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『5月のコンチェルト』
——三月になった。
「明日、いよいよ全国ロードショーだね」
『2月のセレナーデ』の劇場公開が明日から始まることを知らされていた響は、
わくわくした様子でチケットを二枚広げた。
「奏はもう、スタッフの人達と観たんだよね」
「うん、最終チェックも兼ねてってことで呼ばれたから観た。響も来れば良かったのに」
「『2月のセレナーデ』の映画を観るのはこれが初めてだし、せっかくだから劇場の大スクリーンで観たかったんだよね」
「そのために二人分の前売り券を買ってくるなんて、よっぽど楽しみだったんだね」
「そりゃそうだよ!」
響はチケットを見つめた。
現代にいた頃、観たことのなかった『2月のセレナーデ』。
台本を読んで、撮影現場も沢山見学させてもらっていたから、もうどんなストーリーかは大体知っているけれど……
カメラ越しに映る奏がどんな表情をしているか、早く観たくて仕方がない。
「……まあ、響も明日を楽しみにしてるみたいだし……。
俺も、仕事を今日のうちに仕上げておこうかな」
「また新しい作曲の依頼が来てるんだっけ?」
「うん。まだ全然着手してなかったけど、今日のうちに終わらせとく」
「一日で作れる前提なの、さすが奏だね」
「……とりあえず、仕事するよ」
奏はリビングのソファから腰を上げると、ピアノの部屋に向かった。
白いグランドピアノ。
その譜面台に、音階がびっしり書き込まれている楽譜が置かれているのを奏は目にした。
「……え?」
まだ譜面には何も書いていなかったはず。
奏が近づいて楽譜を手に取ろうとすると、後ろから声がかかった。
「それ、俺が作った曲」
「えっ」
奏が驚いたように振り返ると、後ろには響が立っていた。
「これ……響の曲?」
「うん。何ヶ月もかけて作った、俺の自信作」
奏は目を丸めて響と楽譜を交互に見た。
「……『5月のコンチェルト』……?」
奏は、楽譜の一番上に書かれているタイトルを声に出した。
「その曲、奏にあげるよ」
響が言うと、奏はさらに驚いた表情を浮かべた。
「俺に……?」
「うん。——ほら、俺って完全なる居候で、奏に何かプレゼントするってことができないでしょ?」
「前に秋祭りの射的で当てたオルゴールのぬいぐるみ、もらったけど」
「あれも元は奏のお金だから、俺が稼いだお金でプレゼントしたものじゃないだろ?
それで……奏が喜んでくれるかは分からなかったけど、俺が奏にあげられるものが何かって考えたら、音楽くらいしかないかな……と思って」
「プレゼント、って……。
誕生日、今日じゃないんだけど」
奏は呆れたような声で言った後、唇の端をそっと上げた。
「でも——すごく嬉しい」
奏は譜面を一度額に当てた後、
「ちなみに、タイトルの意味は?」
と尋ねた。
「……前に、奏は俺のことを思う曲を書いてくれたでしょ?」
「『2月のセレナーデ』ね」
「これは、俺が奏を思って作った曲。
奏が自分の『如月』って姓を『2月』に置き換えたように、俺も『皐月』を『5月』に置き換えたってだけのタイトル」
「……じゃあ、『コンチェルト』も同じような意味で付けたの?」
「——ねえ奏。『コンチェルト』って、和訳すると何て言うか知ってる?」
響が奏に問いかける。
「……確か、協奏曲——」
奏は声に出した後、ハッと気がついたように譜面から顔を上げた。
「『きょうそう』曲……!
二人の名前と同じ響きが入ってる!」
「うん」
響はニッと笑みを見せた。
「実際の構成は、協奏曲でも何でもないんだけど。
ただ、二人の名前が繋がったこの言葉を使いたいって思ったから、そう付けたんだ」
「……ほんとだ、繋がってるね……」
奏は思わず、自分の腹部を服の上からさすった。
「……響と繋がってるもの、沢山あって嬉しい」
「ふふ。——ねえ、それ弾いてみてよ」
響が奏に言うと、奏は少し考えた後、響の背中を押してピアノの椅子に座らせた。
「響は元ピアニストでしょ。
この曲は、作者の響が弾くほうが、きっと曲の良さを引き出せるんじゃない?」
「……そっか」
響は頷くと、奏から楽譜を受け取って譜面台に広げた。
すると、鍵盤の上に乗せて準備している響の手を奏が唐突に握りしめてきた。
「——え?」
「響。弾く前に……ちょっとだけ」
奏は響を椅子から立ち上がらせると、響に口付けた。
「……俺、仕事で色んな人のために曲を書いてきた。
でも、俺のために誰かが曲を作ってくれたのはこれが初めて。
——ほんとに嬉しい。
ありがとう、響……」
「お礼なら、曲を聴き終わってから言って。
奏が思うほど良い曲でもないかもしれないし。
期待値を上げられた後で散々な感想だったら、俺もヘコんじゃうからさ」
「そんなことないよ。
響が俺のために作った曲でしょ。
絶対、気に入るに決まってる」
奏はそう言って、もう一度響にキスをした。
「……ふふっ。なんか奏、今日はすごい甘えてくるね」
「だって、こんなに嬉しいって思ったことない。
——いや、一番嬉しかったのは、響が俺の気持ちを受け止めてくれた時だったかな?
でも響と初めてセックスした時も……俺と同じ場所にピアスを開けた時も……旅行したことも——。
……ああ。響との思い出は全部、同じくらい嬉しい」
奏はそう言って響の肩にもたれかかった。
「——ピアノ、弾かせる気ある?」
響が笑いながら言うと、奏は響の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き締めた。
「……早く聴きたいよ。
でも——聴いたらその瞬間が人生のピークになっちゃいそうで、なんだか怖い」
奏が言うと、響は奏の背中を撫でながらこう返した。
「ピークになんかならないよ。
だってこれからも、色んな思い出を作れるんだから。
桜が咲いたら花見に行ったりしてさ。
暑くなってきたら海に行くのもいいし、花火も一緒に見たいな。
秋は何か二人でスポーツをするのも楽しそうだし、それから美味しいものも色々食べに行きたいね。
雪が降ったら、また温泉旅行に行ったり……
楽しいことがこれからも沢山待ってる。
奏の人生のピーク、俺がどんどん更新していってあげるつもり」
「うん。うん……」
奏は響にしがみつきながら、コクリと頷いた。
「そうだね……。
もっといっぱい、響との思い出作りたい。
これからも、一緒に思い出を作れるよね……?」
奏はそう言って、響から離れようとしなかった。
響はそんな奏を可愛らしいと思い、自分も奏を力いっぱい抱き締め返した。
「『作れるよね?』なんて聞き方、しないで。
奏が心配しなくたって、俺はずっと奏の側にいるよ」
「……心変わりもしない?」
「しないよ。だって俺、こんなに人のことを好きになったことってないよ」
「……でも、凄く魅力的な人が現れたら……わからないでしょ」
「奏より魅力的な人なんていない。
奏より素敵な音楽を作れる人も、奏より俺を夢中にさせるような人も、俺の人生に今後絶対現れたりしないよ。
でも、もし——もしもだよ。
そんな魅力的な人が万一現れたとしても——俺には『これ』があるから」
響はそう言って服を捲り上げ、奏の手を自分のへそに触れさせた。
「ここが、俺に心変わりなんてひょんな気を起こさせたりはしないよ」
すると奏は頬を赤く染め、「うん」と頷いた。
「俺も。俺も響のこと、ずっと好きでいる。
これからも響だけに恋してる。
大好き。——大好き、響」
——そう言って、奏はようやく響の身体を離した。
響は椅子に座り直すと、鍵盤の上に手を乗せた。
そして弾き始める前に、ピアノの隣に立っている奏を見上げて言った。
「約束する。この先何があっても、俺は——
ずっと奏のこと、大好きでいるから」
——部屋の中に、優しいメロディーが流れる。
繊細で温かい旋律が、なめらかな音の連なりとなって響く。
響が紡ぐ音は、音の粒一つ一つがキラキラと輝いているような、光に満ちたものだった。
響は、今まで頭の中だけで組み立てた音が現実の世界で奏でられた瞬間、これは間違いなく『俺の曲だ』と確信した。
奏に出会うまで、奏の音楽を模倣する曲しか作れなかった。
でも、これはちゃんと『俺の音楽』だ。
俺が奏のことを想って、奏を喜ばせたいと思って作った旋律だ。
響がふと視線を譜面から上げると、奏がピアノを弾く自分の姿をじっと見つめているのがわかった。
今まで見せたことのないような満面の笑みを浮かべて、奏は音楽に酔いしれていた。
——その顔が見たかったんだ。
俺が奏の音楽に心を震わせた時のように。
奏のことも、俺の音楽で笑顔にしたかった。
優しい言葉をかけたり、気持ち良くなることをしたり、
奏と幸せな時間を作りたくて努力してきた。
だけど、奏が俺の音楽に耳を傾けてくれている今この瞬間が一番幸せかもしれない。
——いや。今が幸せのピークなんかじゃないって、さっき俺が言ったばかりだろ。
これからだって、奏とは楽しい思い出を沢山作るんだ。
もっともっと、俺が奏のこと、笑顔にするんだ——
——響が最後の小節を弾き切った時、辺りが静寂に包まれた。
「奏」
俺の音楽、どうだった?
俺の気持ちが詰まった一曲、奏は気に入ってくれた?
感想を聞かせてほしい。
響がうずうずした気持ちで顔を上げると、そこに奏の姿はなかった。
「……え……?」
いつの間に居なくなった?
まさか俺がピアノを弾いてる間に、飽きてどこかへ行ってしまったのか?
「ねえ、奏——」
響は立ち上がって辺りを見渡した。
そして気づく。
ピアノの部屋に置かれていた家具が無い。
カーテンも、電球すらも無くなっている。
そんな馬鹿な。そんなはずないだろ。
「っ、奏……!?」
響が慌ててピアノの部屋を出ると、そこで信じられないものと出会った。
「——ああ、『お客様』。
如月邸の見学、楽しんで頂けましたか?」
響は目の前に立っている、人の良さそうな男を見て愕然とした。
この人と会うのはこれが二度目だ。
一年前、俺をこの家の中に入れてくれた不動産屋さん——
嘘だ。
嘘だ。
そんなはずない。
だってさっきまで、俺の目の前には奏がいて——
俺のピアノを聴いていてくれたじゃないか。
「……お客様?」
「——奏、は……?」
「はい?」
「奏は……っ、どこに行ったの……!?」
「あっ、お客様!」
響は不動産屋の横をすり抜け、リビングへ走った。
そこにも奏の姿はなかった。
それどころか、リビングにあったはずのソファも、テーブルもテレビも無い。
がらんとした広い空間が在るだけだった。
「……奏っ!」
響は階段を駆け上がり、寝室のドアを開けた。
寝室にも、家具は何も置かれていなかった。
二人が交わったベッドも、跡形なく消えていた。
「……そん、な」
嘘だ。信じない。
なんで。
ついさっきまで、俺たちは——
「——お客様!」
階段を駆け上がってくる足音が聞こえる。
響は足をガクガクと震わせ、その場に膝から崩れ落ちた。
「お客様、大丈夫ですか?突然どうしたのです——」
「……」
響は、身体をぶるりと震わせた後、恐る恐る不動産屋の方を見上げて尋ねた。
「……あなたとお会いするのは、一年ぶり……ですよね?」
「えっ?——はは、ご冗談を。
お客様とは、ほんの十数分前に会われたばかりではないですか!」
「十数分前……?」
「お客様が如月奏さんのファンだとお聞きして、アポは頂いていませんでしたが邸宅内をご案内したの、お忘れになってしまいました?」
「……」
時間が——あの日で止まっている……?
俺が『タイムスリップ』したあの日のまま、俺は『元の時代』に戻ってきてしまったと言うのか……?
「……十数分の間、俺は……何をしていました……?」
響が震える声で尋ねると、不動産屋はこう答えた。
「お客様が内見している間、私は他の部屋の埃を落としたり、パソコンで作業をしていました。
お客様もお一人でゆっくり見て回れた方が良いかと思いましたので。
そしたら間も無く、ピアノの音が聴こえてきて——」
「ピアノ……?」
「お客様が弾かれていたのでしょう?
私、音楽には疎いですが、とても綺麗な音色だなと思ってつい聴き入ってしまって」
ピアノ——
あの日——タイムスリップした直前にも、俺はピアノを弾いていた。
奏の、白いグランドピアノを。
「——それで、ピアノの音が鳴り止んだタイミングで今しがたお声を掛けに来た次第なのですが……
本当に覚えてらっしゃらないですか……?」
一年前のあの日、俺は何を弾いた?
タイムスリップした後、その直前の記憶が急に曖昧になってしまっていた。
この人の話が本当ならば、俺はこの屋敷に初めて来た『あの日』、ピアノの部屋で曲を奏でただけ、ということになる。
俺はこの家でピアノを弾いていた以外のことは何もしていないことになる。
一年近く、奏と過ごしてきた時間が、何も無かったことになっている……?
「……嘘、だ……」
そんなの嘘に決まってる。
だって俺、奏と暮らした日々をちゃんと覚えてる。
奏の声も、肌の温度も、交わした会話も覚えてる。
23年前の世界で、濃密な一年を送ったことが、全部俺の妄想だったとでも言うのか?
そんな訳ない!!
だって俺、ちゃんと奏のことが好きだ。
奏を好きになった気持ちは、俺がタイムスリップした世界で、奏とぶつかり合う中で得た感情であって、
何も無いところから突然生まれた気持ちなんかじゃない。
あの日々は、幻でも夢でもない!
嘘な訳があるか!!
奏を好きになったから、俺はあの曲を作ることができた。
あの曲は間違いなく、奏に捧げるために作った曲なんだ——
「……ッ!」
その時、響は弾かれたように顔を上げた。
「——ちょっと、すみません」
「えっ?……あ、お客様?!」
響は階段を駆け降りて行くと、再びピアノの部屋に戻ってきた。
「——えっ……?」
響はピアノを見て愕然とした。
ない。
さっきピアノを弾き始めた時には譜面台に置いてあった楽譜が、ない。
いや、待て。大丈夫だ。
あれは俺が頭の中で作った曲だ。
何ヶ月も掛けて作り上げた曲だ。
譜面なんか無くても弾ける。
響は椅子に腰掛け、鍵盤の上に指を乗せた。
——響は音を鳴らせなかった。
「……なん、で……」
なんで。なんでだよ。
俺が作った曲なんだぞ。
ついさっきまで弾いていた曲なのに。
なんで譜面を思い出せないんだ!?
「……あれを弾いたら、またタイムスリップできるかもしれないのに……」
響は、とにかく何か音を出してみようと思い、適当に鍵盤を押そうとした。
そして気づく。
「……指が、動かない……」
——どうして忘れていたんだろう。
『元の時代』で、俺の右指は事故の後遺症で動かなくなっていたことを。
タイムスリップした世界では自由に指を動かせたのに。
「……あぁ……」
嫌だ。
奏に会えないなんて嫌だ。
奏のいる世界に返してくれ!
この世界には、もう……もう奏はいない!
「……奏……ッ!
うわあああ……!!」
響は椅子に腰掛けたまま泣き叫んだ。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だァ……っ!
奏……!奏……!!」
とめどなく涙が溢れ、太ももを濡らしていく。
「——お客様、落ち着いてください……!」
一階に降りてきた不動産屋が落ち着かせようとしたが、響の涙は止まらなかった。
「嫌だああ!!
奏、奏……ッ!奏に会いたい——」
「奏……?如月奏のことを言っているのですか?
——如月奏は故人ですよ!
会いたいって、まさか死にたいなどと思ってはいませんよね……!?」
「ちが……ッ!奏は生きてる!
さっきまで俺の隣にいたんだ!
俺の弾くピアノを聴いていたんだ……ッ!」
——その後、不動産屋がいくら呼びかけても
響はピアノの前から動こうとしなかったため、困り果てた不動産屋が他の社員を呼び、数人かがりで響は外に出された。
響は如月邸から出たく無いと泣き叫んだが、彼らからは異様な目で見られるばかりだった。
門の前で解放された後も、響は門に縋りついて泣き、無理に塀を越えようと試みたところで近隣住民から不審者として通報され、警察が飛んできた。
警察に連れて行かれ、交番で事情を聞かれた時にも、響が奏に会いたいと言って泣き続けた為に、
如月奏の熱心なファンが妄想に取り憑かれて暴走してしまったのだろう、と憐れまれた。
翌日も、その翌日も、響は仕事を休んで如月邸へ通ったが、その門の先へ進むことは叶わず、そして奏に捧げた音楽の音色を思い出すこともできないまま時は流れた。
「あの曲の……せいなのか?」
俺は奏の死後の世界で見つけた譜面を弾いて23年前の世界にタイムスリップした。
そして俺が作った奏に捧げる曲を弾いたら、元の世界に戻ってきた。
……俺が弾いた譜面は、どちらも同じ曲だったのかもしれない。
だとしたら。
俺があの曲を完成させたりしなければ、俺はまだ奏と一緒にいることができたのか。
そもそも俺があの曲を作らなければ、生きている奏と出会って、恋に落ちることもなかった。
そしたら、こんな別れ方をすることもなかった……?
「……あの曲……、あんな曲……ッ!
作らなければ良かったんだ——……!!」
響がその後、23年前の世界に戻ることは二度となかった。
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