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【3】アラスカ
オーロラは寒い季節にしか湧かないモノだと思っていた。
それが間違いだ、と柔らかく教えてくれたのは僕と同じ鳥類学者で、僕よりもちゃんと研究活動をしているヤルマリだった。
「気持ちはわかるよね。オーロラってやつは白い息をはぁーって吐きながら見上げるもんだって思うし、大気中の何かが寒さで反応してーって感じに見えるもんだしねぇ。でもあれ、宇宙で起こってる現象だから、地球の気温とかは基本関係ないんだってさ」
そう語る彼と素直に頷く僕の頭上には、緑色の神々しい帯が広がっていた。
眠そうな目を柔らかく細めたヤルマリは、僕よりも十歳上のフィンランド人だ。背が高く、パイナップルのヘタみたいなソフトモヒカンヘアに、野暮ったい眼鏡がよく似合う。
オーストラリアのキャンプで一緒になり、それ以降教授に恵まれない僕の愚痴を聞いたり、こっそりと心配してくれたり助言してくれたり、あんまり対面して話すことはなかったけれど、お互いに気を使い合う良好な関係を保っていた。
人付き合いが苦手な僕がヤルマリに懐いていたのは、高校時代の恩師にちょっと似ていたからかもしれない。
夏、オオソリハシシギの繁殖期。
夏といえども夜間の平均気温は零度。吐き出す息は勿論白いし、防寒具をきっちりと着込んでいても底冷えする寒さだ。凍傷に怯えるほどではないとはいえ、寒いもんは寒い。
それでも真冬はマイナス四十度近くまで気温が下がる。零度なんてまだ過ごしやすい方だろう。
「よし。今日はこの辺にして帰ろうか。来週はちょっと長めにキャンプを張るけど。ミキ、体調は大丈夫?」
「問題ないよ。ほら、僕はさ、……ちょっとだけ良いホテルに泊まらせてもらってるし」
「いいねぇ、お金のあるパトロン、ぼくもほしい」
そう言って笑うヤルマリからは、嫌味な雰囲気は感じとれない。むしろ微笑ましさというか、なだらかな好意がビシバシと漏れていて、嫌な気持ちにはならないが気恥ずかしくて居たたまれない。
僕はあまり他人と積極的に会話をするタイプじゃない。その上友達を作るのも下手で、プライベートな話題をどの程度積極的に零したらいいのかもわからず、勿論僕がゲイであるとか、イタリア人の富豪に一年間片思いをしている最中だとか、そういう話は酒の席ですら決して漏らさなかった。
それなのに暇があるとすぐに迎えに来る富豪のせいで、ほとんどの同僚に『ミキにはイケメンな恋人がいる』と認識されていた。
いや誤解だ、と喚くタイミングもなかったので、仕方なく生ぬるい視線になんとか耐える日々だ。快く僕だけ宿を変えてもらっている手前、波が立つようなこともしたくない。
ただあまりにも耐えかねて、一番よく喋るヤルマリにだけは詳しい事情を告白していた。勿論、僕が彼のことを特別に思っている、という恥ずかしすぎる事実も含めてだ。
「でも、ミキは本当に随分と健康になったね。昔はなんていうか、あー……いつでもすぐに吐けるぞって感じの、青い顔をしてふらふらしてたし、親鳥が死んで風に殺されそうになっている雛みたいだった」
「いやぁ、そんなカワイイもんでもないでしょ……」
僕が学会やキャンプ中、特別挙動不審だったのは認めるけど。具合が悪いというよりは、常に精神的に張り詰めて勝手に弱っていただけだ。とにかく僕は人間のど真ん中に居ることに向いてない。
「ミキは生まれつき繊細な人間なんだと思ってたけど、今はちょっといい感じだ。度胸があって素敵だよ。オーストラリアで教授にいじめられて吹っ切れちゃったの?」
「いや、たぶん僕が変わったとしたら、オーストラリアを捨てたからじゃなくて、変な富豪にナンパされたからだよ」
「わぁ、熱いねぇ、ここだけ気温が上がりそう。でも例の彼がミキの殻を勝手に破ってくれたのなら、ぼくはやっぱり祝福しなきゃねぇ……おや、噂をすれば、きみの過保護なパトロンだ」
観測地から拠点に帰ってきたタイミングで、こちらに歩いてくる背の高い欧州人男性の姿が見えた。
遠目でもハンサムさが漏れ出しているように見えるのは気のせいかと思ったけれど、道行くおばちゃんが振り返っていたからやっぱり彼は、アラスカの人から見てもハンサムなのだろう。
寒空の下を歩く僕を見つけたらしいアンドレアは、わかりやすく口の端を吊り上げる。今日はサングラスをしていないから、薄い色の目もよく見えた。
悠々と近づくアンドレアには聞こえない程度の声量で、こそこそとヤルマリは呟く。
「彼は面白いねぇ。ミキと同じくらい不器用だ。てかたぶんミキよりちょっと不器用だ」
その声の中にやはり微量の微笑ましさを感じ取った僕は、ちょっとだけ眉をひそめてヤルマリを見上げた。
「……どういう意味?」
「そのままの意味。あの顔見てごらんよ、ミキ。ぼくのことを殴りたいのにさ、そんなことをしたらミキに呆れられちゃうからって一生懸命余裕ぶってる顔だよ、すごいなぁ……若いねぇ……恋だなぁ……」
「あ、マジ? あれってそういう顔なの? ていうか、恋、かなぁ……? まあ、その、独占欲は、ビシバシ感じるけども」
「ミキはアレ、恋じゃないと思ってるの?」
どうでもいいけど、そこそこ金を持っていて若干有名らしいアンドレアに向かってアレだとか失礼な代名詞を使うのはきっと、ヤルマリくらいのものだろう。彼はとにかく鳥以外に大した興味がなくて、だから僕はとても付き合い安いのだけれど、興味がないからと言って人間の感情に無頓着なわけではないらしい。
「そりゃ情はあるだろうけど、なんか……寂しい時に手ごろなもので埋めちゃって、そのまま惰性で習慣になっちゃったんじゃないかなぁと……」
「んーあー。……まぁ、ありえるねぇ。辛い時ってね、ちょっと依存しちゃいがちだもの」
「でしょ? だからほら、僕と彼はたぶん違うんだよ」
「ミキは恋情、彼は慈愛? うーん、ミキが言うならそうかもしれないけど、でも、それが情ならすべからく愛だとぼくは思うけどねぇ。人間が子供に話しかけるのも愛だし、鳥が雛に餌を与えるのだって立派な生存本能による愛だよ」
「愛には変わりないんだから我慢しろって意味?」
「愛されているならもっと喜んだらいいじゃないのって意味。――やぁ、アンドレア。先日は素晴らしいリモンチェッロをありがとう。おいしすぎてダースで買おうと思ったら通販してなくて床を叩いたよ」
さらりと態度を切り替えて、ヤルマリはアンドレアと手袋越しに握手を交わす。僕は感情の切り替えが下手で、ポーカーフェイスも苦手だから、ヤルマリのこういうところはすごいよなぁと素直に関心してしまう。
対するアンドレアは、どう見てもいつも通りだ。確かに二人きりの時とは若干毛色が違う笑顔だけれど、外にいる時のアンドレアは大体こんな感じの顔だから僕的にはとても『普通』に見える。
……嫉妬してるのかな。どう? 正直全然わからない。
そもそもアンドレアは表情豊かなタイプじゃない。さらりとしたイケメン顔は派手に笑うことは少ないし、取り乱すほど激怒するとか号泣するとか、そんな顔は想像もできなかった。
「気に入ったのならダースで送り付けるよ。アレは俺の馴染みの店の秘密の商品なんだ。暇なときにでも郵送先を教えてくれ、ミッキーに言づけてくれたら、すぐにでも直送便を飛ばすさ」
「本気にするよ? あー、でもぼくは君にお返しできるものがないな……」
「必要ない。ミッキーをアラスカに呼んでくれたお礼だ。おかげで俺は、人生で初めてオーロラのすばらしさを知った。俺が勝手に感謝の気持ちを持っているだけだからな、二人とも気にするな」
それじゃあ、と軽やかに手を振って、背の高い二人はにこやかに別れた。慌ててじゃあまた明日と叫んで、先に歩き出すアンドレアの後を追いかける。とても普通だ。別にギスギスしていたわけでもないし、特別を感じるほどの何かもない。
だから僕はいつも通り彼の隣に並んでとりとめのない会話をして、そろそろ通いなれたロッジの扉をごく普通に開けた。
アラスカはオーロラの名所だ。といっても、派手な観光地というわけではない。ほとんどオーロラ以外の観光名所がない為、豪勢なブティックホテルが乱立しているリゾートとは言い難いし、そもそも環境がキツいせいか家の作りも実用的というか、比較的地味だ。
アンドレアと僕が滞在しているロッジも、ホテル併設でかなり綺麗だけれど『豪華』というほどではない。それでも広々とした室内は快適に暖かく、冷えた肌の緊張がほどけるような温かさに息を吐きかけたとき――唐突に後ろから抱きしめられ、本当に久しぶりに鳥が死ぬ時みたいな声が出てしまった。
「ヒッ……!? え、ちょ……アンドレア、何……っ」
具合でも悪いのか。唐突に眩暈でも起こしたのか。
もしかしてやっぱり寒い場所は苦手だった? と心配したものの、僕の肩口から聞こえる吐息は病人のそれではなく、なんというか、いつものアンドレアだった。
ただし、二人きりの時のアンドレアのテンションだ。
「ミッキー、少し黙って俺に体温を受け渡してくれ。ああ、いや、黙らなくてもいいんだが、とにかく許してほしい。疲れた。笑うのは苦手なんだ。別に心の底から愛想笑いをしていたわけじゃないが、それにしたって感情の渦を抑え込むのは苦労するんだよ……」
「え。え? アンドレア、ええと、……ヤルマリと喋るのは疲れる、ってこと?」
「違う。違わないが違う、彼は何も悪くない。原因は嫉妬深い俺の心だからな」
それはつまり、あー……アンドレアはヤルマリに嫉妬して、対外的な笑顔を保つことに疲れた、ってことでいいんだろうか?
うん。あまりにも僕にとって都合のいい解釈すぎて、逆に不安になってくる。独占欲強めだなとは思っていたけれど、ここまであからさまにこう、ストレートにぶつけられるとは思っていなかった。今日は帰り際にこそこそと二人で話していたのを見られたせいかもしれない。
アンドレアは大人だ。僕よりも年下だけど、自立していて精神的にも成熟している。
コミュニケーションに難があり、仕事を一回失いそうになった僕からしてみたら、一人で事業を起こし、富豪と言えるほどまでに金を稼いだ彼はそれだけでとんでもない才能の持ち主だと思えるし、素直に尊敬すべき人間だと思う。
アンドレアは多才だ。アンドレアは頭がいいし、言葉も麗しい。その上外見もハンサムで、内面だって慈悲深く優しい男だ。ケチをつけるところが一つもない。ああ、いや、結構勝手に僕の予定を無視して知らない土地に攫って行く行動力だけは、もうちょっと考えてほしいとは思うけれど。
そんな完璧な男が、ただの鳥類学者の端くれでしかない僕に惚れる要因があるわけがない。……やっぱり、アンドレアが僕に求めているのは恋愛的な感情じゃなくて、同情に近い愛情じゃないかなぁと思う。
対象が友達だとしても、独占欲は存在する。自分だけのもの、という感情は気持ちがいい。
勘違いするなと言い聞かせつつも、勿論僕は悪い気持ちになれるわけもなく、にやけそうな顔を感情と一緒に抑え込む。
唐突に年下ぶるのはやめてほしい。本当に。僕がにやけてしまうから。
「……アンドレア、あー……あのー、せめて座れる場所に行かない? あそこのソファーとか」
「嫌だ。腰を落ち着けてしまったら俺はますますキミを抱きしめて離さなくなるぞ。今日はもう一秒たりとも離したくない気持ちをどうにか抑えているところなんだ」
「離さなくてもいいよ別に、アンドレアの膝の上でも論文は読めるから」
ご飯は食べたいけど、と付け足せば、急に元気になった彼に引き摺られるようにソファーに運ばれ、当たり前のように抱きかかえられる。僕もなんだか妙に慣れてしまっていて、重くないか? なんて考えることはもうやめていた。ラクダの上の尻の痛さが好きだ、なんてはしゃぐ男だ。僕のかたいケツの重さもどうせ好んでいるのだろう、苦難が好きな男だから。
「いい男だ、と、頭ではわかっているんだ」
後ろから僕を抱えている男は、僕の首筋あたりに顔をうずめて苦々しい声を零す。暖かい息がくすぐったく、甘く感じてしまってよろしくない態勢だ。
それでも僕は体の芯の興奮をぐいぐいと押しやり、なんでもない風に慣れた苦笑いを零した。
「ヤルマリのこと?」
「勿論彼のことだ。というかキミの周りの学者は驚くほど気がいい人間ばかりで、俺の人間的な度量の狭さを嫌というほど実感する」
「あー……僕っていうか、ヤルマリの人徳じゃないかなぁ。今回の調査は彼の専門分野だから、ほとんどのスタッフはヤルマリが中心になって集めたらしいよ。僕も初対面の人間ばっかりだ」
「ミッキー、キミがコミュニケーションに難がある、なんて言っていたのも嘘だろう? 仕事中のキミは、ほれぼれする程真面目で何の問題もなく周囲に打ち解けていたじゃないか」
「……今回はね、ちょっと自分でもびっくりするくらいうまく行ってる感じはある」
「シニョール・ヤルマリのお陰?」
「いや、どっちかっつったらアンドレアのお陰」
「…………俺は何もしてなくないか? 勝手にキミを攫ってロッジに監禁しているだけだぞ?」
「いつも勝手に攫って好きなだけ言葉で殴ってくるし、アンドレアは僕の言葉もきちんと受け止めてくれる。だから、人の顔色ばっかり伺うんじゃなくて、とりあえず言葉で殴ることを覚えたんだ。あなたのお陰で、言葉で殴る度胸がついた」
それはたぶん、僕にとっては本当にとんでもない進化だった。
他人の目が怖かった。感情が恐ろしくて、いつでもとりあえず賛同しておけばいいと逃げていた。勿論空気を読んで場を受け流す術も大切だが、何でもかんでもいいよ、そうだね、わかるよ、などと流してばかりでは、コミュニケーションは成立しない。
僕は他人に嫌われたり怒られたりするのが怖かっただけで、他人と対話しようと思っていなかったのだ。これはとても失礼なことだったんだ、と気が付いたのは、オーストラリア縦断の旅の最中、アンドレアと焚火を囲んで星空を見上げている最中だった。
何でもかんでも肯定の意を反射で口にしてしまうのは、相手が何を言っても、結局話を聞いていないのと同じだから。
考えて話すこと。言葉は意味を持っていてこそ。コミュニケーションには脳の介入が必要だ。
運転手と通訳のスカウトついでに出された条件は、結果的に僕に多大な影響を与えたのだ。
僕がアンドレアという怪しい金持ちに対して素直に言葉をぶつけられたのは、金の為であり、職を失ったことにより自暴自棄になっていた為でもある。僕たちの間に最初にあったのは信頼ではなく、金と空虚感とどうにでもなれというやけくそな気持ちだった。
まあ、最終的には信頼を飛び越えて恋情にまで発達してしまったのだけれど、……その話はこの体勢で思い出すことじゃない。僕のたぶん殺すしかない恋情はもう一度ぐいぐいと胸の角の方に追いやり、タブレットを取り出して英語の論文を表示させた。
アンドレアはどうやら勝手に僕を補充しているようだが(この言い方もなんだかとてもこう、自意識過剰っぽいが他に言いようがない)、僕は何か集中することがないとおかしな恋情を口走ってしまいそうになる。
無心になるためには、仕事が一番だ。最近やっとそのことを学び、僕はアンドレアに対するいかんともしがたい感情が暴発しそうになると、しれっとした顔で仕事に必要な論文を読むことにしていた。
というか正直なところ僕は、オオソリハシシギについてあんまり詳しくない。
たぶんヤルマリは研究者としてというよりも、シンプルな人手として僕に声をかけてくれたんだと思う。だから僕が専門外のオオソリハシシギについて調べる必要はそこまで求められていないとは思うものの、せっかく現地で生態調査を手伝うならば、基礎知識くらいはつっこんでおきたい。
僕が専門にしているオオジシギは、チドリ目シギ科タシギ属の渡り鳥だ。対するオオソリハシシギは同じシギ科だが、オグロシギ属になる。普通の人が見たら似たような鳥に見えるかもしれないけれど、繁殖地も飛行距離も大きくずれる為、生態もかなり違う鳥だ。
どちらも夏は北半球で繁殖し、寒さが厳しい冬になると南半球まで一気に渡り、越冬する。
僕が研究対象にオオジシギを選んだのは単に地元の北海道で馴染みのある鳥だっただけで、長距離を飛ぶ渡り鳥として先にオオソリハシシギに出会っていたら、そっちを研究していたかもしれない。……でも顔はオオジシギの方が五倍くらい可愛いと思う。これは欲目ではないはずだ。たぶん。
大人しく僕の首筋を吸っていたアンドレアだったけれど、五分後くらいにさすがに足がしびれてきたのか、もぞもぞと動いて僕を足の間にそっと配置しなおした。本当に僕を離す気はないらしい。
「……それは仕事の書類?」
ひょこっと僕の首の後ろから顔を出したアンドレアが、タブレットの英文を眺めて口を挟む。
「書類、っていうか論文。別に精査を頼まれたとかじゃないから、趣味で読んでるみたいなもんだよ。張り切って参加してるけどさ、僕はオオソリハシシギにはあんまり詳しくないから」
「キミは鳥が好きなんだな」
「……え、うーん……好き、なのかな?」
「違うのか? こんなクソ寒いところまで意気揚々と駆けつけて、オフの時間にも勉強するくらいなんだ。正直俺はそのオオソリなんとかって鳥にすら嫉妬していたよ。キミをそれほどまでに首ったけにできる鳥だ、さぞ魅力的なんだろう」
「いや、まあ、渡り鳥が魅力的なのは否定しないけど、僕がことさら鳥を愛してるかっつったら、そうでもないというか、別に三度の飯より鳥が好きって程でもないというか……」
「ミコノス島であれだけペリカンにぞっこんだったのに?」
「ペリカンはみんな好きでしょ。かわいいじゃん。アンドレアだって写真山ほど撮ってたじゃないか」
「じゃあキミはどうして鳥の研究をしているんだ?」
「……えーと」
難しい話だ。というかそういえばあんまりちゃんと考えたことがない。
僕が研究者になったのは勿論『研究したい』という知的好奇心の為だ。金が欲しいなら普通に大学を卒業して就職したほうがいいし、研究者という職業自体にあこがれもない。じゃあオオジシギがしぬほど好きなのかと問われても、いやたまたま研究対象に選んだのがそれだったので、としか言いようがなかった。
「僕は鳥が好きっていうか、あー……知らないことを探すのが、好き、かな」
人間は全知全能じゃない。
テレビなんかを見て育った幼少期は、人間に知らないものがあるなんて思ってもみなかった。これはこういうメカニズムで、こう動いている。ずっと昔から当たり前にあった知識のように、テレビの中の人々は全部を断定して知識を語った。
だから僕は長じてから恐竜は緑色じゃないかもしれないって知って本当に『うそでしょ?』と思ったし、なんならいろんな生物の図鑑を見るだけで『詳細は分かっていない』という言葉が山ほどある事実に驚いた。
人間が作ったもの、解明したものは少ない。
プラスチックや食塩の構造はわかっていても、数種類のウナギの産卵場所に関しては今もわかっていない。何より人間はまだ、自力で生命を一から作り出すことはできていないのだ。
僕たちは全知全能じゃない。知らないことがやまほどある。わからないから考える、観察する、知ろうとする、仮説を立てる、実証する。それは、人間の知っているルールに当てはめるパズルだ。
わからないことがあると、僕は生きていると感じる。この世界は造られたルールばかりじゃなくて、意味の分からない素敵な不思議に溢れている。人間なんか所詮ただの生物の一部だ、と実感して面白くなる。
このあたりまで滔々と言葉にした後に、僕はやっと一呼吸おいて不安になった。
……この話、面白いか?
いや、どう考えてもアンドレアは興味ないだろう。
慌てて何か適当な理由をでっちあげようと考え出したものの、僕の頭の中にはオオジシギの可愛らしい顔が浮かんでくるばかりだ。
沈黙の中で静かに動揺し始める僕をさておき、ゆっくりと息を吸ったアンドレアはひどく感銘した様子で言葉を吐いた。
「キミは――息を吸うことでもなく、飯を食うことでもなく、思考することに生を感じるんだな」
……相変わらずとてもきれいな言葉を羅列する人だ、と、感心して、ちょっとだけ感動してしまった。
そう。そうだ。その通り。僕は、思考することに生きている実感を伴う。だから研究が好きだし、観察が好きだ。知らないことを知るのは、面白い。脳を動かすのは面白い。生きている、そう思う。
「俺は、そうだな……知らない話が面白い。世界は広い。旅が好きなのは、知らないものを山ほど見れるからだろうな。今まではイタリアで引きこもりの人生だったが、キミと見る世界は刺激的で素晴らしい。……生きてるって感じがするんだ」
「……鳥の話、つまんなくない?」
「まだよくわからないけどな。つまらなくはない」
生きているって感じがする。
ウルルで死のうとした男は、たぶんほとんど興味もない僕の鳥の話を聞いて、生きていると実感する、と言う。僕はやっぱり少しどころかかなり感動してしまい、震える息を誤魔化すように笑った。
アンドレアは頭がいい。お金も持っている。それなのに優しくて聡明な言葉の端々に滲む彼の性格はとても生き辛そうで、それが愛おしくて僕は鼻の奥が痛くなった。
アラスカの調査は、オオソリハシシギが南半球に飛び立つまで。せいぜい九月の半ばくらいまでだ。それが終われば僕はまたしばらく、アンドレアとは別の生活を送ることになる。ヤルマリの紹介で、アメリカの大学に雇ってもらえそうなのだ。
僕を後ろから抱きかかえる富豪に再会できる日は、ちょっと先になってしまうだろう。といっても僕は所詮彼にとっては通訳兼旅の友でしかないので、誰かほかの人間を見繕うことができれば、思いのほかあっさりと独占欲まで手放してしまうかもしれない。そうなったらちょっと嫌だ。……嘘だ、うん、かなり嫌だ。でも今のところ僕は、自立しているイタリア人に『好きだ』と告白するような勇気も資格もない。何といっても、ギリギリ生きているような、心もとない生活なのだ。
せめてちゃんと働いて、地に足をつけたい。僕は鳥ではないのだから、ふらふらと各国を飛び回って生活するわけにはいかないのだ。
目標がはっきりしているのは、うん、悪くない。なんとなく生きているより数段マシで、だから僕は結構本気で今人生が楽しいというか、比較的きちんと生きている実感があった。それでも理性とかを考慮しない本能というか我儘な恋情は、後ろの男を嫌と言うほど意識して、押し込めた言葉を口から吐き出させようとする。
あなたの隣に居る人間は、いつでも、どこでも、ずっと僕だけならいいのに。
そんなことを言って困らせるつもりはないし、苦笑いで身体を引かれたらトラウマになるし、もう攫ってもらえなくなったら後悔どころじゃ済まないから、僕は何事もなかったかのようにまた英語の論文に目を落とした。
愛ならそれでいい。ヤルマリの言った通りだ。僕は彼の愛情を背中に受けながら、きっちりと欲情に蓋をした。
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