28 / 41

5-6

 翌日、皐樹は午前中の休み時間にフロアの違う二年生の教室へ出向いた。 「すみません、凛さん」  最後尾の席につく彼女は携帯で動画を見ていた。海外のアイドルグループが来日したというリアルタイムの映像で、ボディガードに守られた彼等が集まったファンに手を振っていた。 「ファンなんですか?」  こちらを一切見ようとしない凛に、出直してこようか迷いつつ、皐樹は聞いてみた。 「私のパパ」  幻聴か聞き間違いか。皐樹は耳を疑った。 「民間の警備会社にいるの」  納得がいった。皐樹は凛の手元をおずおずと覗き込んだ。黒いスーツに身を固めたボディガードは数人いて、誰が父親なのか特定する前に携帯は机の中に仕舞われてしまった。 「ついてきて」  カーディガンにリボン、スカートを履いた凛は皐樹を廊下へ促した。雨天で窓は閉め切られている。遠くで雷鳴がしていた。 「お兄ちゃんのこと、聞きにきたんでしょう」  壁にもたれた凛は訪問の理由を淡々と言い当てた。物静かな彼女は表情をあまり変えない。激しい感情の色を皐樹に見せたのは初対面の一度きりだった。 「皐樹が私のところへ来る理由なんて、きっと、それくらい」 「……桐矢のことを知りたいんです。過去に何があったのか」  カーディガンのポケットに両手を突っ込んだ彼女の隣に立つ。教室からこちらを気にしている数人の生徒と目が合い、皐樹は窓の方を向いた。 「人が一人亡くなってるから周りに聞かれたくなかった」  昨日の放課後、その一点だけ刀志朗に聞かされていた。凛の口から改めて伝えられると皐樹の胸は今以上にざわついた。  ある一人の男がいた。  男はアルファだった。  彼は一人のオメガに魅入られた。  小学五年生だった水無瀬廻に。 「廻ちゃんも、私達みんな知らない人だった」  男とは誰も面識がなかった。勤務先の広告代理店が隣慈学園の近くであったのが唯一の接点で、当然、水無瀬がクイーン・オメガであることも彼は知らなかった。  学園近辺で一目見かけて魂を奪われた。心の底から愛した。事件後に彼の自宅で見つかった日記には水無瀬への愛情がびっしりと綴られていた。  ――自分のものにしたい……攫いたい……でも、そんなことをしたら罰せられる……いっそ一緒に死にたい――  七年前、働き盛りで有能だった彼は、小学生にして類稀な美貌を持っていた水無瀬を愛する余り、常軌を逸した。 「あの日は廻ちゃんと刀志朗の家でかくれんぼをしていた」  週末の昼過ぎ。水無瀬の両親は不在だった。 「ジャンケンに勝った刀志朗は真っ先にお風呂場に隠れた。私はリビングのカーテンに包まって、庭を見ていた」  すると庭に彼が現れた。スーツ姿で清潔感のある身だしなみで、辺りを警戒する様子もなく堂々としていた。凛に会釈までしてきた。 「おじちゃんの知り合いの人だと思って、庭からリビングに上がって、家の中へ入ってくるのを、私は止めなかった」  凜は声をかけた。水無瀬の両親はいないと。男は浅く頷いただけで二階へ上がっていった。二階には鬼の水無瀬がいた。自室に誰か隠れていないか確認していた少年は、招かれざる客に見つかってしまった。 「そこにお兄ちゃんが来た」  二階に隠れていた桐矢は素早く異変を察知した。希少なクイーン・オメガが負わされるリスクを学んでいた少年は、幼馴染みのために持ち歩いていた防犯ブザーを鳴らした。男を押し退けて部屋の中へ入り、水無瀬を連れて一階へ逃げようとした。 「そのとき、お兄ちゃんは背中をナイフで切りつけられた」  皐樹の心臓は痛い程に跳ねた。 「家中にブザーが鳴り響いて、お風呂場に隠れてた刀志朗を連れて、私は二階に上った。お兄ちゃんが廻ちゃんに覆い被さって、廊下に倒れて……」  朝から絶え間なく続く雨音、騒がしい生徒の話し声が皐樹の耳元を擦り抜けていった。 「背中が血で赤くなってた」  凛は虚空を見据えていた。脳裏に深々と根付く記憶を手繰り寄せ、今でも鮮明に覚えている兄の傷ついた姿に瞳を震わせた。 「桐矢は大丈夫だったんですか?」  現在、体調は万全そうな彼を日頃から見ているというのに、皐樹は聞かずにはいられなかった。 「出血の割に傷口は浅かった、幸いにも。だけど痕は残ってる」 「そうなんだ……」 「私達が二階へ行ったときには、もう、彼は亡くなっていた。自分が持ってきたナイフで命を絶ったの」  言葉にならない。彼等が共有する痛ましい過去に皐樹は打ちのめされた。降り続く雨。目の前を横切っていく生徒達。日常にふと現れた深い落とし穴にはまって、視界に映る何もかもがどこか遠い出来事のように感じた。

ともだちにシェアしよう!