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『Dreamist』①

「——仕事をキャンセルしたい?」 翌日、ノランの元にやって来た奏は、サントラの制作を降りたいと申し出た。 「俺には、あなたの要望に応える力がありません。 迷惑をかけることは承知の上です。 関係者の皆さんには誠心誠意謝ります。 キャンセルしたことで発生するお金も、俺の私財で賄います。 だから、もう……日本に帰らせてください」 これ以上は限界だった。 昨日、アシュリーにされたことはショックではあった。 もう少し先までされていたら、母親以来のトラウマを植え付けられていた可能性だってある。 しかしそれ以上に奏の頭をいっぱいにしていたのは響のことだった。 あんなことを言うつもりじゃなかった。 思ってもない嘘が口から出て来た。 きっと電話で、言葉だけでは俺の気持ちが伝わらない。 そして響の気持ちも汲み取ることができない。 ——日本に帰ろう。 響に会って、あれは本心じゃないときちんと伝えたい。 だから、これ以上アメリカに留まることはできない—— 「……君はコンポーザーとして、プロフェッショナルに活動しているはずだね? 仕事を途中で投げ出すことが、どれだけ君の信用を堕とす行為かは理解しているかい?」 英語で問いかけるノランに対し、奏はいつのまにか話せるようになった英語で言葉を返した。 「分かっています。 だから俺、もうプロを名乗るつもりはありません。 作曲の仕事は廃業します」 「……フーム」 ノランは暫く唸っていると、やがて顔を上げた。 「——分かった。私の方こそ、何度も文句をつけてやり直しをさせたりしてすまなかったね。 でも分かってくれ。 私は自分の作品に妥協することをしたくない。 私の作品に関わる人にも、誰であっても妥協をして欲しくなかったんだよ」 「……はい……。できることなら、俺も最後まで粘りたかった——」 「……日本に戻りたい事情があるのかな?」 ノランは、奏の言動から何かを察したらしく、そう尋ねた。 「君の様子だと、この案件から逃げたいというよりは、何か別の事情があるように見える」 ノランにそう指摘された奏は、もはや取り繕う必要もないと考え、正直に話した。 「……日本に、大切な人がいます。 でも、今にも関係が壊れそうになっている。 ——もう間に合わないかもしれないけど…… 会って話したい。 電話では、言葉だけでは伝えきれない気持ちを伝えるには、それしかないから」 奏が答えると、ノランは腰に手を当て、ふうと息を吐き出した。 「……ちょっとスタジオの外を散歩するかい?」 ——ノランの誘いで、二人きりで外に出て来た奏。 アメリカ滞在も四週目に入り、周辺の景観もすっかり見慣れたものとなっていた。 「——言葉だけでは伝わらないものは、確かにある」 ノランは外の空気を大きく吸い込むと、歩みを進めながら言った。 「人間には五感が備わっているからね。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚—— 中には第六感、シックスセンスなんてものがあるという説もあるけれども。 人間は五感を使って様々な情報を取り込む生き物だ。 一説では、ヒトの記憶に一番結びつくのは嗅覚だなんて言われているね。 昔の恋人がつけていたのと同じ香水の香りを嗅いだ瞬間、交際していた当時の記憶が蘇るなんて話を聞いたりするよ」 ——そういえば、響が自分の着ているシャツを荷物に紛れ込ませて来たせいで、 響のことがこれまで以上に恋しく感じたっけ…… 「とにかく、ヒトっていうのは五感に強く印象づけられたものほど記憶に残る生き物らしい。 私は作品のクリエイターとして、観る人の記憶にずっと残るようなモノを創ることを生涯の目標としているんだ。 ——映画を観る行為に紐付く五感は、『視覚』と『聴覚』。 観る人に対して訴えかけることができる手段は、この二つに限られる。 この限られた感覚を最大限に生かして、いかにヒトの心に残せる作品を作ることができるかが最大の課題というわけだよ。 そして視覚と聴覚、片方だけでは伝えきれないシーンは君が想像する以上に多くてね」 「……たとえば?」 興味を示した奏が尋ねると、ノランは 「そうだね、たとえば——」 と続けた。 「——言葉では『あなたが嫌いだ』とセリフを言っていても、内心で『本当は大好き』だと感じているシーンがあるとするだろう? 観る人の耳に聞こえてくるのは『嫌い』という音の情報だけれど、 それはそのシーンにおいて本当に伝えたい真意ではない。 そういう時、役者には『情熱的な視線を送って』だとか、『感情の込め方を意識して』だとか指示を出して、役者の表現力をもって真意が伝わるように撮る。 ——けれど、それって役者側にも高い演技力を要求するし、 何よりも観ている側にも『真意を読み取る力』が養われている前提となる」 「……俺、人の気持ちがわからない人間だって言われます。 自分でも自覚があるので、多分そういうシーンを観たら、言葉を額面通り受け取ってしまうと思います」 奏が自虐的に言うと、ノランはくすりと微笑んだ。 「ね?映画の難しいところは、観る側の『情報を受け取る力』『情緒を感じ取る力』に委ねる部分が出て来てしまうってことなんだよね。 ——でも、そういう時に映像より、セリフより、役者の演技よりも 観る人に強く訴えかけることができる切り札があることは分かるかい?」 奏が首を傾げると、ノランは足を止めてこう答えた。 「——それが音楽だよ」 ノランはそう言って、くるりと奏に顔を向けた。 「映画において、音楽は作品の要ともなる要素だ。 映画のストーリーを忘れかけても、音楽を聴けば思い出すことができたりする。 映画における音楽というものは、聴覚の中でもヒトの記憶に強く結びつけるために使われる手段なんだ。 だから私は映画を作る時、音楽は絶対に妥協しない。 私の映画を観た人が何度でも思い出せるよう、映画の世界観を最大限に引き出せる音楽でなければ私はOKしないと決めているんだよ」 「——ならば、やっぱり俺にはその大役は務まらないと思います」 ノランの言葉を聞いた奏が肩をすくめて言った。 するとノランは、奏の肩に手を乗せた。 「君が作曲した、『2月のセレナーデ』はね、私の心を強く揺さぶる音楽だった」 「……」 「あの音楽からは、君の魂を感じることができた。 ——それこそ第六感に触れるような、これまで聴いたことのないほどのエネルギーを、音楽から感じたんだよ」 「それは……どうも」 「あの曲を作れる君ならば、私がこの映画を通して世の中に届けたい思いというものを表現してくれるんじゃ無いかと期待した。 だから君に声を掛けたんだ」 「……期待に沿えず、すみません」 奏が尚も力無く言うと、ノランはこう尋ねた。 「君は——大切な人がいると言ったね。 その人とは、恋人同士なのかい?」 「……はい。——今のところは」 奏が答えると、ノランは続けて言った。 「じゃあ、もし君がその恋人との関係を解消したら—— 君はもう、その相手のことを好きじゃなくなるのかな?」 奏は目を見開き、ノランを見つめ返した。 「……そんなの、無理。 響のことを好きじゃなくなるなんて—— 嫌いになったり、忘れたりすることもできない。 たとえ恋人関係を解消しても、俺は響のことをずっと思い続けると思います」 ノランは、奏に優しく微笑んだ。 「……そうか。関係が変わっても、君の気持ちは不変なんだね。 ——私がこの映画を通して伝えたいテーマそのものだよ」 「っ!?」 奏が息を呑むと、ノランは外を歩く人々に目をやりながら続けた。 「恋人、夫婦、親兄弟、友人、同僚—— 世の中には様々な関係が存在し、成り立っている。 けれど私は思うんだ。 ヒトは元々、一人で生まれて来て、一人で死んでいく生き物だ。 それなのに誰かとの関わり合いが生まれた時、ヒトはその関係に名前を付けたがる。 名前というラベルを貼ることで安心するから。 恋人だから、ワガママを言っても許されるはず。 夫婦だから、何でも分かり合えるのが当然なはず。 親兄弟だから、死ぬ時まで見捨てず助け合うべき。 友人だから、約束を守るのがマナー。 同僚だから、プライベートには介入しないのがセオリー……。 ——その関係が永久に不滅だという保証があるわけでも無いのに、その関係に名前がついていると、その関係に相応しい振る舞いをして、関係性を演じようとし始める。 そこで歪みができ、関係に相応しく無い何かが起きた時、人は関係性を終わらせてしまう。 私はそれが勿体無いと思えてならなくてね。 だからそういった概念を取り払った、新しい価値観をベースとする世界で物語を撮ってみたいと思った。 この映画の中のキャラクターたちが『個』の集合体で、誰も特定の関係を結んでいないのがその象徴だ。 ——映画の結末には、こんなメッセージを伝えたかったんだ。 『ヒトは特定の関係を結ばずとも、愛を紡ぐことのできる生き物だ。 人が人を助けたいと思うとき、愛するとき、関係という枠組みは要らない』ってね」 ノランがそう言い終えた時、スタジオの外周をひと回り歩き終えていた。 「——ソウ。君の音楽は、既定の価値観に囚われない魅力を持っていると思う。 言葉では伝わない想いを届ける力を備えていると思う。 君は大切な人のことを恋人だから、恋人じゃなくなったからという枠組みに当て嵌めてジャッジするような人間ではないと思うよ」 「……」 「私は君に、ここでプロフェッショナルであることを辞めてほしくはない」 ノランはそう言うと、戸惑う奏の背中に手を乗せた。 「——日本に帰って、それで君が素晴らしい音楽を作れるというのなら、ここに縛り付けることはしない。 君には私の映画の真髄を理解してもらいたくてここに滞在してもらったけれど、私はもう、その答えを君に伝えた。 君が最後まで粘り抜き、私の求めている音楽を生み出してくれるのならば、ここから先のやり方は君に任せる。 ——だから、ソウ。 もう少しだけ、私とも向き合ってくれないかな?」 「……ノラン」 奏は唇を引き結ぶと、がばりと頭を下げた。 「——ありがとうございます。 俺……自分の音楽を強く望んでくれているあなたのためにも、最後まで頑張ります。 日本で、必ずあなたの求める音楽を創り出して来ます」 ——奏が早苗に、日本に戻って音楽制作を続けることを伝えると、早苗はすぐに日本行きのチケットを手配してくれた。 アシュリーが近くにいる環境をどうにかしたいという思いや、 響と直接会って互いの気持ちを齟齬なく確かめ合って欲しいと言う思いも抱えていた早苗は ノランが奏の企画を許可したと聞いて喜んでみせた。 こうして日本に戻ることが急遽決まった奏だったが、奏は響に帰国することを伝えていなかった。 急いで帰国の準備を進めていたこともあるが、響に電話を切られた後、どう声をかけていいか分からなかったために連絡を取れずにいたのだった。 ——ゆえに奏が突然日本に戻って来たことを、響はその姿を目にする瞬間まで知らなかった。 「響——」 奏が四週間ぶりに自宅に戻ると、すぐ違和感に気づいた。 家の中に、響の気配がない。 「響?」 奏は部屋の一つ一つを確かめていったが、そのどこにも響の姿は見当たらなかった。 そしていずれの部屋も驚くほど綺麗に整えられており、人が生活しているような断片がまるで見出せなかった。 ——まさか。 まさかそんなはずは…… 奏は慌てて、響に個室として貸していた書庫の扉を開いた。 そこもすっかり整頓され、響が使っていた客人用の布団もクローゼットの中に綺麗に畳まれていた。 嘘。嘘だ。 出て行ってしまった? 行く当てなんて無いんじゃなかったの? 響、どこに行ったの—— 「響……ッ!!」 奏が膝から崩れ落ち、響の名前を叫んだ時—— 「……え?」 という声が玄関から聞こえて来た。 「!?」 奏は慌てて玄関まで駆けていくと、そこには久しぶりに見る響の姿があった。 「響——!!」 奏が思わず駆け寄ると、響は奏を見て呆然とした表情を浮かべていた。 「あれ……、奏。なんでここに……?」 「戻って来た……!」 「……どうして……?曲はまだ、完成してないって——」 「響に会いたかったから。響と直接会って話がしたくて、戻って来たんだよ」 「っ……!」 それを聞いた響は、眉間に皺を寄せた。 「——何してるんだよ!? アメリカで曲を書き上げて帰って来るって言ったろ! なんで完成してないのに戻って来ちゃうんだよ」 「響と話をする方が大事だったから」 「っ、選択を間違えてる!」 「間違ってない!!」 奏は言い切ると、ふと響に尋ねた。 「……ねえ。全部の部屋が、やけに整頓されてたんだけど…… もしかして、出て行こうとしてた……?」 「……」 「俺が電話口であんなことを言ったせい……?」 「——奏のせいじゃないよ」 響はそう言うと、手に持っていた荷物を床に置いた。 どうやら買い物帰りだったらしい。 しかしスーパーの袋から飛び出て見えるのは いつも響が買うような肉や野菜などのバランス良い食材ではなく チューブゼリーやエネルギーバーのような携帯保存食ばかりだった。 「……そろそろ潮時だと思って。 いつまでも奏の元で世話になるわけにもいかないって思ってた頃だったから」 「っ、俺に黙って出て行くつもりだったの!? ——っていうか、どこに去るつもりで——」 「俺が生まれ育った地元。 ……もうすぐ、俺がこの世に生まれて来るから」 「へ……?」 「俺、三月生まれなんだ。だからあとひと月もしないうちに、赤ん坊の俺が誕生するはずでさ。 ——俺の両親に会いに行って、俺が二人の息子だって伝えれば、もしかしたら俺の存在を認知してくれるかもしれない。 この世に俺が誕生してしまったら、話が拗れそうだから、その前に会いに行こうと思った」 「……響は実家に帰ったら、もうここへは戻って来ないつもり……?」 「そのつもり」 響が答えると、奏は響の腕を強く掴んだ。 「痛っ——」 「そんなの、許さない!!」 奏は響の身体にしがみつくと、困惑する響に構わず告げた。 「勝手に出てくなんて許さない。 俺を置いて居なくなるなんて許さないから」 「……でも、奏は俺に言ったよね。 よそで恋人作っても構わないって。 ——別に作る気はないけどさ、あれって俺との関係を終わりにしたいってことだったんじゃないの?」 「違う……っ!」 奏は響に縋りついたまま、ブンブンと首を横に振った。 「嘘。全部嘘だよ。 俺、響がいないところで響以外と関係を持ちそうになったことを響に知られて、嫌われてしまっただろうなと思ったから—— あの時は正直パニックになってた。 不安で胸が張り裂けそうになっていた時に、響が無言で黙り込んでしまったことが余計に不安を生んで、 それで俺……響に拒絶される前に予防線を張ろうと思ってしまったんだと思う。 ——本当は響に離れてほしくない。 他の人に目移りなんてしてほしくないよ。 ずっと俺のそばにいて、俺のことだけを想っていてほしいよ——」 奏は力の限り響を抱きしめた。 「お願い。お願い、響。 いなくならないで。 離れて行ったりしないで。 俺のこと、響が幸せにしてよ——」 「……奏。あのさ」 長い沈黙の後、響が口を開いた。 「あの後——電話を切った後、右京を介して教えてもらったよ。 あの日何が起こっていたのか。 奏が辛い目に遭っていたのに、俺は奏を気遣うどころか突き放すようなことをしてしまって、本当に悪かったと思ってる——」 「……響……」 「それで——肝心な時に優しくできない俺なんかじゃ、奏の側にいる権利はないって思ったんだ」 「!」 響は奏の身体をそっと離すと、寂しそうな表情を浮かべて言った。 「俺じゃ奏を幸せにはできないよ。 それどころか、作曲家としての奏の才能まで潰しかねない。 だから俺、奏とは——」 「言わせない……ッ!!」 奏は響の言葉を遮ると、強引に唇を奪った。 響が呆然とすると、奏は唇を離し、息を整えた。 「……終わりにするだなんて、絶対言わせない。 ——ずっと繋がってる証だって開けたじゃん。 響にとっては、あれは何の重みもない行為だった?」 「……」 響は小さく息を吐き出すと、そっと服を捲り上げた。 「っ!!」 響のへそには、ピアスが無くなっていた。 代わりにへその上部に、穴を開けた痕だけが残っている。 「——なんで……」 「外した」 「っ、だからなんで外しちゃったの!?」 「繋がりを断つって決めたから、後腐れがないようにしたくて」 「——馬鹿!響の馬鹿ァ……!!」 奏は気付くとボロボロと涙を落としていた。 「こんな……っ、響にとってこんな簡単に外してしまえるモンなら、はじめっから開けさせたりしなかった……! 俺はッ……響が俺とずっと一緒にいようと思ってくれてるんだなって思ったから…… 俺と同じ場所にピアスを開けたのに……!」 「ごめん。開けたことを悔やんではいないよ。 でも、俺じゃ奏を幸せにできないって気付いたから。 ——現に今も、俺が奏を泣かせてる」 響がそう言うと、奏はさらに激しくかぶりを振った。 「じゃあ幸せになんてしてもらわなくていい! 泣かされたっていいよ! 俺はただ響と一緒にいたい! それだけを望むのでは駄目?」 「……」 「ねえ、響——。響は俺と同じ気持ちじゃなかったの……?」 「……俺だって、奏が好きだよ。 会えない間、ずっと奏のことを思ってた。 ずっと奏を待ってた。 たかが一ヶ月離れてただけだけど、一生のように長い一ヶ月だった。 ——だけど俺、奏が辛い時に側にいてやれなかった。 奏が傷ついている時に優しい言葉をかけるどころか、自分の気持ちを考えろだなんてエゴ丸出しなことしか言えなかった。 そんな俺なんかじゃ、奏のことを支えてあげられる存在にはなり得ない——」 「支えになってる!間違いなく、響は俺の支えだよ……!」 「でも、奏が曲を作れず日本に戻って来たのは俺のせいでもあるだろ? 俺、奏の曲作りの足を引っ張ってるじゃん。 現に奏を困らせてるのに、俺なんか——」 「ッ……来て!!」 奏は何かを覚悟をしたように唇を引き結ぶと、再び響の腕を握った。 「ちょっ——」 響が抵抗する間もなく、奏は響をピアノの部屋に連れ込むと、 「そこに立ってて!」 と強い声で言った。 「……何をするつもり——」 「ノラン監督の映画のサントラ。今、頭の中で組み立てる」 「!?」 「今この場で、ノランへの音楽を完成させるよ。 ——そしたら、響が足を引っ張ってることにはならないよね?」 「……正気?一ヶ月アメリカにいても完成しなかったサントラを、今ここで……?」

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