4 / 7
第4話
眠れないだろうと思っていたが、気が付くと朝だった。カーテンが引かれた薄暗い部屋で、羽田さんが床に正座していた。
「春陽、警察行こう」
「は?」
開口一番、思い詰めた顔をして何事かと思った。
「昨日はごめん。酔ってて、合意じゃないのに手出した」
記憶が残っているのもなかなか災難だと、うっかり同情しそうになる。キスはOKで手淫は警察行きと、羽田さんの貞操概念はどうなっているのだろう。それよりも、酔っていたと言い訳されることに少なからず傷付いた。
「警察とか大袈裟ですよ。俺ゲイだし、全然気にしてません」
「ゲイだからとか、そういうのは関係ない」
羽田さんに指摘されて、確かにその通りだと思った。ゲイだとカミングアウトしたのは、羽田さんを利用しようとした後ろめたさがあったからだ。
「俺がゲイだって知って、気持ち悪いかと思わないんですか?」
「今はそんなの関係ないだろ」
昨日の夜、本当は怖かった。自分に言い訳をして誤魔化そうとしたけれど、そんなことはしなくていいんだと気付いて安堵した。今まで誰にも言えなかった性指向を、羽田さんが関係ないと言ってくれた。色々な感情がぐちゃぐちゃになって込み上げてきて、涙になって溢れてきた。声を上げて泣くと羽田さんが目に見えて動揺していた。ティッシュを差し出すでもなく、床にじっと正座したまま、何も言わず傍にいた。
「俺、ゲイだってカミングアウトしたの初めてでした」
ひとしきり泣くとスッキリした。そうなんだ、と答える羽田さんは、きっと昨日の夜のことで俺が泣いたと思って気まずい思いをしているに違いない。
「警察とかは本当にいいので、昨日のことはお互い忘れましょう」
「春陽がいいなら、それでいいけど」
羽田さんが、一切記憶が残らないタイプだったらよかったのに。そうしたら、今まで通りでいられたのに。この日を境に、ぱったりと羽田さんはうちに来なくなった。
「また羽田さんの慰め会やるんだけど、春陽も来る?」
大輝の誘いで羽田さんが彼女と別れたことを知った。生活圏はほぼ同じはずなのに、不思議なくらい羽田さんと会わなかった。共通の知り合いは大輝くらいなものだったが、話題に上ることはなかったので久しぶりに名前を聞いた。
「やめとく」
「そっか、了解」
俺としては避ける理由がないが、羽田さんにしてみれば俺と会うのは気まずいだろう。あの夜のことを気にしているだろうし、俺がゲイだと知ってやっぱり気持ち悪くなったのかもしれない。お互い忘れようと言ったが、そんなことは不可能だし関係が変わってしまうことはわかっていた。少し寂しいが仕方がない。
「春陽、羽田さんと何かあった?」
翌日、顔を合わせるなり大輝がいきなり切り込んできた。一瞬ドキッとするが、あの夜のことを大輝が知りようがない。
「意見の食い違いみたいのがあって、ちょっと気まずい感じではある」
そういえば飲み会があったなと思い出した。酒の席で一体何を言っていたのだろう。想像すると怖くなる。歯切れ悪く話すと、大輝は深くは訊かずにそうか、と流した。
「昨日の羽田さんすごい落ち込んでて、なんかお通夜みたいになっちゃってさ。春陽ごめんって言ってた。皆元カノのことだと思い込んでたけど、お前のことだろ? 何があったかわからないけど、許してやって」
その話はとっくに済んでいるのだが、とりあえずわかったと返事をしておいた。
俺からしてみればもう終わった話ではあるのだが、羽田さんがそこまで気にしていたと知ると何かした方がいいのかと思えてくる。もう一度話をした方がいいのだろうか。それとも、そっとしておいた方がいいのだろうか。
心配事は、向こうからやってきた。コンビニでレジを打っていると、自動ドアが開き羽田さんが入店したのが見えた。羽田さんがこちらに視線を投げてきたが、目の前の客の応対をしていて結果無視をする形になった。羽田さんはまず雑誌コーナーの前を歩き、次いでお菓子を見てドリンクを見ている。レジが途切れなかったが、ずっと視界に映る羽田さんの姿を追っていた。
羽田さんがレジに来たのは、客足が一段落したタイミングだった。プリンが2個、台の上に置かれる。
「いらっしゃいませ、スプーンはお付けしますか」
マニュアル通りの台詞を読みながらバーコードをスキャンする。
「お願いします」
「レジ袋お付けしますか」
「お願いします」
羽田さんが機械的に敬語を使うのを初めて聞いたかもしれない。もしかしたら羽田さんは俺に会いに来たのかもなんて思っていたが、それは気のせいだったのだろうか。他の客のレジ打ちをしているときはチラチラ見てきたくせに、今はずっと下を向いて目を合わせようとしない。淡々と会計を進め、レシートとお釣りを渡す。ありがとうございました、と口を開きかけたとき。
「春陽、今日バイト何時まで?」
このまま帰ってしまうのかと思っていたので、不意打ちだった。
「8時までですけど」
「バイト終わった頃、うち行っていい?」
「え、はい」
「じゃあ、また後で。頑張って」
一瞬仕事を忘れて、店を出て行く羽田さんの後ろ姿をぼんやりと見送った。
「今の、知り合いですかぁ?」
隣でレジを打っていたバイト仲間に声を掛けられてハッと我に返る。20代女性、フリーターの紹介してほしいオーラを察知し、近所に住んでる大学の先輩です、とだけ答えて商品陳列のためにレジを離れた。
そういえば、羽田さんがちゃんとアポをとったのは初めてだ。
いつも長く感じるバイトの時間が、今日は余計に長く感じた。時間通り20時になるとタイムカードを切って帰り支度を始めた。どうせ羽田さんは腹を空かせて来るのだろう、廃棄の中に焼き肉弁当が2つあるのを見つけバッグにしまった。会社的には持ち帰り禁止だが、心の広い店長の意向で2つくらいなら見逃してもらえる。
早足でアパートに着くと、ドアの前で羽田さんがスマホを見ていた。腕にさっきレジを打ったプリンが2個、袋に入ってぶら下がっている。俺の姿に気付くと、スマホをしまいながらお疲れ、とねぎらいの言葉を口にした。
「お疲れ様です。夕飯なんですけど、廃棄の中から焼き肉弁当もらってきたんでそれでいいですか?」
「うん」
ポケットから鍵を出し、部屋のドアを解錠する。レジ打ちのときから思っていたが、羽田さんに元気がない。
「春陽」
一歩玄関に入ると、背中に向かって呼びかけられた。前を向いたまま、何ですかと返事をする。
「抱きしめてみてもいい?」
靴を脱ごうとしていた足が止まる。これは一体どういう意図なんだろう。
「羽田さんが気持ち悪くなければいいですけど」
羽田さんの気配が近づいてきたかと思うと、ぎゅっと後ろから抱きしめられた。背後でドアが閉まる音が聞こえ、胸の前でガサッとビニールが音を立てた。部屋は真っ暗で、廊下の向こうの部屋の窓からぼんやりと外の明かりが漏れている。いつから外に立っていたのか、羽田さんの身体は冷たかった。
酔っ払ったときに散々絡まれているので、今更ハグくらいどうということはないはずだった。身体が硬直して廊下の電気さえ点けることができないでいる。ドクドクと心臓の音がうるさい。まさか玄関でいきなりハグされるとは思わなかった。
「付き合っていた彼女と別れて今フリーなんだけど」
俺の身体を抱きしめたまま、耳元で羽田さんが話し始める。大輝から慰め会を誘われていたので羽田さんが別れたことは知っていたが、ここは知らないふりをした方がいいのだろうか。だから落ち込んでいるように見えたのか、と密かに納得する。
「セックスさせてほしい」
本能で身体が動いた。羽田さんの腕を振りほどき、素早く玄関の明かりを点ける。土足で廊下に上がって距離をとり、臨戦態勢で羽田さんと向き合った。
「いいわけないでしょう? 馬鹿にしてるんですか?」
大輝からお通夜みたいだったと聞かされていたし、寂しさのあまり誰でもいいから人のぬくもりを求めているのかと、そこまで追い詰められているのかと思った。いくら、何でも言うことを聞く便利な後輩だったとはいえ、越えてはならない一線だと思っている。
「春陽のことばっかり考えてたら、そのうちどう思っているかわからなくなっちゃって」
ずれた回答を聞いたら、フッと身体から力が抜けた。今思えば、バックをとられているのに簡単に抜け出せたのは、羽田さんが俺の行動を見越して逃がしてくれたからなのだろう。
俺のことを考えていたのは罪悪感からだろうし、どう思っているのかわからなくなったのは俺の性指向を聞いて付き合い方がわからなくなったからだろう。ここまで思い詰めてしまうなんて、と被害者の立場でありながら同情を禁じ得ない。
「それで俺とセックスしようと思ったんですね。したら、何がわかるんですか?」
「……少なくとも、俺が男とできるかどうか」
綺麗な顔に苦悩を滲ませて、羽田さんが最低な回答をする。そもそも順番をすっ飛ばしていることすら気付かないくらいだから、まともな回答は期待していない。
「そんなこと、わからなくていいと思いますけど。どうしてそうまでして男としたいんですか?」
「それは……春陽のことが、好き、だから?」
ようやく自覚したらしい。え? と言いながら顔を赤くして、手で口と鼻を覆う。男同士だからと言えど、ずっと特定のひとりのことを考えているというのは、つまりそういうことではないか。見ているこちらまで恥ずかしくなってくる。
「わかりました。ちゃんと考えるので時間ください」
「うん、今日は一旦帰るよ。じゃ、またね」
一方的にプリンを押しつけられ、逃げるように羽田さんが出て行ってしまった。もらってきた焼き肉弁当はどうしよう。ひとつは今から食べて、賞味期限は切れてしまうが、もうひとつは明日食べればいいか。
プリンと弁当を冷蔵庫にしまいながら、なんだか誘導したみたいになってしまったのではないかと思い当たり、申し訳ないことをしたなと反省する。このまま離れてしまうとばかり思っていたので、好きだと言われたことは純粋に嬉しい。大輝のことが思い浮かぶが、どう考えても大輝と付き合う自分が想像できない。好きだと言われて満更でもないし、一緒に居て楽だし、ゲイと知って好きと言ってくれたのだから、もう羽田さんでいいのではないだろうか。そんなことをぐるぐると考えてしばらく冷蔵庫の前から動けずにいた。
羽田さんに好きだと言われたんだけど、どうしたらいいと思う?
答えはほぼ決まっているようなものなので、正確にはなるべくこのことを考えないで済む方法とその後のアクションについて知りたい。だが俺には恋バナできる相手はおらず、まして同性の恋愛についてなので尚更だ。
午前で講義が終わり、大輝と平田とマックに来ていた。平田とは同じ講義をとっているもののあまり話したことはなく、しかし大輝とは仲がいいので疎外感がある。ペアを作れと言われたときに次々とペアができる中でひとり余ってしまい、善意で班に加えてもらったような、そんな感覚。大輝の誰とでも仲良くなれるところは紛れもなく長所であるが、人の機微に疎いのが玉に瑕(きず)だ。
四人掛けの席で隣の平田と話していた大輝が、急に俺の後ろを注視する。何かあるのかと後ろを振り向こうとしたとき、いきなり隣の椅子が引かれた。誰かと身構えたら羽田さんだった。
「ここ、いい?」
許可を取る前に、すでにトレーがテーブルの上に置かれている。どうぞと勝手に大輝が返事をし、平田が誰? と大輝に訊く。これまでほとんど外で会ったことがなかったのに、昨日の今日で会うなんて。
「春陽、今度いつ暇?」
簡単な自己紹介が済むと、早速羽田さんが俺に話しかけて来た。
「この後は予定ないです」
「俺はこれから授業とバイト。他は?」
「日曜日なら午後は暇ですけど」
羽田さんがスマホを見ながら、俺は5時からバイトなんだけど……まーいいか、と呟いた。羽田さんは、俺と会うのが気まずくないのだろうか。
羽田さんが俺にスマホの画面を見せてきた。今映画館で上映している、古いホラー映画のリメイク版の公式ホームページだった。大輝と平田も一緒に画面を覗く。
「春陽、こういうの好きだろ? 一緒に見に行かない?」
もしかしてこれはデートのお誘いなのだろうか。動画は配信で見る派だし、昔の映画のリメイクなど外れの予感しかしない。しかし、羽田さんはホラー好きなわけではないし、俺のために調べてくれたのだろう。いいですよ、と返事をすると、スマホをそのまま渡されて上映時間を調べるよう言われた。俺が調べる間に羽田さんは食事を済ませ、俺のシェイクを勝手に飲んだ。いいなんて言わなければよかった。
「じゃあ日曜日、コンビニまで迎え行くから」
約束を取り付けると、羽田さんが慌ただしく席を立った。突然現れて、俺の心を引っ掻き回して悠然と去って行く。まるで嵐みたいな人だ。
「羽田さんと近所だって言うのは知ってたけど、結構仲いいんだ」
俺と羽田さんのやりとりを見守っていた大輝が言う。実は昨日告白されたんだ、とは言えずにそうかな、と濁しておく。
「あの映画、俺行ったけどやめておいた方がいいぞ」
おずおずと平田が意見する。平田もホラー映画が好きらしい。大輝を置き去りにしてホラー映画の話で盛り上がった。
ともだちにシェアしよう!