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 ローテーブル上で倒れたグラスから炭酸水が溢れ出、一滴ずつ、不規則に床に滴り落ちていく。 「舜が誰のものにもならないで済むのなら、罪の一つや百くらい、どうってことない」  誰のものにもならない。  自分もまた手に入れられない。  ずっと昔から守ってくれる幼馴染みは、水無瀬のことを愛してはくれなかった。それでも、誰かに奪われずに自由でいてくれるのなら、それでよかった。 「皐樹は俺にとって外敵だ。だから二見さんに皐樹を犯してもらう予定だった。嫌悪する男の子どもを孕ませて、幻滅した舜が離れていくように」  兄の傍らにいた刀志朗は言葉を失った。醜悪な計画を知り、腹底に地割れじみた亀裂が走りそうになった桐矢は、すぐそばにある温もりを改めて噛み締めた。 「俺なんかのために狂うつもりか、廻」  罵るでも軽蔑するでもなく、昔からずっと同じ時間を過ごしてきた幼馴染みにやり場のない思いを持て余した末に、桐矢は笑った。 「俺とお前、出会わなきゃよかったな」  床に倒れ伏した男達がいつ回復するか。長居は無用であり、彼は水無瀬を残して事務所から出ようとした。凛は無言で兄についていく。ショックが深い刀志朗もソファから離れ、彼女の隣に並んだ。 (水無瀬さんがしたことは到底許せない、だけど)  皆が出入り口へ向かう中、皐樹は振り返った。床で呻く男達に目もくれずに水無瀬は桐矢の背中を見送っていた。 「出会ったことは後悔していない」  ジャケットのポケットの中で眠らせていたナイフを取り出す。 「あのとき、俺が死んでいればよかったんだよ、舜」  慣れた手つきで刃の部分を手際よく引き出し、水無瀬は、鋭く冷えた刃先を自分の首筋にあてがった。七年前、目の前で死んだ男と同じように、慈悲なき凶器を躊躇なく白磁の肌の上に滑らせようとした。  駆け戻った皐樹が寸でのところで食い止めた。  ナイフを握る水無瀬の手を必死になって両手で掴み、敬遠していた深淵と対峙した。渾身の力を振り絞って終焉を阻んでくる皐樹に水無瀬は顔を歪めた。 「兄さん」  刀志朗は立ち竦んだ。身を翻した桐矢は皐樹に加勢し、ナイフを取り上げた。素早く刃を仕舞ってジャケットのポケットに突っ込むと、水無瀬から皐樹を引き離そうとした。 「穢してしまいたかった」  クイーン・オメガは真正面に迫る切れ長な目を睨みつけた。 「お前の胎ごと汚れたらいいのにと思った。憎らしくて、邪魔で、最初に会ったときから目障りで仕方ない。大嫌いだ」  幼馴染みどころか、弟も、水無瀬が感情を爆発させるのを見るのは初めてだった。皐樹の肩に五指を食い込ませ、見目麗しい顔を露骨に歪めた彼は慟哭する。品性を忘れた唇を悔しげに震わせ、ただ受け止めている下級生のオメガに心の叫びをぶちまけた。 「舜に一番に大切にされたかった。いつまでも守られたかった」  一筋の血が首筋を伝い落ちていく。皐樹は自分のタオルハンカチで浅い傷口を押さえた。 「偽善者、俺を哀れむな、鬱陶しい」 「目の前で血が流れていて、放置なんてできない。何とでも言ってください」  サイレンが外を通り過ぎていく。尾を引く音色が束の間の沈黙を際立たせていった。 「舜に求められて羨ましい」  最も不本意な結果に行き着いた水無瀬も、もう、笑うしかなかった。  綻びのない、作り物じみてすらいた微笑からは程遠い泣き笑いを浮かべた。 「俺はお前になりたい、皐樹」

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