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第12話
やがて強風が消え、あの妙な何かを感じなくなった。
京一は慎重に目を開けると、目の前には暗い海が広がっているだけであった。
自分の荒い息と、穏やかな波の音だけが鼓膜に入ってくる。まだ鼓動は速いままだ。
「はぁっ、はあ……。何だったんだ、あれ……」
なあ、瀬良。と言いかけて、口を噤んだ。
横に居たはずの瀬良がいない。
「瀬良……?」
身体が冷水を浴びたように一気に冷たくなる。
辺りを見ても、瀬良はどこにも居なかった。懐中電灯で照らそうと思って上げた手の中には、何も無かった。
「は……?あれ、俺懐中電灯持ってたよな……」
ゾクゾクと鳥肌が立つのが分かる。
先程から何かがおかしい、と思っていたが、ようやくそれが分かった。
今、自分の声と目の前の波音しか聞こえないのだ。
さっきまで、砂浜を歩けばザクザクと砂が擦れる音がしていたし、風が吹けばどこかの植物のざわめきが聞こえていた。しかし、今は全く聞こえない。
静かすぎる。
眼前に広がる海が、途端に恐ろしく感じた。
京一のその気持ちとは対照的に、ゆったりと引いては迫る波は穏やかである。
目の前の景色はさっきと同じであるのに、どこか違うところに居るように感じた。
「どういうことだ……」
────いや、それよりも。瀬良はどこだ……。
異常な空間に居ることが分かっても、京一の胸中は瀬良のことでいっぱいだった。
「瀬良……。瀬良!どこにいる?!」
京一は大声で叫んだが、圧倒的な静けさの中に溶けていくのみであった。
それでも、京一は叫び続けた。
「瀬良っ!!どこにいるんだよ……!せら……っ」
京一の喉が、キュ、と締まる。もっと大きな声で叫びたいのに、喉が締まって上手く発声できない。
途端に嗚咽が出てきそうになる口を噤み、下唇を噛んだ。
こんなことに誘ったからだ、と京一は自らを責めた。瀬良は受験で頑張っていたのに、子供みたいにこんな検証なんかに誘ったりして―――と罪悪感でいっぱいになる。
サンダル越しに、何かを踏んづけた感覚がした。
京一は踏んづけたものを手に取り確認すると、それはお守りであった。
このお守りは、瀬良にあげた赤いお守りである。暗くてよく見えないが、手触りから、花の刺繍がされているのが分かる。
「ここで瀬良は落としたのか……」
京一は瀬良の手がかりが見つかったと思い、少しばかり喜んだ――――――と途端に強い頭痛が襲った。
「う……、く……っ……」
視界が眩み、思わず両膝を砂浜についた。膝に砂粒が皮膚にめり込む。頭を手で抑えながら、目下に落ちた、歪む赤いお守りを見た。
「せ、ら……」
視界が徐々に狭まっていく。
歪む意識の中で、京一は何度も瀬良の名前を呼んだが、いずれも声にはならなかった。
光を失ってゆく瞳の奥に、金の髪が揺れる。
♢
「瀬良〜っ遊びに行こうぜ!」
京一は、祖母の家の廊下をバタバタと走って、窓際に居る瀬良の背中を軽く叩いた。
瀬良は今まで見ていた、窓際に置かれたメダカの水槽から目を離して振り返った。
「うん、いいよ」
瀬良は、京一とほとんど変わらない高さにある美しい瞳を細めた。
風鈴が靡き、セミの大合唱が聞こえる、8月16日。
京一と瀬良にとって、中学生になって初めての夏である。
この日は、親戚の子供が3人遊びに来ていて、隣の部屋からは子供達のはしゃぐ声が聞こえていた。
「なんか、お前熱くないか?」
「あつい?」
「背中、熱く感じた」
京一はそう言って瀬良の背中をさすると、瀬良がくすぐったそうに身をよじった。
「京ちゃんやめてよ……、ふふっ……なんかくすぐったいから……っ」
「え、わりぃ。んー、やーっぱ熱く感じんだけどな……大丈夫か?」
「僕はなんとも無いけど。普段から平熱高めだし」
「そーいや瀬良って体温高いよな。瀬良が大丈夫なら遊びに行こうぜ。」
「うん。僕は大丈夫だよ、行こっか」
京一と瀬良が歩き出した時、隣の部屋から出てきた美鈴や親戚の子供達が、2人の方へ駆けて来た。
「お兄ちゃんたち!まず最初は鬼ごっこだよ!早く来てねっ」
そう言って実鈴は、小さなツインテールを揺らして子供達と共に玄関の方へ走って行った。
京一と瀬良は顔を見合わせて、くすりと笑ってから、同じように玄関へ走って行った。
外へ出ると、ギラギラと眩しい太陽が肌を射抜いた。前を走る子供の影が、地面に模様を描いている。
「じゃーあ、公園まで鬼ごっこね!お兄ちゃんが鬼だから!」
実鈴が突然振り返り、京一を指さしたかと思えば、そう言って走って行った。妹の周りにいた子供達も、きゃあきゃあ言って楽しそうに走り出して行く。
「はあっ?ちょっ、勝手に!」
「じゃ、京ちゃん頑張ってね。ふふっ」
「瀬良までっ?!」
瀬良まで走って行ってしまったので、京一もとうとう鬼として走り出した。
京一が瀬良を呼ぶと、瀬良が振り返って笑顔を見せてきた。瀬良の金色の髪が、キラキラ光って眩しい。京一は、こけるぞ、と叫んで、額に垂れた汗をTシャツで拭った。
♢
火照った頬を手で仰ぎながら、京一は皆を公園の木の影へ誘導した。
京一は先程買ってきた炭酸ジュースを、親戚の小さな男の子に渡して、飲んだら隣の子へ渡すように言った。
京一のポケットにあった小銭では、1本のジュースしか買えなかったのだ。
「お兄ちゃん割と鬼ごっこ強いね」
実鈴は白い歯を覗かせてニッコリと京一に笑いかけた。
京一は、割とってなんだ、と言って、既に少し温くなっている炭酸ジュースを受け取った。
「瀬良、ジュース回ってきたぞ〜。先飲むか?」
京一は、地べたにしゃがみこんでいる瀬良の目の前にジュースを見せた。
「ん……?なに、京ちゃん……」
「だから、ジュース飲むかって。……瀬良、大丈夫か?」
京一はしゃがみこんで、瀬良の顔を覗き込んだ。瀬良の顔は赤く、呼吸も少し荒い気がする。
「大丈夫だよ、京ちゃん。走って少し疲れただけ」
「ほんとか?無理すんなよ。なんかしんどそうだし、家帰る?」
「やだよ、帰らない。大丈夫だってば。ちょっと休めば……」
「ほんとかよ……。とりあえずジュース飲め、ほら」
「京ちゃんの後でいいよ、」
「いや俺も後でい……」
「後で」
「な、なんだよ……」
若干食い気味の瀬良に戸惑いながらも、京一はジュースを二口、飲んだ。口内でブドウ味のジュースが、パチパチと舌を踊った。
「うまっ。ほら瀬良、おいしーぞ」
「ありがと、」
瀬良は両手でジュースを受け取って、美味しそうにゆっくり飲んだ。
京一は妹達に少し休むから、と伝えて瀬良を連れてベンチへ向かった。
「京ちゃんは遊びに行ってきていいよ。僕のことはいいから」
「いいんだよ、俺も疲れたしっ。勝手に鬼にされた挙句、お前らしぶとかったし」
「ふふっ、京ちゃん楽しそうだったけど?」
「楽しい訳ねーだろ、超疲れた」
「そう?ふふ……。……あのさ、京ちゃん、今日はほんとに誘ってくれて……ありがとう」
「別に……。なんだよ、改まって」
「なんか、ちゃんとお礼言いたくって。おばあちゃんのご飯美味しいし、皆と遊ぶの楽しいし、京ちゃんとずっと居られるし……。ほんと、良いこと尽くしだなあって」
「そんなの……当たり前だろ、」
隣に座る瀬良からの視線がなんだかくすぐったくて、京一は自分の膝へ目線を落とした。
隣から柔らかい瀬良の笑い声を聞いて、顔がカッと熱くなる。
「たれめがねがよ……」
「あのさ、そのあだ名やめてくれる?」
京一は無視して瀬良のメガネを取ると、瀬良の頬を流れる汗を自分の服を伸ばして拭った。
「ちょっとっ、自分で拭くからいいよ」
「うるせー」
「照れ隠ししたいのは分かったから」
「照れてねえ!」
2人が騒ぎ出したところ、親戚の子供が駆け寄って来た。
「皆でかくれんぼしようよ。お兄ちゃん達も一緒に」
「おう、いいぞ。瀬良は?もうちょっと休んどくか?」
「いや、もう大丈夫。僕も参加するよ」
「ん、分かった。よし、じゃあかくれんぼの鬼決めるぞ〜っ」
京一はベンチから立ち上がり、皆を集めた。先程まで滑り台で遊んでいた妹達も、京一の掛け声を聞いて走って寄ってきた。
♢
「また俺かよお?!」
京一は右手の「チョキ」を睨みながらそう叫んだ。
かくれんぼ2回戦の、鬼決めのじゃんけんで京一はまた負けたのだ。
1回戦が終わって、もう鬼になることはないだろうと意気込んでいた京一は、がっくりと肩を落とした。
「京ちゃんってじゃんけん弱いね」
隣にいた瀬良がそう言って上品に笑った。睨みつけた京一の瞳に、ほんのり赤い瀬良の頬が映る。
「瀬良、なんか顔赤いぞ?やっぱ熱あるんじゃ……」
「え……?僕は大丈夫だよ。さ、早く2回戦しようよ」
瀬良の言葉に、周りにいた子供達が賛同して、もう走る準備をしていた。
「ったく……瀬良、無理すんなよ?じゃあ始めるぞ!100数えたらすーぐ見つけるからなっ」
京一が、公園で1番大きな木の方へ向かって行く。
後ろから楽しそうな声をあげながら駆けて行く音を聞いた。
木の幹に顔を伏せる一瞬、瀬良の顔がちらつく。
まあ、大丈夫だろう、と京一は思って数字を数え始めた。
自分の声と、頭上の木の葉が風で大きく揺れているのが聞こえる。
♢
「48.49.50、51……」
京一がそこまで数えた時、右腕に水滴が落ちてきた。
雨が降ってきたのだ。
「え、雨かよ……」
思わず数えるのを止めて、上を向いて見れば薄暗い雲が空を覆い尽くそうとしていた。
なんだか風も強く感じる。
これから、大雨に見舞われるかもしれない。
「途中で数えるの、やめちゃだめだよ」
耳元で高い声がして、京一はびくりと身体を震わせた。
すぐ側に、小さな女の子が居た。白いワンピースを着ており、少女の頭よりも一回り大きく見える麦わら帽子を深く被っていた。そのためか、少女の口元しか見えない。
「だ、誰……」
少女が近づく気配を全く感じなかったことに、京一は驚いていた。
ここら辺に子供が何人か居ることを知っていたが、この少女は見たことがない。
少女は口元をにっと笑って、京一の手を握った。
その手は驚く程冷たい。
「おまえ、どうした?手、すげえ冷たい……」
「ねえ。私、皆が隠れてる場所、知ってるよ」
少女は京一の言葉に返答はせず、京一の手を引っ張って歩き始めた。
「は?!おい、離せって」
京一は手を振りほどこうとするが、なぜだか手が思うように動かせない。
前を歩く少女の長い黒髪が、サラサラと揺れている。髪が揺れる度に、どこからか潮の香りが流れてくる。
京一の意識は、雲がかかっているような、ぼんやりとしたものになっていった。
「……ちょっと……まて……」
「はやく。こっちだよ。こっちに皆いるよ」
少女は公園の出口を目指しているようだ。
かくれんぼは、公園の中だけで隠れるルールに決めているので、少女の言った「皆が隠れている場所」とは正反対の行動を取っている。
手を、振りほどきたい。
薄暗くなる意識の中で、京一は何度もそう思った。
しかし、未だに振りほどくことはできず、あろうことか、なぜか少女の手を自分からも握り返している。
「こっちだよ……。はやく……」
意識がぼんやりとしているのに、少女の声は奇妙なほど鼓膜にスっと入ってくる。
重たい瞼の目に、公園の出口が見える。
京一の頬に雨粒がたらりと流れた。雨が強くなってきていたのだ。
その時だった。
繋いでいる手と逆の手を、ぐい、と引かれた。
引かれたのと同時に、キン、と高い音が響いたかと思うと、急に体の力が抜け、京一はその場に尻もちをついた。
濡れた地面が、京一のズボンを濡らしていく。
「わ、ゴメン、京ちゃん大丈夫……?どこ行くの?」
「あ、あれ……せら……?おれ……」
上を見上げると、不思議そうな顔をした瀬良がぼんやりと視界に入った。
ザァッと音が聞こえて、雨粒が強く顔に当たった。
湿った草木や土の匂いが、濃く香る。
「ふらふらして公園出ていこうとしてたでしょ、どうして?」
「え……俺、かくれんぼの鬼やってたはずじゃ……?」
そうだよ、と瀬良が言う。
京一が不思議に思いながら、その場にゆっくりと立ち上がった。
すると、わらわらと隠れていた子供達が集まってきた。
「お兄ちゃんどうしたの?」
実鈴が心配そうな顔をして寄ってきた。雨で濡れた前髪が、てらてらと光っている。
「んー…いや、なんかぼーっとしてたっぽい。雨ヤベーし帰るか」
「そうだね。みんな、もう帰ろうか……」
「おう、ってうお?!」
隣に居た瀬良が、京一に突然寄りかかった。
肩に触れている瀬良の頬が、赤く染まっている。
濡れた服越しに、瀬良の高い体温がじんわりと肌を伝った。
「瀬良っ……!熱あんじゃねーかっ……」
「ん……?……そうなの……?」
「そーだよ、バカっ。歩けるか?」
瀬良に肩を貸して、京一は体勢を直そうとした。
瀬良の頬を伝う雨粒を拭って、瀬良の瞳を覗き込む。
鈍い光を宿した瞳が、京一を見つめていた。
「マジで弱ってんじゃんかよ……。おまえら先帰って、ばあちゃんらに瀬良が熱出したって伝えてくれるか?瀬良は俺が連れてくから」
妹と子供達に京一がそう言うと、こくこくと真剣な眼差しで頷いてきた。
「お兄ちゃんたち、はやく帰ってきてね!」
バチャバチャと水しぶきをあげて帰る子供達に、京一はころぶなよ!と叫んで見送った。
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