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アメリカにて④
——同刻、東京。
「——何だよッ!!」
響は勢いに任せて通話終了ボタンを押すと、肩で荒く呼吸した。
「なあ、響……。奏さん大丈夫そうだった……?」
その近くには、不安そうに見守っている速水の姿があった。
「——知らない!」
響は、つい強い口調で返した。
十数分前——
遠くでチャイムの音が聞こえて、電話を切ると言われた後も、通話は終了しなかった。
響は、奏が普段携帯を使わないことを知っていたため
ちゃんと終了ボタンを押せなかったのだろうと推しはかり、自分が切って終了させようと思ったのだが、受話器から聞こえて来た女の声にぴくりと反応した。
遠くで何か話しているのが聞こえる。
内容までは聞き取れないが、早苗ではない女の声であることは分かった。
つい気になってしまい、終了ボタンを押せずにいると、だんだんと声が近くでするようになり、ボスッとソファのようなものに座る音が聞こえた。
ワインのグラスが重なる音がし、そして——
奏の喘ぐような声が聞こえて来た。
奏。何してるの?
その人は誰?
「奏!奏!!」
さっきまで心地良い酔いに浸っていたのもすっかり醒め、響は受話器に向けて叫んだ。
電話中、気を遣って別の部屋に移動して飲んでいた速水も
響のただならぬ声を聞いてリビングに駆けつけた。
その後も漏れ聞こえてくる喘ぎ声に困惑しながらも、響の耳に一度だけはっきりと声が聞こえた。
「や……め……」
やめて?
そう言おうとした?
——もしかして襲われているのか?!
「奏!頼むから返事して!そっちで何が起きてる?!」
響は必死に奏へ呼びかけたが、その後も奏からの応答はなく——
とうとう、通話が切れてしまった。
響は慌ててリダイヤルしたが、それ以降電話が繋がることはなかった。
「どうしよう……」
遠く離れた地で、奏に何かが起こっている。
今すぐ様子を見に行きたいのに!
奏の居場所が国内だったなら、パスポートがない俺でもすぐに向かえるのに!
「奏っ、無事でいてくれ——
ああ、どうしたら……!!」
「響、落ち着けって!」
慌てふためく響を、速水は肩に手を乗せてソファに座らせた。
「よく分かんないけど、奏さんがピンチなんだよな?
なら、まずは奏さんの近くにいる人に連絡を取って様子を見に行ってもらおう」
「近くにいる人——。
そうだ、加納さん!加納さんに連絡を……あ、でも」
「困ったことに、さっきまで通話してたアレが早苗さんのアメリカ滞在中の携帯電話なんだよな」
「ああ……どうしよう。奏が危ない目に遭ってるかもしれないのに……!」
「だから落ち着けって!まだ手はある。
奏さんが今居るのって、事務所が手配したホテルだよな?」
「あ、ああ。確かそう言ってた。お金はノラン監督の側が出してくれてるけど、手配をしたのは奏の事務所だって——。
でも、ホテルの名前を聞いてなかった……」
「なら事務所に連絡しよう。
さすがに社長ならば滞在先を把握してるだろうから、社長直通の番号を調べて電話だ」
「……っ、分かった」
響は奏がよくかける番号をメモしている電話帳を開くと、事務所社長の携帯番号を見つけて電話をかけた。
少し待ち、社長が出たのを確認すると、響は
「とにかく緊急事態なんです!」
と繰り返し、早苗に繋いでもらえるよう頼み込んだ。
社長はすぐにホテルに連絡を入れて早苗に繋ぐことを約束してくれた。
「——あとは、早苗さんからの連絡を待つだけだな」
響が社長との電話を切ると、速水が言った。
「とりあえず、リビングで待ってよう」
「……他に出来ることはないかな」
「え?」
「っ、奏が非常事態なのに、ただ待ってることしかできないなんて……!
俺、奏のために何もしてやれないなんて——」
響は落ち着かない様子で何度も廊下を行き来し、早苗から連絡が来るのを待った。
どうか奏が無事でありますように。
とにかくそう祈るばかりで、落ち着かない時間が一時間ほど流れた時——
家の電話が鳴り、響はすぐさま受話器を取った。
「もしもし!?奏!?」
響は不安でいっぱいになりながらも、
「奏、何があったの!?」
と尋ねた。
すると受話器の向こうから、奏の沈んだ声が聞こえて来た。
『……ごめん。さっきまで速水さんと飲んで楽しそうにしてたのに、台無しにしたよね』
今そんなことを気にかけてる場合じゃないだろ!?
俺は奏が無事だったかを聞きたいんだ!
「そんなことはいいんだよ!
ねえ奏、大丈夫だった?いきなり電話を切られて繋がらなくなったから、俺心配で——」
響が食い入るように訊ねると、奏は淡々とした声で答えた。
『女の人に襲われた』
「っ!……」
ドクン、と大きく胸の鳴る音が響く。
女の人に襲われた——その言葉を聞いた瞬間、頭によぎったのは如月明音の存在だった。
母親から性のトラウマを植え付けられた奏が、また女の人に強引に迫られた——
どれだけ恐ろしい思いをしただろう……
響が顔面を蒼白させると、再び奏が口を開いた。
『クスリを飲まされて、身体が動かなくなった。
見られたくないところを見られて、触って欲しくないところを触られた』
「な——」
なんてことを!!
俺の……っ。俺の奏に、よくもそんな酷いこと——
響が怒りに震えていると、
「でも、マネージャーが助けに来てくれたから、今はもう大丈夫」
という声が聞こえて来た。
そして、こうも奏は続けた。
「俺が部屋に招いたせいでこうなった。だから俺のせい」
——奏がなぜ女の人を部屋に招いたのか、確かにまだ理由を聞いていなかった。
しかし聞かずとも、その女に襲われたという話を本人の口から聞いた以上、悪いのは奏ではないことははっきりと分かる。
奏。俺のほうこそ、ごめん。
俺がアメリカに行くよう後押ししたせいで、奏はまたトラウマを作ることになってしまって——
何かあっても俺が助けに行けない距離に奏を行かせてしまったのだから、俺にだって責任がある。
ああ、でもどう伝えたらいい?
奏は今、きっと深く傷ついてる。
怯えているかもしれない。
顔は見えないけど、もしかしたら泣いてるかもしれない。
怖かったねと慰めるべきか、自分を責めないでと諭すべきか、それとも——
ああ。こんな時に側に居られたなら、黙って抱き締めることができただろうに。
顔の見えない状態で、言葉だけで奏を思い遣るにはどうしたらいい?
俺がもっと機転がきいて、語彙を持っていれば……!
響が何と声をかけてやるべきか考えていた時——不意に奏の声が聞こえて来た。
『……俺のこと、嫌いになったでしょ』
え……?
嫌いになる?何でそんな風に思うんだ?
奏は被害者だし、俺がそんなことで奏を嫌いになる訳がないのに。
『アメリカまで来て何してるんだって思ったでしょ。
早く帰りたいんじゃなかったのかって。
女の人を部屋にあげたりして、お酒飲んで何するつもりだったんだって。
作曲はどうしたんだよって思ってるでしょ?』
そんなこと思ってない。
いや、確かに何でそんな状況になったのかは気になるよ。
でも今は、奏が心や身体に傷を残していないかを確かめたくて仕方ない。
ああ、でもどう尋ねたらいい?
どこまでされたとか、そんなことは聞かない方がいいだろうけど、
起きたことを把握しないで的外れなことを言って傷つけるのも——
響が返事に迷い、なかなか言葉を紡ぎ出せずにいると、突然奏は冷めたような声でこう告げた。
『っていうか、もういいよ』
——は?
もういいって、何が?
響が目を瞬かせると、奏は続けてこう口にした。
『俺に冷めたなら、俺の帰りなんて待たないでいい。
家事もやんなくていいし』
いやいや。何でそんな話になるの?
冷めたって何。
冷めてたら、こんなに心配したりしないだろ。
俺はこの三週間、ずっと奏が帰ってくる日を心待ちにして過ごしてたんだよ。
いつ奏が帰って来ても快適に過ごしてもらえるように、少しでも疲れを癒せるようにって、いつも以上に念入りに家の掃除をしたり、難しいレシピを作る練習をしたり、マッサージのやり方を勉強したりして——
奏の帰りを、ずっと待ってた。
響が困惑していると、受話器から更に衝撃的な言葉が届いた。
『他に恋人作ったって構わないよ』
……なんで?
なんで。なんでだよ。
なんでそんな話になるんだよ!?
まさか奏、襲われたって口では言ってるけど
本当はその相手に惚れてしまったなんてことはないよな?
そこに加納さん、来てるんだろ?
来てるから電話できる状態なんだよな?
奏を襲った女の人がもういなくなったから連絡して来たんだろ?
俺が他に恋人を作っていいだなんて、奏が俺のことを好いてくれてるなら、そんなこという訳ないよな?
『響が行くとこないなら、俺んちに居候してたって別に文句は——』
奏はまだ何か言いかけていたが、響の中で何かが弾けるような音がした。
——どうしてだよ。
他に恋人を作っていい?
俺のことが好きなんじゃなかったのかよ?
なんでそんな酷いこと、俺に言うんだよ?
そんなことが言えるのは、奏が俺に関心を失ったからってことじゃないのか。
なんでそんなに淡々と話すんだ?
俺は気が気じゃない一時間を過ごして、やっと奏の安否が確認できたってところに
奏から他所で恋愛していいだなんて突き放すようなことを言われて、
もう心がズタズタになっているのに。
何、飄々とした態度で言ってるんだよ。
ふざけるなよ。
響は怒りと悲しみと落胆が入り乱れた感情の中、「奏」とようやく声を出した。
「……奏は俺の気持ち、何も分かってないんだな」
響は吐き捨てるように言うと、感情のままに電話を切った。
「っ、おい。響——」
速水は、明らかにささくれだった様子の響に声を掛けようとした。
だが響は、速水と視線を合わすことなく
「ごめん。一人になりたい」
と言い、ピアノの部屋に入ってしまった。
——それから間も無く、再び如月邸の電話が鳴った。
響はピアノの部屋に籠ったまま出てこないため、戸惑いながらも速水が電話を受けると、かけてきたのは早苗だった。
「!早苗さん!?」
『あっ。速水くん?——サツキくんはどうしてる……?』
「響なら『一人になりたい』って言って、ピアノの部屋に籠ってる……」
『そう……』
「ねえ早苗さん。俺には断片的な情報しか入って来てなくて——そっちで何が起こっているの?」
速水が尋ねると、早苗はことのあらましを話して聞かせた。
「!……奏さんが、襲われた……?」
『サツキくんが連絡を繋いだお陰で、さっき私が相手の女を追い出せたところなの。
——でも、残念ながらとどめは刺せなかったわ……』
しゅんとした声でそう話す早苗に、速水はぞくりと背中を震わせた。
だが、奏のことを弟のように、息子のように長年世話して来た立場の早苗からすれば
奏を襲った相手を殺してやりたいと感じるのも自然な感情か、と速水は思い直した。
むしろ、速水の身に何かあった時にも
早苗は全力で速水を守ってくれそうだという安心感すらも抱いた。
「……早苗さんは怪我とかしてないよね?」
『私はなんともないわ!でも——そーちゃんは塞ぎ込んでる。当たり前だけどね』
早苗は、奏が「一人になりたい」と告げたために
今は自分の部屋に戻って来たところだと告げた。
『そーちゃん、サツキくんに起きたことをちゃんと話せてない気がするの。
私、そーちゃんが自分でサツキくんと話せる方が良いと思って電話を渡したんだけど、
電話を終えた後のそーちゃんが酷く沈んだ様子で……。
もしかしたら私、判断を誤っちゃったかも……』
「早苗さんは何も間違ってないよ!」
速水は即座に否定した。
「奏さんは気が動転してうまく話せなかったんだと思う。
それに響も、奏さんから連絡をもらうまで気が気じゃないって様子だった。
ただでさえとんでもないことが起きていたのに、お互い顔を見て話せる状況でもなくて、何か行き違いがあったとしてもおかしくない」
そして速水は、響が落ち着いたら自分からも話をすると言い、一度電話を切った。
——響はピアノの椅子に腰掛け、ぼんやりと鍵盤を眺めていた。
帰りを待たなくていい?
もう家事をしなくていい?
他に恋人を作ってもいい……?
ふざけるな。ふざけるなよ。
俺がどれだけ奏のことを好きだと思ってるんだよ。
あんなに俺を頼ってくれて、弱いところを見せてくれて、好きだと伝えてくれて
俺のことを夢中にさせてきたくせに、いきなり突き放すのかよ。
俺は奏のことが心配で心配で、いてもたってもいられなかった。
奏が好きだから。
好き、なのに——
「……なんで」
何で俺は、一番傷ついているはずの奏に対して
『俺の気持ちを分かってない』とか言ってしまったんだ。
本当は奏の気持ちを分かってあげるべきだっただろ。
傷ついているのは奏で、辛い気持ちを打ち明けたいのも奏のはずなのに、
何で俺は自分がどれだけ心配して、奏を思ってるのかを分かってもらおうとした?
俺が奏を守ってあげなきゃって思っていたのに。
俺が奏を突き放してどうするんだよ!!
「うっ……、うぅ……!」
響は自分への怒りとやるせなさに心が押し潰されそうだった。
しかしそんな感情が沸くたび、自分の保身ばかりに走っているような気がして、また自分を責めたくなった。
——駄目だ。
ちゃんと奏に謝らないと。
だけど言葉が見つからない。
こんなとき、何と声をかけたらいいかが分からない。
肝心な時に優しい言葉を紡ぎ出せない。
言葉が出て来たところで、自分の話すことなど薄っぺらく感じてしまう。
だってそうだろ?
咄嗟の瞬間に、奏を傷つけることしか言えなかった人間の言葉なんて。
吐いたところでどんな説得力が持てるっていうんだ。
これまでの人生だって、俺はピアノから逃げ、作曲から逃げてきた。
奏がひたむきに音楽と向き合うのを尻目に、天才とは脳の作りが違うんだと斜に構えて、才能の有無で自分に言い訳をしていたような人間だ。
音楽から捨てられるのが怖くて、自分から音楽を捨て、音楽以外の快楽に流れた人間だ。
最初から、奏に釣り合うような性根じゃない俺が、奏を幸せにできるはずがない。
奏を傷つけて、それで奏がまた塞ぎ込んでスランプになったら、
それこそ俺が作曲家としての奏を潰してしまうことに他ならない。
そんな風に奏を駄目にするくらいなら、俺は奏の言う通り、奏の元を離れるべきなのかもしれない。
他に恋人を作るつもりなんか毛頭ないけれど、少なくとも俺は奏の側にいるべき人間ではないんだ——
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