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第3話

「昨日頼んでおいた扇の修理、どうなったのよ」 「それは……要の金具に特殊な細工がされているので、少し時間がかかると昨日お伝えしていますが、お忘れでしょうか」  居丈高な口調のサビーネにルディは穏やかに答える。  だが、ルディの返事がサビーネには不満だったらしい、キッとルディを睨みつけた。 「わかってるわよ。だから、あの扇を明日の夜会に持っていきたいって言ったでしょ。なぜ早く修理させないのよ。フラウミュラーの出入りならそのくらいの融通を利かせてもいいはずじゃない」  無茶なことを、とルディは内心で大きく溜息をついた。 「サビーネ、申し訳ありませんがそれは無理なお話です。サビーネはたくさん扇をお持ちなのですから、明日は他のものにされてはいかがですか。ほら、先日お買い求めになっていた、絹に美しい絵が描かれたものとか」 「いやよ。明日は絶対あれを持っていきたいの。ルディ、さっさと修理してもらって。でなければあんたは夕食抜きにするわ」  いくらこの屋敷に出入りしている職人でも、できることとできないことがある。ことに特殊な細工がされているものであれば、職人としても杜撰なことはできないと考えるはずだ。付け焼き刃の修理など職人の名誉に関わることだし、信用にも影響する。  言いつければすぐに修理ができるなど、そんなことはあるはずがないのだが、サビーネは聞く耳を持たなかった。  夕食を抜かれたくらいで、職人に無理を強いることがなくなるのならそれでいい、とルディは考える。 「サビーネが僕の夕食を抜くなら抜いて構いません。あの扇は僕の母様のものでしたから、急がせて杜撰な仕事をされるのは避けたい……。時間がかかってもいいから、きちんと修復して元の美しい扇にしてもらいたいと思っています」  きっぱりと言うルディにサビーネは気分を害したらしい。 「うるさいわね! あんたは私の言うことを聞いていればいいのよ。いったい誰のおかげでここに住めると思っているの!」  声を荒らげる彼女の声はルディの耳には痛かった。自分はもう彼女に意見できる立場ではない。それはわかっている。だが、母の形見を蔑ろにされることは許せなかったのだ。 「気分を害してしまったらすみません。でも……」 「もういいわ! 他の人間を使いにやるから。あんたはこの先しばらく夕飯抜きよ!」  ふん、と鼻を鳴らし、サビーネは踵を返した。  彼女の背を見送りながら、ルディはサビーネを怒らせてしまった、と内心で溜息をつく。 (当分夕食抜きか……こたえるな……でも、仕方ない)  きっと他の人から見れば、ルディのバカ正直な態度に呆れたことだろう。  扇もどうせサビーネが使うものだから、間に合わせの修理でも彼女が満足すればよく、その場を取り繕って適当にあしらっておけばよかったのかもしれない。だが、両親の形見の品を雑に扱われるのは身を切られるより辛かった。  くたくたに疲れ切った身体を寝台に横たえた。  ルディの部屋は元の広い部屋ではなく、屋根裏部屋に移された。この部屋の天窓から見る夜空はとてもきれいで、ルディは目を細めてしばし星空を堪能する。 「ここが一番空に近い部屋だもんね。なんて贅沢なんだろう」  狭い上、天井も低いが、ルディにとっては極上の一室である。  こうして一日の終わりにきれいな夜空を見るのがルディの楽しみだった。  なにしろ今日も一日、グレゴール一家の我が儘に振り回されて、小間使いのようにあちこち走り回らされたのだから、身体はあちこち悲鳴を上げている。  しかも、夕食はない。この前サビーネを怒らせたせいで、夕食を抜かれてしまい、一週間経っても与えてくれることはなかった。  ときどき使用人が自分たちのパンをルディに分け与えてくれようとするのだが、ルディはそれを一切断っていた。ただでさえ使用人たちには迷惑をかけているのだ。自分のしでかしたことで、彼らにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。もしルディが使用人たちのパンをもらっていることがグレゴール叔父らに知れたら、自分だけでなく、使用人までとばっちりがいくかもしれない。それだけは避けたかった。 (みんなが僕のことを考えてくれるのはありがたい……でも、だからって甘えるわけにはいかない)  そんなことをつらつら考えていると、コンコン、とルディの部屋をノックする音が聞こえた。 「はい、どうぞ」  起き上がって返事をし、ドアを開けるとマリアがそこに立っていた。 「マリア……! どうかしたの?」  ルディはマリアを見て驚く。それもそのはずで、彼女が持っているのはサンドウィッチがのった皿と茶器だったのだ。 「ずっとお夕食を召し上がっていらっしゃらないでしょう? 夕食どころか、朝も昼もろくに食べていないんじゃありませんか?」  マリアはじっとルディの顔を見る。 「た、食べてるよ」 「嘘ですね。そんな顔色で言われても説得力がありませんよ」  そう言われて、ぐうの音も出なかった。  言葉も出ないルディにマリアは小さく息をついて口を開いた。 「強がらなくてもいいんですよ。それにしても、本当にどういうことなんでしょうね。あんな強突く張りの家族ときたら、やることが下品で下品で。――あれじゃあ、坊ちゃんが可哀想ですよ。どう考えてもサビーネ様が悪いというのに。みんなも同じ気持ちでね、コックが持っていってくれ、ってこれをね」  マリアがにっこり笑って皿をルディの目の前に掲げた。 「みんなの気持ちを受け取ってあげてくださいな」  自分のために心を砕いてくれる人たちがいることに、ルディは胸が熱くなった。思わず目頭に涙が滲む。 「さあさ、すぐ召し上がって。お腹が空いておいででしょう?」  そんなルディにマリアはそう言って、サンドウィッチと茶器ののった盆を差し出した。 「で、でも、マリア……こんなところ叔父様たちに見つかったら……!」  ルディが声を潜めながらそう言うと、彼女は小さくウインクをする。 「大丈夫ですよ。グレゴール様ご一家は今ちょうど夜会に行っていますからね。当分は帰ってきません。今のうちに召し上がってくださいまし」 「マリア……」  確かに叔父らが出かけていていないのであれば、このサンドウィッチを受け取っても彼らに知れることはなく、誰も咎められることはないだろう。夜会となると帰宅はかなり遅くなる。 「ありがとう。いただくよ。ごめんね、気を遣わせて」 「いいんですよ。まったくあの人らときたら坊ちゃんにひどいことを。自分たちだけ贅沢三昧で坊ちゃんにはこんな仕打ちをするなんて。旦那様が生きていらしたらさぞかしお嘆きになったことでしょうに」 「マリア、いけないよ。そんなことを言っちゃ」 「いえ、言わせてくださいまし。あの人たちの贅沢のせいで、この家の財産も底をついているんですから。坊ちゃんの食事を抜くのも少しでも節約したいだけなんですよ」 「それは……」  マリアの言うことをルディも薄々感じていた。父親が生きていた頃は裕福だったこの家は、叔父たちがやってきてからのたった三年で状況は変わったらしい。マリアが言うことが本当なら、最近この家でときどき古物商を見かけたのも、納得がいった。おそらく調度品を売ろうとしていたのかもしれない。  さすがに目立つものは売ってはいないようだが、もしかしたら知らない間になくなっているものもあるのだろう。

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