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20年後①

——響はそれから暫くして、仕事を辞めた。 欠勤が続き、出社した時も仕事に身が入らず、ぼうっと抜け殻のような日々が続いた響。 上司や同僚に心配され、精神科に通うことを勧められると、響はこのまま働き続けても周囲に迷惑をかけるだけだと自覚し、自主退職を申し出た。 退職した後も、暫く如月邸に通った響だったが、その扉の先に行くことはできず 東京で生活していくために貯金を切り崩していたが、その貯金も底を尽き始めた。 家賃を払うのが厳しくなり、再就職も考えたが、どこかに就職し直したところで意欲的に働けるとはとても思えなかった。 響は悩んだ末、地元に帰ることを選択した。 本当は如月邸のある東京を離れたくはなかったが、このままダラダラと都内に居座ったところで、あの曲を思い出せなければ再度タイムスリップすることが叶わないであろうことは薄々勘付いていた。 思い出せたところで、タイムスリップできる保証があるわけでもない。 響は苦渋の末、実家に帰り、それから暫くすると母親のピアノ教室の手伝いをするようになった。 はじめは母親にレッスンが集中する曜日や体調の優れない日に代わりの講師を務めていたのだが、 『若くてイケメンな先生が優しく教えてくれる日がある』という口コミが徐々に広がり、響に習いたいという生徒が増えていった。 そこで母親からも改めて、ピアノ教室を継ぐ気はないかと打診された響は、悩んだ末にそれを受け入れた。 奏の元へ会いに行く手段が現状断たれている以上、東京に戻って足掻いたところでどうしようもない。 無理に仕事を探して働いて、また抜け殻のような日々を過ごすよりは、慣れ親しんだ土地で自分の特技を活かして暮らしていく方が、自身にも無理がかからない生き方だと響は割り切るようになった。 響の継いだピアノ教室は生徒が増え、母親はいたく喜んだ。 響自身、小さな子どもが楽しそうにピアノを習う姿は可愛らしいと思ったし、将来プロを目指して本気でレッスンに取り組む生徒は心から応援したいとも思い、若手を育てていくことにはやりがいを感じていた。 その一方で、時折高校生くらいの女子生徒からアプローチを受けることがあり、対応に困ることもあった。 可愛らしくめかし込んだ女の子たちが、短いスカートに甘い香りを漂わせて接近して来て、先生の彼女になりたいと言い寄られることが何度もあった。 その度に響は、先生と生徒の関係であること、成人と未成年であることを理由に丁寧な断りを入れていた。 生徒だけでなく母親からも見合いをする気はないかと勧められたり、地元の友人から女の子との飲み会に来ないか誘われたりと、女性と知り合う機会には何度も恵まれたが、響は全てを頑なに断った。 学生時代はそれなりに交際経験を積んできたことを知る家族や友人からは、響は恋愛に関心がないタイプではないはずだと思われていたため不思議がられたが、 響が『東京にいる頃、とても好きだった人と死に別れた』と説明すると彼らも察してくれたらしく、恋のお膳立てをすることはしなくなった。 恋愛や結婚をすることなく歳を重ねていく響を、周囲は『外見も性格も良いのに勿体無い』と言ったが、響は何年経っても奏を忘れることができなかった。 響は、奏と過ごした日々が自分の見た夢や幻などではないことを確信していた。 服を脱ぐたび、それが現実だったという『証』が視界に飛び込んで来るからだ。 奏が開けてくれたへそピアス。 これだけが、奏との日々は幻想などではないことを証明してくれていた。 こんな小さな痕ひとつでも、これだけが奏との絆を繋ぎ止めてくれている気がして、響は歳をいくつ重ねても、これを外す気持ちにはならなかった。 そして20年の時が流れ—— 43歳になった響は、ある昼下がり、テレビで映画を鑑賞していた。 今日は如月奏の命日。 響はこの日のレッスンを全て休みにし、自室で『2月のセレナーデ』のDVDを流していた。 奏と一緒に劇場へ観に行くはずだったのに、スクリーンで観ることは叶わなかった。 俺も43歳——奏の亡くなった歳に、とうとう追いついてしまった。 あれからもう、20年も経つのか—— 画面に映る奏は、あの頃のまま美しい姿をしていた。 大久保利通として、西郷隆盛に向けるひたむきな思い。 同士として理想を語らい合った、輝かしい青春の日々。 理想を違え、思い合いながらも敵として憎み合うことになってしまった苦しい日々。 五十嵐監督の撮った奏の表情はどれも生き生きとして見え、奏の本業が俳優ではないことが信じられないくらい、誰よりも光る演技をしていた。 どのシーンも素晴らしい出来だが、決まって響が見入ってしまうのは、奏がピアノを弾く場面だった。 監督の希望で急遽入ったアドリブシーン。 『2月のセレナーデ』 奏が響を思って作った曲だ。 響はこのシーンを観るたび、必ず涙を流してしまう。 自分の大好きな曲が、自分を思って作られた曲だったと知った時の衝撃。 そしてこの音楽はいつ何時でも頭に浮かぶのに、自分が奏に贈った曲のメロディーとタイトルだけは何故か思い出せない歯痒さ。 ……結局、あの曲を思い出せないまま20年も経ってしまった。 今では奏のものだった屋敷に買い手がついて、知らない人が暮らしている。 俺と奏の暮らしていた場所は、新しい住人によって思い出を書き換えられていくだろう。 43歳になって、両親が高齢になったものの 仕事を辞めて時間を持て余した父と母は代わりに旅行や習い事に興じるようになり、俺抜きで楽しそうにやっている。 というより、旅行に誘われても俺がピアノ教室を理由に断ってるんだけども。 それから地元の友人たちも、皆子育てに忙しくして会えることも減って、たまに会っても子どもの受験だとか思春期だとか、話題が合わなくなってしまった。 俺は気にしてないけども、彼らの方が配偶者も子もいない俺に気を遣って、声をかけてくれることは減ってきた。 俺が自分から誘わないことも原因だけど。 あとは、ピアノ教室に通う子たちから世の中の流行りを聞くことはあるけれど、流行っている年代が自分と乖離しているためか、「分かる分かる」なんて口では言っても内心共感してあげられないことが増えたりして—— とにかく、年々孤独を極める一方だ。 俺が人と積極的に交わろうとしていないことが理由だとは分かっている。 俺はこのまま、かけがえのない思い出にいつまでもしがみついたまま生きて、消えるように死んでいくのだろう。 響は43にして人生の悟りを開いたような気持ちになっていた。 俺には仕事があって、自分を頼ってくれる生徒たちがいる。 それだけで充分じゃないか。 日常に刺激的なことが無くたって、俺にはあんなにも幸せだった思い出があるじゃないか……。 ……。 映画のエンドロールが流れると、響は項垂れた。 ——嘘だ。 本当は、ずっとさみしい。 奏に会えない毎日が苦しくて仕方ない。 何か夢中になれる趣味を見つけたり、人と会って気を紛らわせたりすることもできたかもしれない。 だけどそれをしたくなかった。 奏に会えない悲しさを、代替行為で忘れたくはなかった。 他の誰か、他の何かで埋めてしまいたくなかった。 それは奏を好きだという自分の気持ちに蓋をしてしまう行為に思えたからだ。 自分で望んで孤独に身を置いているはずなのに 寂しくて、寂しくて、どうしようもなかった。 ——奏は俺がいなくなった後、どう生きていっただろう。 突然いなくなったりして驚いたよな。きっと悲しんでくれたよな。 だけど、奏が俺のいなくなった後の世界でも幸せに生きてくれたことを心から願う。 ネットで調べた限りでは、奏は一生独身を貫いたようだと出てくるから、きっと誰とも結婚はしなかったのだろう。 それでも、奏には早苗さんと右京がいる。 右京は既にこの世界では役者を廃業したらしく、コンタクトを取る術がなくなっていた。 その後の早苗さんと右京のことは分からないけれど、きっと二人はそれからも奏の側に居てくれる存在だったんじゃないかと信じている。 奏が、俺みたいな抜け殻の人生を送った訳じゃないのは、奏の残してくれた沢山の音楽を聴けば分かる。 奏はあの後も多くの名曲を世に残していった。 天才作曲家の早逝を世間は悼んだけれど、奏は充分なくらいの音楽を置いていってくれた。 俺は不自由な指をどうにかカバーしながら何度もピアノで奏の曲を弾き、自分を慰めた。 生徒たちにも『如月奏の曲にチャレンジしたい』と自ら言ってもらえることが多くて、将来のピアニストや作曲家の卵たちに、奏が絶大な影響を与えていることは間違いなかった。 嬉しかった。 奏の音楽に触れている時、俺は孤独じゃなかった。 奏の音楽だけが、このどうしようもない寂しさを埋めてくれるよすがだった。 ——だけど…… こんな人生を、あと何年続けていけばいいのだろう。 一緒に住んでいる両親がいて、親しみかけてくれる生徒たちがいて、疎遠気味ではあるけれど俺のことを気に掛けてくれる友人たちがいて……真の意味で孤独な訳ではない。 孤独ではないはずなのに、奏がいない人生はずっと真ん中に穴が空いたような虚無感が拭えない。 もういっそ、人生そのものを終わらせるべきなのか—— 響が項垂れたまま考え込んでいると、不意に自宅のチャイムが鳴った。 ピンポーン—— 響は自室を出ると、玄関外と通話できる受話器に手を伸ばした。 「はい」 『こんにちは。ここってピアノを習える教室ですよね』 受話器越しに、男の声が聞こえて来た。 「そうですが……。もしかして体験希望の方ですか?」 『はい。予約してないんですけど、今日ってレッスン受けられますか?』 「すみません、今日はレッスンをお休みにしている日でして——」 『少しだけでいいんです。先生とお話だけでもさせてもらえませんか?』 話だけでも? まあ——先生との相性って確かに大事だもんな。 レッスンに通うかどうかを決める判断基準として、この人は俺と合いそうかを重視しているのかもしれないな。 「……それでは30分程度、レッスンを付けますね。 ——準備をするので、玄関を入ってすぐ右の、ピアノのある部屋でお待ちいただけますか? ドアの鍵は開いておりますので」 『ありがとうございます』 響は受話器を戻すと、小さくため息をついた。 「……やるかぁ……」 響は、映画の余韻に浸っていたのを妨害されたようで少し不本意ではあったが、 アポ無しで訪ねて来たこの生徒候補を無碍に追い返す気にもなれず、軽く服装や髪を整えてから一階に降りて行った。 「お待たせしました。私が講師の——」 部屋の扉を開け、そう名乗ろうとした瞬間、響は固まってしまった。 「よろしくお願いします」 そう言って頭を下げて来た男は、響が20年間思い焦がれてきた相手と瓜二つの容貌をしていた。 「——君は……」 「弥生翔と言います」 「!……弥生……翔……」 彼は、響が思い続けて来た人物、如月奏とそっくりな容姿を持つ青年だった。 しかし、名前が違う。 ——それもそうだ。 奏は20年前に死んだんだぞ。 それに、奏が亡くなったのは43歳の時。 目の前にいるこの青年はハタチそこらじゃないか。 どう考えたって、この子が奏なわけがないのに。 「……っ、弥生さんですね。 改めまして、講師の皐月響と申します。 これまでにピアノを習われていたご経験はおありですか?」 「ないです」 「分かりました。それでは今日の体験レッスンでは、初心者向けのテキストを使って基礎からお教えしますね」 「お願いします」 響は弥生翔と名乗るこの青年をピアノの前に座らせると、早速テキストを開いて譜面台に置いた。 すると翔は「あの」と響を呼び止めた。 「俺——ピアノを習ったことはないですけど……。 一曲だけ、弾ける音楽があるんです」 「そうなんですか?」 「はい。俺のピアノの腕、大したことはないですけど、先生に披露してもいいですか」 「もちろん大歓迎です。弾いてみせてくれるかな?」 響が微笑みかけると、翔は「それでは」と言い、指を鍵盤の上に乗せた。 「!」 翔がその音色を奏で始めた時、響の全身に鳥肌が立った。 ——この旋律を知っている。 とても懐かしくて、とても温かいこのメロディーを、俺は知っている…… 響は、ごくりと生唾を飲み込むと、ピアノを弾く翔の横顔を見つめた。 だけど、そんなはずはない。 君が知っているわけがないんだ。 だってこの音色は、俺がたった一人に向けて作った曲。 他の誰にも聞かせたことのない曲。 俺が奏のために書いた曲なんだ—— ——翔がピアノを弾き終えた時、響は声を震わせながら尋ねた。 「……その曲……、どこで覚えたの……?」 すると翔はこう答えた。 「生まれた時から」 「生まれた時から……?」 「はい。俺が生まれてからの20年、ずっと頭の中に流れている旋律です。 何度も頭の中で再生されるから、楽譜が読めない俺でもピアノで再現できるくらいになってしまったんです」 そんなわけない。 そんなこと——あるはず、ない…… 「俺、これが世界で一番好きな曲です。 温かくて、包み込んでくれるような優しさのある旋律で—— 大好きなんです、この曲が」 響が目を見開き、全身に鳥肌を立てたまま翔を見ていると、翔はピアノの上から手を離して身体を響の方に向けた。 「先生。俺——先生のこと、昔から知ってました」 「……」 「生まれた時から、先生の顔も名前も知ってた——いや、『覚えて』いた。 だけど、先生がどこで何をして暮らしているのかは知らなかった」 「……」 「だから、先生を探し出すのに何年もかかってしまった。 きっと、先生は音楽関係の仕事をされているんじゃないかという予想をしていたけれど、 演奏家にも作曲家にも先生の名前は見当たらなくて……。 音楽系の会社も一通り当たってみたんですが、当たり前だけど社員の名簿を見せてくれるような会社なんて無かった。 ——それでふと、そういえば先生のご実家はピアノ教室をしてたなって思って。 先生の地元がどこかを知らなかったから、全国のピアノ教室を片っ端から当たってたんですよ。 ストーカーみたいでしょ」 翔は、ふっと唇の端を上げてみせた。 その笑みが、とても懐かしい表情に見えた。 響が何も言えずに言葉を無くしていると、翔は尚も続けた。 「……俺ね、先生。 もしかしたら先生はもう俺のことを忘れてしまったんじゃないかって、本当は不安に思ってた。 だけどさっき先生が俺を見た時の顔を見て、確信した。 先生——俺のこと、覚えてるでしょ?」 「……嘘だ。そんなはずない」 響は、やっとのことで言葉を捻り出した。 「君は——君が、奏なわけない」 すると翔は苦笑した。 「はい。俺の名前は翔です、生まれた時から。 だけど——俺には前世の記憶があるんです」 「……前世……?」 「俺は前世で如月奏という名前で、作曲家として43年間生きた。 俺はその43年間で、一度だけ恋をした。 その人と過ごせたのは43年のうちのたった1年間だったけれど、俺はその人のことがずっと忘れられなかった。 ……前世の俺は死の間際、いるかもわからない神様に強く願った。 『どうかもう一度生まれ変わって、会いに行きたい』って。 ——『響に会いたい』って」

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