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第14話

「京一!京一ってば!」 肩を揺すられている。そう気づいたのは、目を開けて数秒たった後のことだった。 ぼんやりとした意識のまま、京一は数回、瞬きをする。 頬にあたる夜風は、海の匂いがして、薄ら寒い。 京一は安遠海岸に居た。 「大丈夫?ぼーっとしてたよ、京一」 「あれ、瀬良……?おれ……」 隣に居る瀬良の輪郭を、夜が溶かして薄暗く瞳に映る。 瀬良が言うには、京一は突然海の前で棒立ちになったまま、動かなくなったらしい。 頭に手をやり、自分が先程まで何をしていたのか思い出そうとした。 瀬良を疑いたくは無いが、自分が海の前で突っ立っていた、というのに違和感を感じたからだ。 「2時55分……。さあ、京一、もうすぐ願い事を言う時間だよ。もっと海へ近づかないといけないね、」 「え、や、ちょっと待てよ……」 瀬良が眼前の海へ近づいていく。 京一は思い出すのを一旦やめて、前を歩く瀬良の手を取った。 触れた途端、驚くほど冷たい手にビクリと身を震わせる。 「せ、瀬良、ど……」 どうしてこんなに手が冷たいんだ、と言い終わる前に京一は自らの口元を覆った。 突然、胃を中心にぐるりとかき混ぜられるような不快感が強く襲ったからだ。 そのまま我慢出来ずにその場で嘔吐する。 「うっ……おえぇっ……」 よろついた際に飛び散った吐瀉物が、海にびちゃびちゃと音を立てて沈んでいく。 京一は、咄嗟に瀬良の手を離して膝から崩れ落ちた。冷たい砂粒が皮膚にめりこむのを感じる。 あーあ、と瀬良が乾いた声で呟いているのが聞こえた。 「ごめ……、うっ……うぇ……おえぇっ……」 胃の中のものを全て出す勢いで嘔吐した京一は、荒い呼吸を何度も繰り返した。 寒気がするのに、汗が額から1滴、2滴と流れる。 肩で息をしながら顔を上げると、瀬良の冷たい瞳と目が合った。 いつもは美しいと思う月光で輝く金髪が、なぜか京一の恐怖心を煽った。 「大丈夫?」 「ん……わ、悪ぃ……。けほっ……。なんか急に気持ち悪くなって……」 「ふうん……君のその感度、相変わらず凄いね」 瀬良がよく分からないことを呟いて、手を差し伸べてきた。 京一はその手を見つめたまま、掴めない。 「……せら……、帰ろう。なんかここ変だ……。おまえも……なんか変だし……」 「あは、そう考えるんだ……。変?どうでもいいよ、」 よくないだろ、と京一が言おうとしたのを瀬良は遮り、手をぐっと無理やり掴んで立ち上がらせた。 相変わらずその手は恐ろしいほど冷たく、京一はまた気分が悪くなる。 「さあ、早く。海に入って……こっちへ……」 「い、いやだ……。帰ろうってば、瀬良……」 「なんで……?君の願い事――僕とずっと一緒に居たいっていう願い事、叶えたいんだろ」 「は、はあ?!違う!……俺はお前の受験が上手くいきますようにって……」 「もういいよ、そういうの」 瀬良は京一の手を離して、右手の拳を京一に見せる。 その右手をゆっくりと開いてみせると、赤いお守りが現れた。 「それ……」 「これ、君が呪いをかけて僕に渡したお守り。覚えてる?」 「……は?呪い……?」 「このお守りは京一が祖父から貰ったもの。……もし誰かに渡したらどうなるか、聞かされていた。けれど、僕にあげた」 「え……、」 京一の声が震える。途端に心拍数が上がった。 足元で柔らかい波音を立てながら、京一を背に、暗い海を瀬良は歩いていく。 砂浜に残された京一を、冷たい潮風が舐る。 「これ、強いお守りなんでしょ。信頼している祖父から貰い、譲渡すればその者に不幸が訪れるって言われた、このお守り。君は祖父の言葉を信じていただろう」 「なんの……、ことだよ、」 「しらばくれなくていいよ。京一は、僕にもっと、もっと不幸な目にあって欲しかったんだよね?そうだろう、」 「そんな、こと……」 冷えた指先に、砂粒がめり込む。瀬良が淡々と言う事実を、どうしても認めたく無かった。京一は自らの耳を両手で覆う。しかし、瀬良の艶やかで冷たい声音は、罪を認めさせようとするように京一の鼓膜へ届き続けた。 「僕にこのお守りをくれたあの日。京一はお願いしたよね。僕に不幸が訪れますようにって……。そうすれば……僕が京一に助けを求めるだろうって、不幸が訪れれば、京一を頼りにする、そう思ったんだろう? ……でも、残念。おじいちゃんから言われたこと、信じてたのに効かなかったね。それどころか、僕はどんどん多くの人に囲まれて、幸せな時を過ごしていく」 顎を冷たい人差し指で上に向けられる。前を歩いていたはずの瀬良が、いつの間にか目の前に居る。 京一はごくりと唾を飲み込む。瀬良は淡々と続けた。 「そんな僕を見てどう思った?昔の僕が好きだったのに、悔しかっただろう?……京一に頼って、ケガをする度に絆創膏をねだって、弱いところを自分に見せてくれる。……「ずっと見ててね」、と言う僕が好きだったのに」 「違う……!」 「僕が不幸でなきゃ、京一は自分の存在価値が無くなると思ってるんだ。……京一、こっちにおいで、」 瀬良に腕を引っ張られて、ふらつきながら立つ。相変わらず冷たい身体に、そのまま引き寄せられる。 「……なんで……そこまで知って、俺の傍にいたんだよ。俺、気持ち悪いだろ。……友達だとか言いながら、おまえのこと……」 友達と言いながら、自分を必要としない瀬良の不幸を祈った。自己中心的で浅ましい自分。それでも瀬良の傍に居続け、隣を渇望し続けた。自分の醜さを実感しても、瀬良から去ろうとはしなかった。 京一。耳元で名前を呼ばれる。 冷たい瀬良の身体に包まれる。京一は例によりまた気分が悪くなったが、瀬良の抱擁を拒むことなく受け入れた。そのまま、背中に腕をまわして、抱き締め返した。 抑えきれなくて、涙が出る。何を泣いているんだと思った。被害者は瀬良の方だろう。そう思うのに、瀬良が頭を優しく撫でるので、止まらなくなる。 ごめん、と震えた声でそう言うと、瀬良は耳に唇を寄せ、いいよ。と京一が謝る度に囁いた。 口から溢れる嗚咽が、嫌でも耳に入った。口を塞ごうと、まわした腕を背中から離そうとするが、瀬良に止められて強く抱きしめられる。 瀬良から濃厚な潮の香りが漂う。その匂いを身体に入れる度に、軽い目眩に襲われた。 「……行こうか。僕はずっと君のものだよ」 瀬良が続けて何か言うが、もう分からない。甘美なその声だけが耳に入って、言葉として理解できない。頭の奥の方から、意識がほぐれて溶けていくような気がした。 抱擁を解かれて、瀬良に手を引かれる。 ちゃぷ、と波が揺れる音がどこからか聞こえた。 瞬きを1度すると、いつの間にか腰まで海に浸かっていた。身体にまとわりつく波が、京一の目下で黒々とうねる。 手を引いて前を歩くのは恐らく瀬良だろう。月が隠れたのか、瀬良が黒い靄の塊のようにしか見えない。 次第に重くなる瞼に、京一を振り返る黒い靄が映る。京一は、今どこに居て、何をしているのか分からなくなっていた。 しかし、瀬良が傍に居るのなら何でもいいと思えた。 どこからか少女の楽しそうな笑い声が聞こえる。 瞼の重みにまかせ、目を閉じようとした――その時だった。 「京ちゃん」 声が聞こえた。耳馴染みの良い声。小さい頃からずっと聞いていた声だ。京一が目を開くと、温かくて大きな手のひらが頬に触れた。顎下に生温い波が揺れている。 「京ちゃん!!!」 「瀬良……?」 「京ちゃんっ!!ごめんね、京ちゃん……」 瀬良は瞳に涙を一杯にためて、京一にすがりついた。暖かい瀬良の身体にすっぽりと埋められた京一は、涙の訳が分からず首を傾げながらも、背中を撫でてやった。瀬良の体温を感じる度、ぼうっとしていた意識がなぜか冴えてくるような気がした。 「瀬良……?なんで泣いてんだ?」 「京ちゃんがそっちに行こうとしてたから……。良かった……間に合って……」 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、そう答えた瀬良は京一を抱きしめる力をいっそう強めた。 「……?だって、瀬良が言ったんだろ。行けばお前とずっと一緒に居られるって……」 京一はそう言って、瀬良の身体越しに水平線を見た。先程まで隠れていた月が顔をのぞかせて、視界が少し明瞭になる。 京一の視線の先に、誰かがこちらを見ている。 さっきまで手を引いていた瀬良だと思ったが、瀬良は今、目の前にいる。 「……瀬良じゃない……」 では、今こちらを見ているのは誰だ? ぞわりと空気が動く気配がして、動悸が早くなる。 ――今まで誰と話していた?誰についていこうとした?京一はそう自問自答する。ドクドクと心臓が脈打つのを感じながら、「誰か」から目を離せずに居た。 すると、いつの間にか泣き止んだ瀬良が、京一の頭をぐいと自らの胸元に引き寄せた。 「見ちゃダメだよ、京ちゃん。とにかく、早く目を覚まして……!戻れなくなる……!」 「め、目を覚ます……?戻れなくなる?ていうか、あれ、え……?!なんだよ、なんだよ、あれ……っ?!」 京一はほとんどパニックになりながら、声を震わせて瀬良に訴えた。瀬良は京一の肩に頭を寄せ、抱き締めたまま動かない。瀬良の肩は小さく震えている。 「今は何も考えなくていいから!夢なんだよ、これは!とにかく早く起きるんだ、京一!」 「お、起きろって言われたって!だって俺起きてるし……!海ん中居るし!」 「海……?これが海に見えてるの……?」 「は?何言って……」 自らの顎下まで浸かっている波を見ようとしたが、鉄のような臭いに思わず顔をしかめた。 「え……?!」 今まで海だと思っていたソレは、赤黒く渦巻く沼のようになっていた。血の沼のようである。 「な、なんだよ、これっ?!だ、だってさっきまで」 海だったんだ、と言いかけて京一は息を飲んだ。自らの身体の周りを絡みつくように手を伸ばす「何か」が見えたからである。 髪で顔が全て覆われている「何か」が京一の足にすがりついている。また、その横には顔の中心に黒い穴が空いている「何か」が、京一の腰まで長い腕のようなものを巻き付けていた。 おおまかなカタチは人に似ているが、決定的に違う「何か」が、京一を中心におびただしい数で縋りついていたのだった。 京一が意識を失いかけた時、「もう少しだったのに」と悔しがるような声が妙に鮮明に聞こえた。

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