38 / 41

8-1-運命の番

 明日から夏休みで多少浮かれた一日になるはずが、とんでもなく予想外の一日になったと皐樹は思った。 「ずっと気にかかっていた」  西日に浸る街並み。強引にタクシーに乗せられて自宅へ帰っていた皐樹は、共に乗車する桐矢を見た。 「俺が切りつけられた後、廻が口にした言葉」  脳裏に深々と根付く一つ目の記憶。背中が焼けつくような痛みに襲われ、薄れゆく意識の中でかろうじて聞こえた、残酷な命令。 「廻に狂っていたあの男は命令に従った」 「……その話、水無瀬さんから聞いた」 「気にかけるだけで、今まで放置していた。こんなことになったのは俺の責任だ」  水無瀬は二見に預けてきた。クイーン・オメガ自身がそれを望んだのだ。目覚めた男達の怒りの矛先が向けられないかと皐樹が心配すれば『お金で解決できる人種だから』と、始終愉しげな二見に宥めすかされた。 「水無瀬さんと二見さんの二人が起こしたことで、桐矢は悪くない」  凛と刀志朗はタクシーに乗らず、二人に見送られて皐樹は家路についた。 『バイバイ、皐樹』  夏休みの前日、刀志朗は好きになった同級生に寂しげに手を振っていた。 「今日は色々と迷惑をかけて、ごめん」  皐樹はマンションの部屋までついてきた桐矢と玄関で向かい合った。  レザースニーカーを履いた桐矢は帰る素振りを見せず、こちらを真顔で見つめてくる彼に皐樹はたじろいだ。 (水無瀬さんは、あんなこと言ってたけど、まさかそんな――) 「ボタン。まだ、かけ違えたままだ」  ズレたボタンを見ていたのか。靴を脱いで玄関マットの上に立つ皐樹は赤面し、顔を伏せた。 「もう着替えるからいい。お父さんも、そろそろ帰ってくるし……」  ダークグレーの半袖シャツに桐矢の両手が届くと、どきっとした。ボタンを外されていくと鼓動が早鐘のように打ち出した。 「桐矢、もういいから……」  鎖骨の下につけられた二見の痕跡が視界に飛び込んできて、桐矢は、途中で手を止めた。 「怖かっただろ」  ボタンを一つ外される度に息が止まりそうになっていた皐樹は、彼の両腕に手を添えた。 「もう平気だ。みんなが来てくれたから」 「そうか」  桐矢は二見の痕を上書きした。おもむろに頭を屈めると、同じ場所に口づける。心臓にまでキスされた気がして皐樹は首を竦めた。 「俺は獲物だろ」  咄嗟にそんな言葉が口から転がり出た。 「もう、十分、狩られた。これ以上、もう俺を奪わないでほしい」  皐樹は懇願した。だが、桐矢はやめてくれなかった。新しい痕をつけようと肌伝いに唇を移動させていく。  途方に暮れて逡巡している切れ長な目を欲深いアルファは上目遣いに見やった。 「逆だ。俺の全部、最初からお前に奪い尽くされてる」  始まりの出会い。その一瞬から特別なオメガに不敵な笑みを捧げ、打ち明けた。 「迷惑をかけたのはコッチの方だ。皐樹を好きになった俺にやっぱり責任がある」 「冗談やめてくれ」 「お前に一目惚れした」 「嘘だ」 「嘘でも冗談でもない」  桐矢は皐樹を抱きしめた。夏の盛り、突拍子もない告白に混乱しかかっていたオメガは、肌身を溶かしてしまいそうな温もりに包み込まれた。 「俺達はきっと運命の番だ。皐樹を見つけたとき、すぐにわかった」 「俺には全くわからなかった。奔放で嫌味な図書委員のことが不快で仕方なかった」 「辛口だな、一匹狼ちゃん」  耳元で揶揄され、頭を撫でられる。皐樹は呻吟した。行き場に迷っていた両手を広い背中にぎこちなく添え、喉を波打たせた。 「怖かった」  ぽろりと本音が零れた。つられて涙が出、桐矢の胸に顔を埋めた。 「暑い」 「そうだな。俺も熱い」  「嫌味な図書委員が……桐矢が来てくれてよかった。いつも俺を助けてくれて、ありがとう」  泣くまいと唇をぐっと噛み締める皐樹の、乱れていた髪を桐矢は梳いた。 「泣いてるのか」 「泣いてない」 「本当か。見せてみろ」  顎を持ち上げてみれば満遍なく濡れそぼつ双眸と視線が重なった。皐樹は仏頂面と化す。玄関床に立つ桐矢との身長差が今はやや狭まり、いつもより近いところにある鋭い目に泣き顔を見られるのが嫌で、そっぽを向いた。  我侭な手に顔の向きを戻されてキスされた。  涙の伝う唇を、時間をかけて、あやされた。 「ん……ン……ン……」  蹴り飛ばす前から二見の唇には血がついていた。聞かずとも察していた桐矢は、忌々しい痕を拭い去ろうと、気が済むまで口づけに没頭した。  甘い疼きに全身が酔わされていく。  もうすぐカオルが帰ってくるかもしれない。それなのに止められない。皐樹は求められるがまま桐矢に唇を明け渡した。  そのときだった。皐樹のお腹が盛大に鳴ったのは。 「……」 「……昼ごはんを食べていなかったんだ、だから……仕方ないだろ」 「腕白な小学生みたいな鳴り方だったぞ」  桐矢に失笑されて不貞腐れた皐樹は可能な限りそっぽを向いた。 「確かに俺より二つ下で、まだ十六歳、この間まで中学生だったか」 「中学を卒業してもう四ヶ月経った、それに二つ違いなんて大した年齢差じゃない」 「せめて十七歳になるまで待つか」 (待つ? 何を?)  頬を上気させ、きょとんとしている皐樹に桐矢は片笑みを浮かべてみせる。 「何せ俺が相手だからな。相当な負担になる。奥手で乳歯の一匹狼ちゃんには酷だろ」  そこまで言われて皐樹は察しがついた。いけしゃあしゃあとしている彼に「自惚れるな、スケベ」と、正直に文句をぶつけた。 「カオルが帰ってきたら三人で食事に行こう」 「嫌だ、さっさと帰ってくれ」 「気配がする。もうそこまで来てるな」 「嘘つくな、俺には全然……」  チャイムが鳴って皐樹は閉口した。桐矢はさらに口角を吊り上げてみせる。 「ただいま……あれ、桐矢君?」 「おかえり、先生」  これまでの相手はアルファやベータのみ、初めて密に触れたオメガに心を預けて、カオルを出迎えた。

ともだちにシェアしよう!