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『Dreamist』②

——ピアノから激しい音が鳴り響いた。 雷のような轟音に、響は思わず耳を塞ぎそうになった。 しかし激しかったのは冒頭だけで、次第にそれは薄れ、段々とスローテンポの落ち着いた音階に変化していった。 ——あ……このメロディは…… 響は思わず息を呑んだ。 響もよく知る音。元の時代で弾いていたものと近い旋律が、奏の指先から紡ぎ出される。 そうだ。 この楽曲こそ、奏がのちに世に発表して国際的に注目される音楽家となった最初の曲。 『Dreamist』だ。 タイトルはDreamとmistを合わせた造語で、夢が霧のように消えていくことを意味して付けられたものだと世間では言われていた。 如月奏本人が楽曲の由来についてを語った記事などは見たことがないけれど、 幻想的で儚いメロディーは夢が霧となって消えていくような印象そのものだと高く評価されていた。 でも俺はその世間の声と、このタイトルの意味は違うんじゃないかと思えて、 如月奏がどうしてこんな名前をつけたのかを疑問に思いながらピアノで練習していたことを覚えている。 だって俺はこの音楽を聞いた時、夢が消えていく儚さよりも、もっと明るくて前向きな雰囲気を醸し出した楽曲だと感じたから—— ——奏がピアノを弾き終えると、響は思わず尋ねた。 「……今の曲が、映画のメインテーマ?」 「うん」 「タイトルももう決めてる?」 「……『Dreamist』かな。今パッと考えただけだけど。 夢のDreamと、霧のmistを掛け合わせてみた」 「——どうしてその名前にしたのか教えて欲しい」 響が訊くと、奏は少し考える素振りをみせた。 本当に、音楽もタイトルも即興で作ったものらしい。 後から理由を考えているように見えた響は、やはり奏の才能を羨ましく思えた。 「——ノランの作ってる映画のストーリー。 地球に住めなくなった人類が宇宙を旅しながら、新しい星を探す物語なんだけど、最期には宇宙人との戦いに敗れて絶滅するって結末なんだよね」 暫くして、奏が言った。 「それで、人類が安住の地を見つけるという『夢』が、絶滅という結末を迎えて『霧』のように消えてしまった、ってことを表現したの?」 響が奏に訊ねると、奏は「ううん」と首を横に振った。 「違うよ。旅を続ける中で、ヒトはヒト同士の結びつきから色んな感情を芽生えさせていくんだ。 喧嘩したり、思い合ったり、泣いたり、笑ったり。 ヒトとヒトが交差する場所には、いつも感情が生まれる。 それはとても美しくて尊くて、ヒトが感情を持つ生き物であることの喜びを分かち合えるんだってことを、ノランは伝えたいんだなって分かったんだよ。 ——だから『Dreamist』の意味は、『夢に満ちた世界』。 ミストのように、辺り一面を夢が覆い尽くしていて、人類は幸せに満ちあふれている。 だけどミストって目には見えない細かな粒子だから、自分が満たされてることにはなかなか気付けない。 ヒトはヒトとして生まれて、ヒトと関わり合っていることそのものが、既に幸福なんだってこと—— 人類最期の日、絶滅する瞬間にヒトは悟るんだよ。 そして、自分たちは最期の瞬間を迎えるまで夢に満ちて生きてきたんだってようやく知ることができる——これはハッピーエンドの物語だ」 「ハッピーエンドの……物語」 響が口にすると、奏は椅子から立ち上がり、響の側へ寄った。 「俺——今、演奏していて気付いたことがある」 「え?」 「ノランの映画は、西暦3000年の世界での価値観として物語を書いているけれど、この価値観は今の時代でも変わりないんじゃないかって。 俺が人間として生まれてきて、響に出会えたことで、俺はもう既に幸せだったってことに気付いたよ」 「!……」 「響と色んな話をしてさ、一緒に美味しいもの食べたり、旅行の思い出を共有したり…… 喧嘩して傷付けたり、傷付けられたりしたことも、全部響の人生と交差しているからこそ経験できてることなんだなって。 そう思ったら、ネガティブな感情も本当はネガティブなんかじゃない。 響の側にいて、響と一緒に時間を共有できていること自体、もう幸せに満ちてることだって気づけた。 ——だからさ……。 ありがとね、響」 奏がにっこりと唇の端を上げると、響はたまらず奏の身体を抱き締めた。 「っ……俺なんかが側にいても、奏は幸せになれるの……?」 「なれるっていうか、もう幸せになってる」 「また奏のことを傷付けたり、余裕がなくて気遣えない時が何度もあるかもしれないけど…… それでも奏は幸せだって言ってくれるの?」 「幸せだよ。響と居ることが、俺の幸せ」 奏は顔を上げると、響の腕の中から響を見上げて尋ねた。 「響は?俺と居て、幸せ?」 「……幸せに決まってる。 奏が幸せだと思ってくれるなら——他には望まない」 そうだ。 俺は奏を幸せにしてあげたかったんだ。 俺のせいで奏が悲しんだり、仕事がままならなくなったりして、不幸になることが耐えられなかった。 だけど、俺はもう奏を幸せにできていたんだな。 だったら、奏から離れる理由なんて何もない—— 響と奏は暫く立ったまま抱き合っていたが、やがて奏はもじもじとした様子で言った。 「……響……。 もう一回、ピアス付け直してくれない……?」 そう言われた響は、少し気恥ずかしそうにポケットを弄り、ピアスを取り出した。 「——外したのに持ち歩いてたの?」 奏が驚いたように言うと、響は頬を染めて俯いた。 「……奏の元を離れて、もし寂しくなったら…… また嵌めて、奏と繋がってるって実感したいなと思ったから……。 付けたままだと自分の決意が揺らぎそうで外してたけど、捨てることも出来なくて……」 「——ははっ、何だよそれ」 奏はくすくす笑うと、 「消毒するから、貸して」 と言って響の手の中からピアスを預かった。 奏は救急箱から消毒液を持ってくると、ピアスのシャフトとキャッチを丁寧に拭いていった。 そして響をピアノの椅子に座らせると、 「痛くしたらごめん」 と言い、響のへそに開いた穴へシャフトを通していった。 「んっ……」 まだ完成していなかったピアスホールに再び金属が突き刺さり、響は痛みに身体をピクリと反応させた。 「——できた」 奏はキャッチを回して固定すると、ピアスの付いた響の腹部を眺めて笑みを浮かべた。 「おかえり、響のおなか」 そう言って、膝立ちになっていた奏が響の腹部に頬擦りをすると、響はくすぐったそうに身体を捩らせた。 「ひゃっ……!奏、くすぐったい——」 響が仰け反った拍子に、ピアノの椅子はバランスを崩し、後ろに倒れそうになった。 「っ、危ない!」 奏が咄嗟に響の手を引くと、椅子だけがガタンと音を立てて倒れ、響はすんでのところで尻餅をつくのを免れた。 「……危なかったぁ」 響が冷や汗をかくと、奏は 「ごめんね」 と謝った。 「——いいよ。それに奏が膝立ちしてるのに、俺だけ椅子に座っちゃってたし」 響はそう言うと、そのまま床の上にあぐらをかいて座り込んだ。 「座るなら、リビングのソファに移動しない?」 奏が立ち上がろうとすると、今度は響が奏の腕を掴んで言った。 「移動する時間が惜しい」 「え?」 「奏を抱きたい。今すぐに」 「ここで……!?」 ピアノしか置かれていない部屋には、クッションや毛布になるようなものは何もない。 二月の冷えた床に座り込んでいる響は、それをものともせずに頷いた。 「寒いのは嫌いって言ってたくせに」 奏が苦笑いを浮かべると、響は奏へ不意に唇を重ねた。 ——唇が離れていく時、響は奏の耳元で囁いた。 「大丈夫。すぐに熱くなるから」 「……言ったね。ちゃんと俺のことも熱くしてよね」 ——ピアノの部屋に、いつもとは違う音が響く。 肌が擦れ、ぶつかる音に混ざって、どちらのものか分からない乱れた呼吸音が絡まり合う。 舌を絡める音、ピアスがぶつかる音、奏の中で響が動く音が床に振動し、壁に反響していく。 「大丈夫?床、冷たくない?」 「平気。むしろ、響とくっついてるからあったかいよ」 「そんなこと言って、あとで風邪引くなよ」 「引いたら響が看病してくれるんでしょ?」 奏がにやりと笑ってみせると、響は少し間を置いて言った。 「——もちろん。 奏には辛い思いとか、しんどい思いとか、悲しい思いをさせたくないから。 もし奏が風邪を引いたら、付きっきりで看病したげる」 「……響ってほんと世話好きだね」 「奏だから世話を焼きたいんだよ。 全部全部、奏だから……俺は——」 響はそうして、奏の身体をぎゅうっと抱き締めた。 奏はきつく閉じ込められた腕の中で、ほろりと涙を一雫溢した。 響の顔が見たかった。 響の声を聞きたかった。 響の香りを嗅ぎたかった。 響の味を確かめたかった。 響の温度に触れたかった。 今、俺の五感は響だけで満たされてる。 ノランの言う第六感があるとするならば、 今は響の心とも繋がりあえたような気がしている。 だって今、俺と響はきっと同じ気持ちを共有できてる。 「……しあわせ……」 思いを口にすると、響は奏の頬に自分の頬を寄せた。 「俺も幸せだよ」 響の頬が離れて行こうとすると、奏は「響」と呼び止めた。 「好き」 「大好き」 奏と響の声が重なった。 「あれ?奏は『大』を付けてくれないの?」 響が笑うと、奏は少し悔しそうに呟いた。 「心の中では『大好き』って言った」 「うそォ?」 「嘘じゃない。嘘なんてつかない」 「電話では嘘ついたじゃん」 「もうつかないよ」 「ほんとォ?」 「ほんと。ほんとに大好きだよ、響」 ——その後、奏はノランの元へ国際便でデモテープを送った。 響に披露した『Dreamist』に加え、未完成だったサウンドも一通り作った奏が デモテープを発送したことをノランに電話で伝えると、彼は電話口で驚きの声を上げていた。 『ソウ、君が日本に着いてからまだ二日も経ってないじゃないか! 本当にもう完成したのかい?』 「はい。ノランがOKしてくれる出来かは聞いてもらわないと分からないけど…… 日本に着いたら、すぐに楽曲が浮かんできて作れました」 『……君は日本で仕事をしているのが性に合っているみたいだね。 私は長年現場主義でやってきたけれど、君のようにホームにいる時が本領を発揮できるタイプの人間もいるってことを今後は視野に入れるようにするよ』 「いえ、ノラン。それはちょっと違います」 奏はノランの言葉を否定して言った。 「俺が曲を作れたのは、大切な人に会うことができたからです。 その人といると、淀みなく音楽が浮かんでくるから—— その人が側に居るなら、アメリカでもどこでも音楽は作れると思うんです。 それに——俺はアメリカで、ノランと一緒に仕事ができて良かったと思ってる。 ノランが映画制作にかける情熱を肌で感じて、真剣に作品作りと向き合う人たちを現場で見て、俺の心が動くのを感じたから。 ノランの伝えたい思いを感じ取って、それを観る人たちに伝える橋渡しになりたいと思えたから。 だから俺——あなたに会えて良かった」 ——それから一週間後、ノランのスタッフから奏の事務所へ、全曲OKの返事が戻って来た。 奏に直接連絡が来なかったのは、ノランが音楽を聴いてあまりに感動したらしく 奏の音楽に合わせて映画の質をもっと高めたいという欲求に駆られたために 今は寝る間も惜しんで撮影に当たっているためだということだった。 これまで以上に、『何が何でも人類史に残る映画を創り上げる』という信念を掲げ、忙しくしているノランには 奏に電話をかける暇さえないようだとスタッフが電話口で漏らしていたらしい。 それから、アシュリーが降板したことも余談として伝わって来た。 彼女と奏の間で起きた出来事は、結局アシュリーも早苗も表沙汰にはしなかったが アシュリーが他の演者に対しても素行不良を働いていたことが別の関係者からリークされたことと、 何よりノランの求める演技を演じ切ることができなかった彼女を ノランがクビにしたらしいという噂だった。 ノランの手掛ける映画の公開はまだまだ先になりそうだ、という話を事務所の社長から聞いた直後—— 今度は五十嵐監督から、奏に連絡が入った。 三月に公開が決まっている『2月のセレナーデ』の最終チェックをしているから、奏と響にも観てもらいたい、と。

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