの、わざとだよ』
「!——やっぱり、仕込みだったんだ」
『アメリカに居ても、俺のことを時折思い出してくれたら嬉しいなって思ってさ』
「っ、時折なんてもんじゃないよ……」
奏は携帯電話を無意識に握り締めていた。
「毎日毎日、早く日本に帰りたいって思ってる。響に会いたいから。
だけど焦る気持ちが募るほど、曲の完成が遠ざかるような感覚がしてしまう。
ノラン監督に俺の焦りが伝わってて、わざと意地悪されてるんじゃないかなんて妄想までして——」
『……ねえ、奏』
焦りが表に出るせいか自然と早口になっていく奏に、響はゆっくりと語りかけるように言った。
『会えない時間が愛を育てる——って言葉があるでしょ?
俺、奏と離れて暮らしてる今、前よりもっと奏のことを愛おしいと感じる気持ちが大きくなってる。
——たかが一週間でこれだよ』
「……っ」
『奏が戻って来る頃には、今よりもっともっと奏のことが好きな俺になってると思うんだ。
だからさ、奏が焦る必要なんてないよ。
奏が頑張って、沢山悩んで、粘って、こだわればこだわるほどに
奏の作る音楽も、俺の奏への気持ちも熟成されたものになるんだから。
ゆっくり時間をかけて、奏にしか作れない音楽を書き切っておいでよ』
——通話終了ボタンを押した後、奏は大きく息を吐き出した。
……この仕事が終わったら、今よりもっと響を好きな自分になって響に会いに行ける。
今だってこんなに恋しいのに、それ以上の気持ちになるのは少し怖いとすら思う。
だけどその気持ちを知ってみたい。
それから——ノラン監督が納得する音楽を生み出して、ちゃんと胸を張って響に会いに行きたいから……
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