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第12話 口付け
「初めまして……だよね。僕、漣 神璃 。貴方は?」
「……名前など、無い」
狼が抑揚のない口調で応えを返す。
よく考えたら先日まで野生の狼族だった彼に、名前などあるはずがない。
だが神璃の脳裏にふと過るものがある。
自分はもう遥か昔にも、こうして誰かに名前を付けたことがある。
名前がないと不便だよねと、そう言って。
「──そうだ。『皇司 』ってどう?」
「コウ……ジ……」
「皇 に司るって書くんだ。鬼頭っていって、鬼神に変わるための冠物を司るって意味があって、転じて『王者』っていう意味がある。どう? 意外と好きな名前なんだけど」
狼は茫然として神璃を見ていたが、やがてくすりと笑った。
「……──らないな」
「え?」
「……変わった奴だと言ったんだ」
「あ……──よく言われる」
そう言って神璃は狼とは対照的に苦く笑う。
確かに自分は変わっているだろう。時々気晴らしにゲームをするくらいで、神璃はこの研究所に入る為に、小さな頃から勉強ばかりしてきた。両親もそんな自分を心配していたように思う。いま思えば小さい頃に『天使』を見てから、この研究所に入りたいと思った。あの『天使』に会いたいと、あの生命体が何なのか自分自身の目で見て調べたいと思った。
入 ら な け れ ば い け な い よ う な 気 が し た の だ 。
(──それが)
彼に、狼に会う為。
そう思った刹那、小さな雫が心の奥底に落ちたような気がした。ゆっくりとだが確実に心の中に広がっていく波紋に、動揺しながらも酷く納得する。
皇司と声に出してその名前を呼べば、名付けたばかりだというのにとてもしっくりくる。
狼の……皇司の金の目が、神璃をじっと見つめていた。
気付けばとても近い距離に、三日月のような鋭い眼があって、瞳の中に自分の姿が映り込んだその須臾。
しっとりと合わさった唇に、ひどく懐かしくも悲しい気持ちになった。
時間にすれば短い間だったのだろう。神璃の中に欠けていたものが、ぴったりと嵌ったようなそんな気がして、心が満ち足りた気持ちになった。
初めて会った者と口付けを交わすなど、神璃の今まで生きてきた倫理感では考えられないことだった。だが皇司とはもう何度も口付けを交わしたような、もっと味わいたいようなそんな気分になるのだ。
金の目と再び視線が合う。
先程よりも熱の籠った金瞳に、神璃は顔に朱を走らせた。
居た堪れなさを隠すかのように狼から離れ、『天使』のいる部屋の前に立つ。
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