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【4】シンガポール
雨は憂鬱ばかりじゃない。
偉そうにそう言ったのは誰だったか、と考えて五秒ほどで自分の姉の顔が浮かんだ。ベネデッタは一見冷めた大人のような態度をとるわりに、情熱的で愛情に満ちた姉だ。
あまり愛情を持たない両親に育てられた俺は、代わりに姉から嫌というほど甘やかされ、トラウマになるほど叱られた。思い返す幼少期の思い出は、いつでも姉が隣に居た。なんなら今でも俺の会社を回してくれているのは姉だ。
離婚騒動に傷ついたなどと軟弱な理由でイタリアから逃げだした俺を、五分叱って許してくれた。自慢できる人生ではないが、この姉だけは自慢の身内だと思う。
想像力に乏しい俺は、雨の日が苦手だった。その当時はあまり知識欲もなく、本を読むことも苦手で、室内でできる遊びを知らなかったのだ。
雨は憂鬱ばかりではない。
ドヤ顔でそう言った姉は、雨の日の楽しみ方や、憂鬱の跳ねのけ方を教えてくれたものだ。
思えば彼女は、雨の日は少し体調を崩しやすい様子だった。気圧や気温によって頭痛などを生じるタイプなのだろう。それでも俺の前では『雨は憂鬱じゃないよ』とにやりと笑う姉だったので、俺は今でもベネデッタの弟で良かったと心底感謝している。
しかし、久しぶりに会ったミッキーが憂鬱なため息をつく理由は、どうやら彼の家族のせいらしい。
一月の終わり、シンガポールは激しい雨が続く雨季だ。
何も雨季の亜熱帯地域にわざわざ行かなくても、とよぎらないことはなかった。しかし俺はともかく、アメリカの大学で働き始めたミッキーはあまり暇がなく、たまたまフィールドワークで熱帯地域に来ていた彼を攫えたタイミングが今で、そして近場の観光地がシンガポールだった。理由はそれだけだ。
俺は不便な旅が好きだが、不便すぎるフィールドワークで疲れた友人を、風呂も入れない狭いキャンプサイトに突っ込むほど鬼畜ではない。
一年半前に訪れたギリシャのブティックホテルを、ミッキーは気に入っていたようだった。それならばとシンガポールで俺が用意した宿は、ラッフルズホテルだ。雨の長いこの季節、この国を満喫するためには拠点選びも大切だ。
半年ぶりに見た生身のミッキーは、少々疲れがたまりすぎているように見えた。
仕事が大変かと尋ねれば、それは問題ないと首を振る。人間関係もおおむね良好らしい。アジア人に対する差別はないとは言わないが、名指しで行われるような嫌がらせは受けてはいないと言う。じゃあ飯でもまずいのか? と大雑把に訊けば、しばらく言いよどんだ後に降参したミッキーは、『家のこと』と嫌そうに吐き捨てた。
家のこと。つまり家族の話。
そういえばミッキーは、家族の話をほとんどしない。
言いたくないことならば、別段聞く必要はないと思っている。だから俺は時折通話する際には土地の話や鳥の話や、いかんともしがたい嫉妬を抱えることを承知で同僚や友人の話を尋ねたし、ミッキーは俺に旅の話を訊いた。一人で回る欧州は味気ないが、キミに見せたい場所と食わせたいものが増えるばかりだ。そう報告すれば、照れくさそうに苦笑する。彼は俺の旅の話を聞くのが好きらしく、俺は彼の仕事の話を聞くのが好きだった。
その中に、ミッキーの家族の話は微塵も滑り込んではこない。俺は何度かベネデッタとの思い出を話した気がする。今日だって雨の日は姉が張り切っていた、という話をしたばかりだ。
アラスカ滞在中、あまりにも電話に出ない俺にしびれを切らした姉は、俺が馴染みのリモンチェッロ販売店に頼んだ領収書をたどりヤルマリに行きつき、なんとそこからミッキーの連絡先を聞き出してしまった。
というわけでいかんともしがたい用事があった際は、ミッキーが苦笑いで『お姉さんから電話あったから、折り返してあげて、いますぐ』と俺の肘をコツンと叩くことがあった。
家族の問題に巻き込んでしまって申し訳ない、本当にそう思う。思うが、愛する姉と尊敬する想い人が仲良く会話している様は、なんというか、とても悪くないものだ。
俺はあまり、家族を大事にしているとは言えない。それでも姉のことはやはり愛しているし、彼女がいてくれることに感謝している。支えてもらっていると、心から実感している。
ミッキーには、彼を支える家族はいないのだろうか。
窓の外を滝のように流れる雨を眺めていた彼は、俺の視線に気がつくとバツが悪そうに苦笑した。疲れた笑い方だ。俺の好きな、何かを許してくれる時の苦笑とは少し毛色が違う。
シックな柄の絨毯の上、窓辺の一人掛けソファーにミッキーを促し、お互いに向かいあって座る。ベッドの上じゃ、俺は彼を抱きしめてしまって顔なんて見えやしないし、でかいカウチの上だとどうしても抱き込んでしまう。
話をするときはやはり、お互いに椅子に座って向かい合った方がいい。オーストラリアで、アウトドアチェアーに座り焚火を眺めながら、山ほどどうでもいい話をしていた時のように。
「話したくないことなら別に言わなくていい。どうしてもキミの口を割ってすべての秘密をむさぼりたい、なんて思っていないからね。けれどキミが誰かに吐き出したいと言うのならば、俺はぜひキミにとっての秘密を吐き出す穴になるよ。王様の耳の秘密だって守り通してみせるさ」
「ロバの耳はかわいいけどさ、あー……僕の話は、そんなに楽しい話じゃないかも」
「言いたくない? それなら――」
「うん、いや、言いたい。吐き出したい。……アンドレアに、僕の話を聞いてほしい」
この言葉は不謹慎にも、俺をひどく舞い上がらせた。
ミッキーは何かにとても悩んでいる。打ちひしがれている。疲弊して、ため息を吐きまくっても足りないと言った顔でうなだれている。それなのに彼に名指しに頼りにされたというだけで、俺は簡単に浮かれてしまった。……反省が必要な感情だ。すぐに己を諫め、ただ彼の話に耳を傾けるために口を噤んだ。
それからの数分は、正直なところ苦痛の時間だった。
ミッキーの話は確かに楽しいものではなかった。自分のことではないとは言え、彼の半生はあまりにも不憫で、そして彼を取り巻く人間はあまりにも胸糞が悪い人間ばかりだった。
俺の顔から滲み出るものがあったのだろう。滔々と雨を眺めながら口を動かしていたミッキーは、ふとこちらに視線を戻すと驚いたように目を見開き、そしていつものように苦笑した。いつもの、俺の愚行を笑って許すときの顔だ。
「……あー……そんなに怒ってくれちゃうと、ちょっと気分が良くなりすぎて、うん、よくないよ。てかこれ、全部僕の主観だから、ちょっと僕に都合のいいように話しちゃってるかもだからね」
「どれだけ主観的だろうと、勘当同然に追い出した子供に金を無心する親なんざクソだろうよ。付き合いがあるならわかる、お互いに愛があるならまだわかる。放り出したなら、もう関わるべきじゃないだろ。しかも勝手に借金の保証人にされた? 日本じゃそういう書類に本人のサインは必要ないのか?」
「いや、必要。印鑑はまあおいといて、署名は必要だよ。たぶん、昔のノートとか名札とかそういうものを見て、真似て書いたんじゃないかなぁ……僕は家を建て替えることだって知らなかったし、親父が宗教にハマってることも、母さんがアルコール依存症で治療を受けていることも、妹が結局即離婚して出戻ってることも知らなかったよ。勿論勝手に借金肩代わりされそうになってることも」
「……それは犯罪だろ。ミッキーが払う必要はない」
「僕が契約したわけじゃないから、立証できれば問題ないはずなんだけど、……その件で日本戻らなきゃいけなくなっちゃって、弁護士とか警察とか、諸々そういう手続きが必要でさー……仕事はうまく休めそうなんだけど、なんていうか……もう、そういうことに向き合わなきゃいけないのが、ただただ、しんどい」
それはそうだろう。普通に生きていれば必要のないトラブルだ。何よりミッキーは、他人との関わりをあまり好まない人間だ。
見知らぬ俺のスカウトを秒で受けた時は、人好きな男なのかと誤解した。しかし後に、臆病で傷つきやすいナイーブな男であることに気が付いた。
人間の中で生きることに向いていない。ミッキーは時折そう零す。自虐的なそのセリフはジョークではなく本心だろうし、そんな彼が家族と敵対する揉め事で行政やら弁護士やらと面談しなければならないのは、確かにとんでもないストレスだろう。
自らの離婚騒動を思い出し、胃の痛くなるような気持ちを持て余す。心が折れていたとはいえ、やはり慣れない手続きや弁護士との会話はひどく辛い作業だった。
「…………日本に帰る日は決まっているのか?」
問いかける俺に、ミッキーは深い息で応じる。
「とりあえず来月。でも、裁判とかになっちゃうとちょっとまた後で何度か帰んなきゃいけなくなるかも。もーさー、そういう予定がふんわりしててあやふやなのもしんどくてさー。やらなきゃいけない面倒な予定は、さっさと片付けちゃいたいのに、何か月も先まで降りかかるなんて最悪だ」
「どうしても、キミ本人が顔を出さないと駄目?」
「……たぶん、ちゃんと弁護士雇えばそこまで自力で頑張らなくてもいいはずだけど。そういう話も、まあ、一回帰ってからじゃないとわかんないから」
「キミが、」
「うん?」
「――キミが、憂鬱なら、隣に居るだけしかできない俺に価値があるなら、キミと共に日本に行きたい」
「…………アンドレアが? 一緒に来てくれるの?」
「そうだ。駄目か? まあ、邪魔だよな……俺は日本の法律に明るくはないし、ただ金があるだけの観光客でしかない。それでも、キミの手を握ることくらいはできる、と思うんだが」
駄目だろうか。邪魔だろうか。俺なんか、必要ないだろうか。
正直、告白をするよりも勇気が必要な一言だった。それなのにミッキーは、乾いた声で『ふふ』と笑い、俺の勇気を振り絞った提案をきれいに見事に叩き落した。
「気持ちは嬉しいけど、一人で行くよ」
「……そうか。そうだよな。だがもし金が必要ならいつでも――」
「あ、違う、ええと、本当に必要ないよっていう事じゃなくて。できれば僕だって一緒にいてほしい。本当にそう思う。でも、アンドレアが一緒に来ちゃったら、僕はあなたに頼り切って一人じゃホテルからも出たくなくなっちゃうだろうし、ものすごく迷惑をかけちゃうと思うから。嫌だよ、行きたくないよ、正直泣きそうだしたぶんちょっと泣くと思うし、喚いて駄々をこねたいよ。でも、大人だからね……僕だって、あなたと同じ大人だから。だから、一人で頑張ってきます。ちょっとくらいは頑張らないとさ、こんな風にいつもホテル取って僕を甘やかしてくれるアンドレアに甘えっぱなしになっちゃうからね」
……俺が甘やかしている、ということに、ミッキーは気づいていたのか。なんだかとても気恥ずかしい告白を聞いた気分になり、感極まって少し鼻の奥が痛くなった。
「え、うそ……アンドレア、泣いてる?」
「泣いてない。感動して鼻の奥が痛いだけだ」
「泣いてんじゃん。ちょっと、僕が泣いて慰めてもらう予定だったのに」
「二人で泣けばいいだろ。どうせ誰も見ていない。大人だって泣いていいし、甘えていいし、他人に迷惑をかけないなら喚いたっていいはずだ。ほら、ミッキー、――おいで」
少し気障すぎたかもしれない。けれど先ほど自分で言った言葉を思い出し、俺は広げた手を下げることはしなかった。
どうせ誰も見ていない。誰かに迷惑をかけないなら、どうだっていい。
少々面食らった顔をしていたミッキーは、心なしか照れたような顔で(これは俺の幻覚か妄想かもしれない)、おずおずと俺の膝の上に乗ってきた。
「……狭くない? ベッドの上の方が広くない?」
「あっちに行ったらもう離したくなくなるが、それでもいいか? このホテルのバーはシンガポールスリングが有名なんだ。薄い赤色の甘いロングカクテルだ。雨のシンガポールなら、昼からシンガポールスリングを飲んでピーナッツを食うのが良い。そう思ったんだが」
ベッドの上に上がり込んでしまえば、カクテルのことなんか忘れちまうはずだ。
そう言って笑えば、腕の中のミッキーは先ほどよりも数段明るい息を吐いて笑ってくれた。
「甘くて赤いお酒、いいね。飲みたい。……けど、そういうところって僕とアンドレアが並んで入っても大丈夫? 海外は男の二人連れに偏見がすごいでしょ」
「あー……確かに、ゲイカップルだと思われそうだ。別に俺は構わないが……」
「構うでしょ。結構有名な実業家なんじゃないの?」
「俺が有名なんじゃなくて、俺が作ったブランドが有名なだけだよ。それに、こちとら独身だ、誤解されたところで誰を裏切っているわけもない。俺はキミとシンガポールスリングを飲みながら、ピーナッツを食いたい」
ラッフルズホテルのバーの床は、ピーナッツの殻が敷き詰められていることで有名だ。食い終わった殻は、皆床につまんで落としていくのだという。
積み重ねられたしゃれたゴミの上に立って、キミと甘い酒を楽しみたい。これぞ雨の日の素晴らしい楽しみ方だ。そう口説けば、ミッキーは目を細めて俺のデコにキスを落とした。
……何だ今のはかわいいな、くそ、やはりベッドの上に誘えばよかった。俺が抱きしめる前にミッキーは『じゃあ着替えなきゃ』と椅子の上から飛び降りてしまう。
「ちょっとまともなシャツ持ってきて良かった。ラッフルズホテル予約したって聞いたから、一応ドレスコードとか大丈夫そうな服ひっつかんできたんだけどさ」
「……待て、ミッキー。俺は事前にこのホテルの名前をキミに言ったか?」
「え、聞いてないよ。アンドレアはいつも通り颯爽と空港から僕を攫ったけど、事前にベネデッタさんからリークもらってたから。ウチのが高級ラグジュアリーホテル予約してたから気をつけろって」
「…………いつの間に仲良くなっちまったんだ? また俺が嫉妬に狂う相手が出来ちまったじゃないか」
「アンドレアだってヤルマリとお酒のやり取りしてるじゃないの。知ってんだよ、なんだかんだ文通してるの」
「彼とは思いのほか酒の趣味が合ったんだ。……ミッキー、今の文脈だと俺がヤルマリと仲良くしていることにキミが嫉妬していることになるが……」
「……僕だってちょっとくらいはお酒付き合えるのにな、くらいは思ってるよ」
そんなかわいいことを言いながら視線を逸らすものだから、あまりのキュートさに俺はテーブルに崩れ落ちる羽目になった。
失態だ。今日はとことんキミを甘やかすつもりだったのに、結局俺はキミのかわいさに骨抜きにされるばかりだ。
しかもキミはとても立派で、そして強い。一人で立つからと笑う姿は少々頼りなくても、その心意気は俺が想像していたよりも格好いい、年上の男だった。
尊敬すべき彼はふと思い立ったように俺の方を向く。そしてまた頼りなさそうな、あの可愛らしい苦笑を零す。
「……さっきはかっこつけて一人でがんばるよ、なんて言っちゃったけどさ」
「うん?」
「えーと……全部終わったら、また甘やかしに迎えに来てほしい、です」
「…………勿論」
地球のどこにキミが居たって、俺は攫いに行くよ。
大真面目に口説くような真剣さで言葉を並べた俺に対し、照れたようなキミはとても嬉しそうに笑った。
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