47 / 56

アメリカにて②

——翌日から奏は、撮影現場に入り浸るようになった。 最初のサントラを作った時の一週間は、初日に撮影の様子を見学した後、ホテルに籠って作曲をしていたが、 響と電話をしてからの奏は毎日撮影現場に通い、ノラン監督が役者やスタッフに指示を出す姿を近くで見学するようになった。 この人はどういう思いを持ってこの作品を作っているのか? この人は、完成した映画を観る人達にどんな感想を持ってもらいたいと思っているのか? 初めは通訳に、ノランが周囲に指示している内容を逐一翻訳してもらっていたが、 次第に奏は専門用語だけ電子辞書で調べ、あとは自然にノランの言葉を聴き取れるようになっていった。 たった二週間程度で通訳なしでもノランの言葉を理解できるようになったことに周囲は驚いた様子だった。 喋ることはできないが、通訳を介して 「今、ノランが役者に指示した内容はこういう意図があってのことか?」 などと確かめてくる奏に、ノランは都度背景を説明し、奏の解釈に齟齬があれば、奏が納得するまで話をしてくれた。 「そーちゃんは耳がいいから、語学も得意だろうなと思ってたけど……。 たった二週間で英語が聴き取れるようになるなんて天才的だわぁ」 ——奏がホテルに戻って来た時、早苗が言った。 「私なんて小さい頃から英会話教室に通ってたのに、5教科の中で英語が一番苦手だったのよねえ。 ずっと日本で暮らすだろうから、どうせ英語を使う機会なんてないだろうなーって気持ちで勉強してたせいでしょうね。 そーちゃんを見ていると、『好きこそものの上手なれ』を体現してるなァって思っちゃう」 「別に、英語が好きとは思わないけど」 「でも、ノラン監督の考えていることをもっと知りたい、作品への理解を深めたいって気持ちが湧いてきたんでしょう? だから彼の言葉も自然とわかるようになったのでしょうね」 「マネージャー、俺のこと買い被りすぎ。 二週間で英語が聴き取れるようになんてなるわけ無いじゃん。 ただ何となく、『こういうことを言ってるんだろうな』って感じ取ってるだけ」 「……それはそれで凄いと思うわ」 早苗が笑みを浮かべていると、奏は表情に影を落とした。 「——でも、肝心の音楽が浮かばない。 正確には、いくつかサンプルは作ってみてるんだけど、これは正解なのか?っていまいち確信が持てない。 本当にノランの求めている音楽に近付いているのかは、分からないよ」 「どれ、聴かせて?」 早苗が言うと、奏はホテルの中に置いてもらったコンパクトな電子ピアノの前に座った。 そして、頭の中にある音楽のイメージをひと通り奏でて行った。 「——どう?」 「とっても素敵な出来だと思う!」 「でも、何か違う気もする」 奏はそう言うと、日本語に訳された台本をめくり始めた。 「……そもそも、映画の世界観が日常とかけ離れて過ぎているのも、俺のイメージする音楽がノランの理想と擦り合わない原因だと思っていて」 「ああ。出だしから『西暦3000年——』なんて始まり方だし、非日常もいいところよ」 「『西暦3000年、地球を捨てて宇宙へ旅に出た人類が宇宙人と戦いながら安寧の地を探し出す』——あらすじだけ聞くとSF的なメロディーラインが浮かんでくるんだけど、 どうやらノランの中でこの作品はSFモノとしては作ってないらしいんだ。だから混乱してる」 「ノランはこの作品のテーマは何だと言ってるの?」 早苗が尋ねると、奏はこう答えた。 「ヒューマンドラマなんだってさ」 「ええー!?こんな壮大な宇宙旅行の物語が!?」 早苗が目を丸めると、奏はこくりと頷いてみせた。 「俺も初めは戸惑ったけれど、ノランが役者たちに出している指示を聞いているうちに気づいたことがある。 彼、アクションシーンに対してはだいたい数回でOKを出すんだけど、人と人とが対話をするシーンには何十回でもリテイクを出してるんだ。 人同士がコミュニケーションを取り合う場面には表情とか言い回しとか、間の取り方だとか細かい指示を出して、凄いこだわってるのがわかる」 「なるほどねぇ……。きっとそれって、撮影現場を見ていないと気付けなかったことよね!」 「うん、そう思う。——で、さらに言うと、この映画に登場する人物たちって特定の人間関係の枠を持たない人ばかりなんだ」 「人間関係の枠?」 早苗が首を傾げると、奏はこう説明をした。 「たとえば、友達。幼馴染、恋人、夫婦、兄弟、家族—— そういった親密度の高い関係性で結ばれている人物は一人もいない。 同僚や上司部下の関係でもない。ただ、同じ宇宙船に乗っている人達が巡り合って、話が展開していく。 彼らは互いに対して友情も愛情も持ち合わせていない。 そもそもノランが作り上げた舞台設定では、『これまでの人類は情のもつれから憎しみ合ったりすれ違ったりを繰り返し、磨耗してきた。 ある時、それは非効率だと気付いた人類は、自発的に他者に向ける感情を制御するようになり、やがて友人や恋人といった感情同士で結びつく関係性を構築するのをやめた。 家族でさえ、血の繋がりがあるのみの独立した個体でしかなく、深く思い入れるような強い感情は持ち得ない。 人類に存在するのは、同じ宇宙船に乗る者というコミュニティだけである』——ということになってる。 そんな、人間らしい感情描写が排除された世界観であるにも関わらず、だよ? ノランは人と人との関わり合いに一番重きを置いて撮影している。 この矛盾から、ノランは一体何を伝えようとしているのか——俺にはどうも理解できなくて」 奏の話を聴いた早苗は、「へえぇ」と言って深く息を吐き出した後、ゆっくりと口を開いた。 「……なんだかまるでヒトガタの宇宙人たちが、人間の真似事をして、人間になろうとして試行錯誤してるみたい。 人と人との繋がりを大事にする——人間が人間らしい行為をしているだけのはずなのに、それを非日常の世界として撮るだなんて斬新ねえ」 早苗が言うと、奏は「でもさ」と言った。 「でも——『人間らしさ』って何だろう、と思うことはある。 俺自身、他の人が考える常識を理解できないことが沢山あるから。 響と知り合ってからの暫くの間も、響の考える普通の感覚というものを理解できなくて、言い合いになることがあった」 「今は、サツキくんの言う常識が理解できるようになったの?」 早苗が尋ねると、奏は「どうかな」と苦笑いを浮かべた。 「それはまだ、自信がない。 だけど響のことをもっと理解したいって気持ちがあるから、前よりは分かるようになってきたんじゃないかとは思う。 ただ——常識だとか普通だとか、そういう『皆と同じ感覚を持つ』ことって、皆とおしなべられていく行為だと思う。 響が普通の感覚を大事にしてるってことは分かる。それを尊重しなければとは思ってる。 でも、響がどうして普通でいたがるのかは——まだ理解し切れてない」 奏が浅くため息をつくと、早苗は少し考えた後、不意に奏の手を取った。 「そーちゃん。あのね……。 これに関しては、私もサツキくんに近い感覚を持ってる方だと思うから、言うわね。 ——そーちゃんが努力家なのは知ってるわ。 ちゃんと音楽と向き合って、集中して、エネルギーを注いで曲作りに励んできたことは私もよく知ってる。 ……なんだけど、そーちゃんにはやっぱり、天性の素質があるんだなって、そーちゃんを沢山見てきた私だからこそ思うの。 メロディーが自然と頭に浮かんでくることも、何十時間でも集中して曲作りができることも、並大抵の人には真似できない行為なのよ。 そーちゃんが頑張っていることに対して『天才だから』『才能があるから』という言葉だけで済ませるのは失礼だと思うし、そうじゃないことは分かってる。 そーちゃんの音楽は、そーちゃん自身の努力に裏打ちされてるのは知ってるのよ。 ——だけれど、あなたの土台にはやっぱり、他の人にはないものが備わっているのね。 だからこそ、普通の人には真似できないようなものが作れて、皆あなたの音楽に惹かれてしまうのよ。 私も、紛うことなきその一人だから分かるの」 早苗はそこでひと呼吸すると、ぽかんと見つめている奏に言った。 「普通で在りたい——その願望が生まれるのは、自分が天才ではないことを知ってるから。 どんなに逆立ちしたって、そーちゃんと同じ才能を得ることはできないから。 だったらはじめから、異端な存在じゃなくて平均的な感覚を持っていて、普通の感覚の中で幸せを見つけられる方がいい。 期待して裏切られるより、確実に手に入る平凡な幸福に甘んじていたい。 自分が手に入れられないものを掴もうとして、皆と同じ道から降りてしまうのは怖い。 掴めないとわかっているのに追いかけ続けて、普通の世界に戻って来れなくなるのがたまらなく怖いのよ」 「マネージャーには、サツキの気持ち……分かるんだ」 奏がどこか寂しそうに呟くと、早苗は 「そうねえ、分かる気がする」 と答えた。 「——サツキくんは何でもソツなくこなせて、面倒見が良くて、きっと今まで周囲から慕われてきた人だと思うのね。 いわゆる優等生って言うのかな。 空気が読めて誰とでも仲良くできて、どんな会話も拾うことができる」 「……思えばマネージャーもそんな感じだったよね、昔から」 「そうね。私自身には誇れるような才能が何も無いから、代わりに勉強を頑張ってみたり、周囲から好かれるように振る舞ってみたり。 自分がつまらない人間だって思われたくなかった。 才能もないのに目立とうとして、痛々しい奴だって浮いてしまうのは嫌だった。 なるべく普通の感覚を持ってて、普通の人間であるように周囲に思ってもらえるように武装していたのよね」 「……俺は……マネージャーが何でもできることを尊敬してるよ。 ピアノも昔から俺より上手に弾けたし、誰にも壁を作らず接することができるのだって、俺にはできないことだから凄いって思ってる。 響のことだって、ピアノが上手で作曲もできて、その上俺ができない家事もできる。 俺はマネージャーのことも響のことも尊敬してるのに—— なんで俺のこと、特別な何かみたいに言ってくるのかわからない」 ——そうやって『わからない』なら『仕方がない』ことだと割り切ってきた。 わからないことはどうしようもないと思って、人の心の機微を探るより、音楽だけにエネルギーを注いで生きてきたから、ツケが回ってきたんだと思う。 俺がもっと人の気持ちを理解できる人間だったら、響と言い合いになったり、響を苛つかせるようなことは言わずに済んだだろうに。 でも、それじゃ響のことを思い遣れているとは言えない。 響に愛されたいなら、響を愛したいなら、響の心を知らなければダメだ。 奏はその晩、再び響に国際電話をかけた。 本当は毎晩でも話したい気持ちはあるが、なるべく作曲に時間を費やすようにしていたことと、早苗もこの携帯電話で速水と話したいだろうと考えていたら一週間が過ぎていた。 『——そっかぁ。そんな難しいテーマの映画なんだ』 「響はほんとに観たことないの?」 『うん、無い。映画とかドラマは昔から関心が薄くて—— 奏の音楽は全部知ってるけど、奏が楽曲提供してる映画やドラマそのものを観たことってほとんどなかったんだ。 「2月のセレナーデ」でさえ、奏が主演を務めてたことを知らなかったくらいだし……』 「じゃあ、響もこの映画の予備知識はないんだね。んー……」 『有益なアドバイスができなくてごめん。 でも、俺は奏がどんな音楽を完成させたのかを知っているからさ。 正直——奏がボツを出されたり、こんなに時間をかけて作ってる曲だとは知らなかったけれど、本当に良い音楽になっていたよ。 俺もピアノで何度練習したことか……』 「——ねえ、響……」 奏は躊躇いがちに言った。 「それ、弾いてみてくれない……?」 『ダメだよ』 響は速攻拒否した。 『それじゃ奏が作曲したことにならないんだって。 ちゃんと奏が一から作り上げた音楽を納めてきて欲しい。 じゃなきゃ、アメリカに行くよう背中を押した立場としては心苦しいよ』 「分かってる……。でも、苦しいのは俺もそう。 もう二週間も響と会ってないんだから」 『今、電話で話してるじゃん。それじゃ我慢できない?』 「我慢できない」 『……うーん……』 わかってる。 俺がノランの望む曲を作れないのが問題なんだ。 俺がどうにかしなければならない問題であって、響が解決できることじゃないって。 でも、響にはつい愚痴を溢したくなってしまう。 俺は響に会えなくて苦しいって感じてるけど、響はどうなの? って、響の気持ちを確かめたくなってしまう。 ……響、返事に困ってるな。 さっきから無言になってる。 「——あのさ、響。我慢できないって言ってはみたけど、俺——」 『へそ出して、奏』 「へ?」 奏がきょとんとすると、響は受話器越しに繰り返した。 『服を捲って、へそに指を乗せて』 「突然、何——」 『いいから、やって』 「う、うん……」 訳がわからないながらも、奏は言われたとおり服を捲り上げ、へそに指を乗せた。 「……おへそ、触ったよ」 『それを俺の指だと思って、もっと奥の方まで押し込んで』 「——ん……」 指先がへその奥に当たり、奏は思わず自分で与えた刺激に反応してしまう。 「っ、押し込んだけど……?これ何——」 『そのまま優しく擦って』 「……んんっ」 再び声が漏れてしまい、奏はだんだんと恥ずかしさが込み上げてきた。 「ねえ——さっきから何なの?これ……」 『声を聞くだけじゃ我慢できないんでしょ? だから抜いてあげようと思って』 「!!な——」 違うっ!! 俺が我慢できないって言ったのは、そういうことじゃ—— 『どう?俺に触られてるとこ、気持ち良くなってる?』 「何言ってるの?触ってるのは俺の指——」 『指示してるのは俺だから、俺が触ってるのと一緒だよ』 ……なんだよ、その理屈は。 響に指示された通り実践してしまう俺も俺だけど……。 『——その指、お腹を滑らせながら、もっと上の方に持っていって』 響に言われたとおり、奏はお腹の上をなぞるようにして指を動かしていった。 くすぐったい感覚が肌に伝わり、ぶるりと鳥肌が立つ。 『胸の辺りまでもってきた?』 「持ってきた」 『そしたら乳首を撫でて』 「撫でるって?」 『俺がいつも奏のを触る時みたいに。 上下に擦ったり、そっとつまんだりしてみて』 「……んぁ……!」 響が愛撫してくれている時のことを想像し、先ほどよりも身体がピクリと反応を示した。 響はいつも、もっと優しく触ってくれてたっけ? 先端には指の腹をそっと添えてきて、それからピアスをぐりぐりと擦って—— ちょっとだけ痛いけど、癖になる感覚—— 奏が響の手つきを思い出しながら乳首のピアスに指をかけると、それだけで声が溢れ出てしまった。 『気持ち良い?』 「……ん……」 『そしたらさ、携帯を耳元に置いて両手を使えるようにして?』 「……置いた」 『空いてる方の手で、勃ってるか確かめて』 「はぁ……?!」 奏が呆れたように股間に手を伸ばしてみると、そこは既に固くなっていたことに気付く。 「……」 『勃ってる?』 「……うん」 『じゃあ、そこ握ってみようか』 「……これも響の手で握ってることになるの?」 『そう。俺の手だよ』 ——もう、どうにでもなればいい。 初めは、響に会えない寂しさを欲求不満になっていると勘違いされたことを訂正しようとしていた奏だが 響に指示されるままに身体を触っているうち、本当に昂りが抑えきれなくなってきた。 なんでだろう。 俺、自分には性欲なんて大して無い方だと思ってた。 そりゃ、溜まってきたら自分で処理はしていたけれど、特定の誰かを想像して抜くなんてことはしたことがなかった。 なのに響と暮らし始めてからは毎晩だって響に求められたいと思うようになってしまって、 アメリカに来てからは当たり前のように響のことを考えながら抜いて—— 自分がこんなに欲求の強い人間だったことに自分でも驚いてる。 そして今、響が触ってくれてるんだって想像したら、まだほんの少し身体を弄っただけなのにこんなに固くなってしまって、もう自分でも訳がわからない。 奏はその後も響の声を聞きながら擦り続け、あっという間に果ててしまった。 ティッシュで拭っていると、なんだか途端に自分のしていたことが恥ずかしくなってきた奏は、照れ隠しに響へ文句を言った。 「——こんなやり方覚えちゃったら、俺もう一人で出せなくなるよ」 『奏の欲求が溜まったら、また俺に電話すればいいよ』 「……そんなこと言ったら、俺毎晩電話するけど」 『はは、いいよ。どうせ俺、基本家にいるし。好きな時にかけてきて』 「言ったな」 『うん。奏の性欲処理に協力できるなら、いくらでもエロいこと言ってあげる』 響に官能的な言葉を言わせてみたい、という欲と、響にはしたないことはあんまり口にして欲しく無いという抵抗が同時に頭をよぎる。 『……奏?』 「……」 『出したから眠くなっちゃった?そろそろ電話切ろうか?』 「……んん……」 ——違うだろ。 こういうことを響にしてもらいたくて電話した訳じゃなかったのに。 響の考えてることをもっと知りたい、離れている時も響のことを思い遣れる恋人になりたいと思って電話をかけたはずなのに、 いつのまにか響に優しくされて、俺だけすっきりしちゃってる。 これじゃ俺が響に甘えて、響をもっと好きになるばかりじゃん。 「……響はさぁ」 『うん?』 自分が押し黙ったことで、電話を切ろうとしている響に奏は話しかけた。 「響は俺に何かしてほしいことって無い?」 『ん?』 「俺、日本にいる時も響に衣食住の世話をしてもらってるし、今だって処理に付き合わせてしまったりして—— なんていうか、響に与えてもらってばかりだから。 考えてみたら俺、響のワガママって聞いたことない」 『……ワガママ、かぁ』 「響の望んでることとか、察して実践できるようならこんなこと聞いたりしないけど。 俺、そういう想像力がないから、響に聞かないと分からない」 『そうだなぁ』 響は暫く考え込んだ後に言った。 『……考えてみたけど、俺、今の暮らしに何も不満が無いんだよね。 衣食住だって、どっちかっていうと俺が奏に居候させてもらってお金も好きに使わせてもらってる訳だし』 「好きに、って言うけど、響は生活に必要なものしか買わないじゃん」 『うん。でも別に何か欲しいと思ったことがないんだよね。 ——ここに来る前はさ、それなりに欲は持ってたよ。 質の良いモノを持ちたいとか、仕事で成果を認められて出世したいとか、お金持ちになりたいとか——。 でも、今はそういう欲が一つもなくてさ。 何でだろうって改めて考えてみたんだけど……今の暮らしが満たされているから、そういう欲が出てこないんじゃないかなって』 響はそう言った後、『あ、でも』と続けた。 『強いて言うなら、早く奏に会いたいって欲はある。 ——でもそれ以上に、奏が作曲家として音楽ととことん向き合って、奏が満足いく作品を作って欲しいって気持ちの方が強いかな』 「……」 『奏?……やっぱ、もう眠いでしょ?』 「……眠くない」 なんで。なんで響はこうなんだ。 いつも俺のことを気遣って、俺の心配ばかりして、俺の背中を押してくれて—— 「……俺が響の背中を押すことは、できないのかと思って……」 『!』 「響にはいっぱい支えられてるって感じてる。 でも、俺が響のためにしてあげられることが無くて悲しい」 『……奏が音楽を作ってくれることは、俺のためにもなってるよ。 だって俺、奏の音楽が好きで、奏の元へ来ることができたんだから』 響はそう言うと、 『そろそろ寝た方がいいよ。寝不足じゃ曲作りにも集中できないでしょ』 と告げ、電話を切るよう奏に促した。 ——通話を終了させた後、奏はティッシュの山積みになっているゴミ箱を見てため息をついた。 ……何、俺ばっか気持ち良くなって、優しくしてもらって、甘えてるんだろ。 俺が響に返せるようなこと、曲を作る以外には何もないんだから、俺のやるべきことは一つしかないだろ。 ——もう寝るように言われた奏だったが、コーヒーを作って無理やり飲み干すと、再び作業机の前に座った。 それから更に一週間が経ち、奏は再びノラン監督に曲を納品した。 サントラのうち、いくつかのシーンにおける楽曲にはようやくOKを出してくれたノランだったが、メインテーマとなる音楽に対しては やはり「自分のイメージとマッチしない」と返されてしまい、メインテーマをアレンジして作った楽曲も同様に突き返されてしまった。 まだノランの求めるイメージと擦り合っていないのか。 まだまだノランの考えを理解できていないのか、俺は。 奏はスタジオに滞在する時間を延ばし、なるべくノランの側で彼の考えを理解しようと努めた。 ——アメリカに滞在して三週間が過ぎ、毎日スタジオにやって来る奏のことを、役者やスタッフも認知するようになった頃—— 「ねえ、あなた、いつも現場を観にきてるわね。 確か、ジャパンから来てるコンポーザーなんでしょ?」 撮影の様子をメモしていた時、突然日本語で話しかけられた奏は、顔を上げて声の主を見た。 声を掛けてきたのが主演役者の一人、アシュリー・ウォーカーだと分かると、奏は軽く会釈をし、「イエス」と返した。 「ふふ、ダイジョブ。わたし日本語ちょっと話せる」 「え?」 「ジャパンが好きで、ジャパンにホームステイしてたことあるから」 「そうなんだ」 「あなた熱心ね。いつもメモ取って、ノランに質問して」 「……仕事だから」 奏が答えると、アシュリーはニコッと微笑んだ。 「わたし仕事熱心な人、好き。 ジャパニーズは真面目な人たくさんいたけど、あなたはそれだけじゃない。真面目な上にホット」 「ホット?」 奏が怪訝な表情を浮かべると、アシュリーはくすくすと笑ってみせた。 「ハハ、ホットじゃ通じない? 日本語だと、ウーン……ステキってところかな?」 アシュリーは、いつの間にか奏の隣に座り、身体を密着させていた。 なんだか距離の近い人だな。これってアメリカだと普通なのか? 日本にいたって他人の感覚が分からなくて苦労してるのに、他所の文化圏の常識はもうさっぱり分からない。 ここで俺が身体を離したら、無礼な振る舞いになるだろうか? 奏が考えていると、アシュリーは 「もしかして、照れちゃった?」 と言って顔を覗き込んできた。 「照れてない」 奏はそう返したが、アシュリーは笑みを崩すことなく話しかけた。 「わたし、あなたの力になれる」 「え?」 「ノランは、わたしの親戚なの。 この映画に私が出るのも、アクターをしてるわたしにノランが声を掛けてくれたから」 「!……そうなんだ」 「わたし、ノランの事よく知ってる。 あなたがノランについて知りたいことあったら、教えてあげられるよ」 アシュリーが言うと、奏は「じゃあ」と口にした。 「ノランがこの映画にはどんな音楽が合うと思ってるのかも、あんたには分かるの?」 「——もちろん!」 アシュリーは即答すると、奏の耳に唇を近づけて囁いた。 「あなたが泊まってるホテルの部屋番号を教えて? そこでゆっくり話しましょうよ。 ——今日の夜、空いてる?」 アシュリーは、自分の収録を終えたら奏の部屋を訪ねると言って去って行った。 ノランから三回目のボツを出され、ノラン自身からはふわっとしたアドバイスしかもらえず手詰まり感のあった奏にとって、 日本語が話せてノランの親戚でもあるというアシュリーは、この窮地を救ってくれるかもしれないという期待を抱いた。 彼女は撮影の合間の休憩に話しかけてきたこともあり、確かにここではゆっくり話すことができないのだろうと思った奏は、言われるがままアシュリーにホテルと部屋の番号を伝えたのだった。 ——その後、現場の見学を切り上げることにした奏は、早苗から再び携帯電話を貸してもらいホテルに戻った。 アシュリーが訪ねてくるまで、曲の作り直しを進めておこうと譜面を広げていると、不意に携帯が鳴った。 「!」 自宅の番号が表示されてる。 ……響から掛けて来てくれた! 奏が心を踊らせながら応答ボタンを押すと、スピーカーから聞こえて来たのは響の声ではなかった。 『もしもし!早苗さん、お疲れー! 今って電話大丈夫ー!?』

ともだちにシェアしよう!