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無人駅にて①

ゴールデンウィーク初週、家族揃って出かける計画を立てた。 「ちゃんと準備した?」 「した」 「ティッシュとハンカチ持った?」 「リュックに入れた」 「カメラも持ってこ」 「お父さんてば、子供みたいにはしゃいじゃって」 「久しぶりのお休みやもん」 ビーズの簾に透ける居間で父が言い、台所で立ち働く母が苦笑する。練はその横に立ち、虹色の光沢帯びたしゃぼんを飛ばしながら皿を洗っていた。 ここは練が両親と暮らす団地。 冷蔵庫の扉には買い物のラインナップの他、保護者会の日時を手書きしたメモや小学校の連絡網がカラフルなマグネットで留められている。電話台の上にはコップに生けられたハルジオン。 心優しい母は、素朴で可憐な風情を湛えたこの花が好きだった。 鋭い音に振り向けば、一眼レフカメラのストラップを首に通した父が、妻子に照準を絞っていた。 「こんなとこ撮らないで」 「フィルム入ってへん」 「でも」 「お母さんはそのままで十分綺麗やて」 「うまいこと言っちゃって」 素早い手話で丸め込まれ、母が機嫌を直す。続けざまカメラを構え、軽快にシャッターを押す。丸いレンズが練を捉える。 「はいチーズ」 能天気な声と笑顔に促され、はにかみがちにVサインを作る。 「もうちょいわろて」 母は穏やかに微笑んで父と息子のやりとりを見守り、ステンレスの水切り台に皿を立てる。 練家には母が手作りしたインテリアがそこかしこに飾り付けられていた。ビーズの簾を作る時は練も手伝った。糸に玉を通す作業は楽しかった。 木製のダイニングテーブルには、練が小さい頃貼ったアニメキャラのシールが残されている。椅子は三脚。襖で仕切られた和室には川の字に布団が敷かれていた。 「お、貧乏草めっけ」 父がハルジオンにカメラを向けてシャッターを押す。エプロンの裾で手を拭き、父に寄り添った母がおっとり言葉を添える。 「練が学校帰りに摘んできたの、河原の土手にいっぱい咲いてるんですって」 「へえ~そうなんか。懐かしなあ、子供の頃うちの周りにぎょうさんあったで。今度みんなで散歩にいこか」 「なんで貧乏草っていうん?」 「折ったり摘んだりすると貧乏になるっちゅー言い伝えがあんねん」 「持ってきたらあかんかった?」 「変なこと言わないでよあなた、せっかくプレゼントしてくれたのに」 「すまん、軽率やった。気ィ悪うせんといてくれよ練」 母に叱られた父が頭を下げるも、練はまだ気にしている。 「捨ててきた方がええ?」 「もったいない!貧乏草は食べられるんやで、茹でておひたしや和え物にしてもうまいし天ぷらときたら最の高。おかんがよゥ作ってくれたわ」 「お義母さんが?知らなかった、もっと早く聞いとくんだったわ」 「せやなあ、嫁にレシピ伝授できんで天国で残念がっとるで。ヒメジオンほど臭みや苦味強ないし、練でも食べられるんちゃうかな。よし、お父さん摘んでくるわ」 「もうおそいわよ、別の日にしたら」 「まだ明るいで」 「明日は遠出するんだし。ね?」 「おかんのいうとおり、夜出歩いたら危ないで」 シャツの裾を引っ張り止めれば、父がしゃがんで視線を合わせ、練の頭をなで回す。 「練はしっかりしとるな。お父さんより目端利くし、やっぱお母さんに似たんかな」 父に褒められるのは面映ゆい。爪先を見詰めもじもじする。 父の器量は至って平凡。 野暮ったい黒縁眼鏡を掛けた面立ちは実直な印象こそ与えるものの、圧倒的に地味で垢抜けず、外見的な魅力に乏しい。対する母は団地で評判の美人で、スーパーで買い物中もしばしば客たちが振り返った。 練はといえば、これはもうあきらかに母親似。物心付いた時から「お母さんそっくりね」と言われ慣れてきた。容姿は勿論それ以外の面でも、母方の血を濃く受け継いでいる。 剽軽者で子煩悩な父と節約上手の母。そんな二人を見て育った練は、友達作りが下手で、引っ込み思案な小学生だった。 思えば幼稚園の頃から孤立気味だったが、小学校に上がってから人見知りが加速している。 原因はわかってる。 電話の後ろには商店街で貰ったカレンダーが掛かっていた。ゴールデンウィーク初週の土曜日は赤丸で囲まれ、父直筆の下手くそな絵が描き込まれている。 もくもくと煙を吐く機関車のイラストを眺め、カメラのレンズを入念に拭き、得意げに語り出す。 「明日行くとこな、明治時代に走っとった蒸気機関車展示されとるんやて。実際乗って遊べるんや」 「操縦できるん?」 「動かんけどね」 「鉄道模型もあるのよね」 「おとん撮り鉄やもんね」 「子供の頃の夢は車掌さん。練は?大人になったら何になりたい」 「金持ち」 「夢ないなー」 「うるさい」 茶化す父を叩くまねをする。母が念を押す。 「本当に鉄道博物館でいいの?他に行きたい所あるんじゃない?遊園地とか水族館とか……」 「二人が行きたいとこでええよ」 それは嘘偽りない本音だ。そもそも遠出を計画したのは両親で、練自身が遊びに行きたいとごねたわけじゃない。 「無理せんでええぞ」 「してへん」 「空中ブランコは?ぐるぐる回るの好きだったでしょ」 「幼稚園児向けやん、卒業したて」 「生意気な」 「三人揃て行けるならどこでもええ」 父と母がきょとんと顔を見合わせてから笑み崩れ、練の頭をなで回す。 「ホンマええ子やねえ」 「子供扱いせんといて」 「子供でしょ」 父は仕事が忙しく、練が起きてる時間に帰ってくることは稀。母は冷めきった夕飯にラップを掛け、残業続きの父を夜更かしして待ち侘びていた。 今回の遠出は父の家族サービスであると同時に、休みの日には家でゆっくり本を読んで過ごしたい練が両親の意志を尊重し、二人に付き合って思い出作りに行く目的も兼ねている。 練自身は然程鉄道に関心がないものの、趣味に打ち込む父の横顔を眺め、話を聞くのは好きだった。 「電車と車どっちで行こか」 「連休中は道こむでしょ、駐車場にとめられるかわかんないし」 「ほな電車で」 頭の上で父と母が相談し、練の顔が強張る。 「車がええ」 「え?」 両親の視線が集まる。 「電車は人多てごみごみしとるさかいに、ウチの車で行きたい。そっちのが人目気にせんでお喋りできるやろ」 練は嘘を吐いた。 車で行きたい理由は別にある。ショッピングモール。遊園地。電車内。人が多い場所には決まって「アレ」がいる。こないだ母と電車に乗った時も、同じ車両に居合わせた人たちに、真っ黒な「アレ」が張り付いていた。 吊り革を掴んでうたた寝するサラリーマンは老婆を背負い、ドアに凭れ携帯をいじる若者は、ずぶ濡れの女に首を絞められ。 他にも沢山いた。一杯おんぶしていた。老若男女問わず、幽霊や生霊が憑いた人が同じ車両に集まっていた。 練は母と並んで座り、終始俯いて知らんぷりしていた。 電車がトンネルに入り視界が暗む。 等間隔に光るオレンジの照明にホッとして顔を上げた瞬間、正面の窓に男の生首が映った。 辛うじて叫ぶのを堪えたのは、母がそっと手を握り、「大丈夫」と囁いてくれたから。 後日、通過駅で人身事故があったと聞いた。 電車は怖い。 バスも怖い。 人が多い所にはアレがおる、アレがでる。 小学生の練には怖いものがいっぱいあった。 付け加えるなら、人酔いもした。電車に詰め込まれた人たちのオーラが混ざり合い、ぐちゃぐちゃに濁るのに当てられ、しばしば気分が悪くなるのだ。 もちろん例外もいる。練が見かけた中では法事帰りの住職や修道女、駅前に佇む托鉢僧などがそれにあたるが、大抵の人は望まざる他者と交わり、オーラの色を汚く濁らせていく。 満員電車は特に酷い。 座れた人座れない人、押し合いへし合い揉まれる人たちの不快指数上昇に伴い、油膜が張ったドブさながら負のオーラが渦巻いて吐き気を催す。 「そういうことならに車にしよか、お楽しみは現地に着くまでとっときたいし」 「賛成。眠気覚ましにサクマドロップス持っていきましょ」 「ハンドルで手え塞がっとったら食われへんよ」 「あーんしたげる」 あっさり承諾を貰い、心の底から安堵した。 「トイレ行ってくる」 テーブルにカメラを置いて離れた父を見送り、母が手話で詫びる。 気付かなくてごめんね。 母の霊感は練ほど強くない。だからこそ霊障を受けず、日常生活を営めている。 息子に引け目を感じる母に胸が痛み、卓上のカメラをとる。 「おかん、わろてんか」 小さな手でカメラを構える。息子の意図を察した母は、いそいそ立ち位置を移動し、電話台のハルジオンが入る構図で微笑む。 シャッターを押す。フラッシュが焚かれ、世界が暗転する。 あの時あんなことさえ言わなければ、父と母はまだ生きていたかもしれないのに。 「おとん」 運転席の父は既に息絶えていた。眼鏡の弦は脆くもひしゃげ、レンズが粉々に飛び散っている。全身ガラス片にまみれ、ハンドルに突っ伏した父の横へ視線を移す。 「おかん」 助手席の母は答えない。背凭れとシートベルトに挟まれ、無造作に手足を投げ出している。 即死の父。 瀕死の母。 はたしてどちらがマシなのか、首が折れた父の顔は助手席の方を向いていた。 「練、どこ」 ごぼりと血泡を吐き、母が息を吹き返す。 「おかん、ここや」 「無事なの?」 「ちゃんと生きとる。でもおとんが」 「睦さん?嘘やだ、どうして」 母は耳が聞こえない。だからわからない。 後部座席の息子の声が届かぬまま、愛する夫の無残な死体を目にし、最悪の結論に辿り着く。 「練……」 「ここにおる。こっち見て」 擦りむいた指を懸命に動かし訴えるも、どのみち死角で見えはせず。 絶望的な沈黙の中、夫と息子の死を確信した母が、苦しい息の下から途切れ途切れに謝罪を紡ぐ。 「ごめんなさい……ごめんなさい……」 「謝らんといて」 「睦さん、練……ごめんなさい……私が……様、に、背いたせいで……」 「生きとるよ。後ろにおる」 車が横転し、地面になった天井にはドロップスがばら撒かれていた。母が缶ごとくれたのだ。 「巻き込んで……ごめん、ね……」 「おかん?」 「…………」 「寝とるん?返事して」 席が反対だったら。 自分が助手席に座っていれば、最期に顔を見せ、安心させてやることができたのに。 結局救急車は間に合わず、母は車内で息を引き取り、まだ小学生の練だけが生き残った。 葬儀の光景は上手に思い出せない。覚えているのは断片。和室に敷き詰められた座布団。白布を掛けた祭壇に並ぶ遺影と香炉。袈裟を纏った僧侶の読経。単調な木魚の音。 「家族揃って出かけた先で事故だなんてお気の毒に」 「対向車が突っ込んできたんでしょ?」 「誰が引き取るのかしら。やっぱり施設行き?可哀想に」 「だけどすごい強運よね、一人だけ全治二週間の軽傷ですむなんて」 周囲に犇めく弔問客が噂話を交わすせいか、両親不在の部屋は現実感が薄く、冷蔵庫のメモや手作りビーズの簾、電話台の枯れた花すら無機質に色褪せて見えた。 『なんで貧乏草っていうん?』 『折ったり摘んだりすると貧乏になるっちゅー言い伝えがあんねん』 あんな雑草摘んできたから、おとんとおかん死んでもうたんかな。 シャッターの音。場面転換。 「どこやねんここ」 練はただ一人、古い駅に立っていた。看板の駅名は錆に蝕まれて読めない。 周囲には青々なびく草の海が広がり、吹きさらしのホームの下に、等間隔に枕木を打ち込んだレールが伸びていた。 戸惑いがちに手と足を見下ろし、時間が現在に追い付いたことを悟る。 「けったいなとこやな」 上りと下り二車線の線路には白いペンキの剥げた跨線橋が架かり、夏空に映える入道雲が頭上を圧していた。 見た感じド田舎の無人駅といった趣で、平たい積み木を寝かせたような石造りのプラットフォームやレトロな改札機、安っぽいベンチが旧懐の情をかきたてる。 「自販機おいてへんとかサービス悪……」 老朽化した跨線橋を見上げてぼやく。何故ここにいるのか、ここに来る前はどうしてたのか思い出せない。とても悲しい事があったような……。 ガガ、ガガ。唐突に音がした。ホームの屋根を支える柱の上部、旧式のスピーカーからアナウンスが放たれる。 『‐――-発、‐----行の列車が間もなく到着します。お待ちの方は列車が止まってからご乗車ください』 性別年齢不詳な声。誰が喋ってるのか、漠然と違和感が働く。 遥か彼方に点が生じ、それが次第に大きくなり、失速した列車が滑りこんでくる。 排気音と共にスライドするドア。誰も下りてこない。興味を引かれ歩み寄り、端から端まで見て回る。 窓越しに影が見えた。 疎らに座る乗客。継ぎを当てた防災頭巾にモンペの幼女、ゴスロリ服に地雷メイクの少女、深い皺を顔に刻んだパジャマの老婆が、こちらを向いて無気力に立ち尽くす。 男がいれば女もいた。大人がいれば子供もいた。 車内に佇む者は一様に顔色が悪く存在感が希薄で、ホームに背中を向け、シートに座った人々の顔は見えない。 『もうすぐ出発します。お乗りの方はくれぐれもお忘れ物をなさいせんようご注意ください』 ドアが閉まる。滑り出す。退屈げに観察する練の目の前、車窓に映る背中が通り過ぎていく。 強烈なデジャビュ。 「おかん?」 ほっそりした撫で肩。流れる黒髪。我知らずホームを蹴って駆け出す。 後ろ姿を忘れるはずない。あれから何度夢に見て、瞼の裏に呼び起こしたか。 「ちょお待て俺や、わからんのか!」 無我夢中で足を蹴り出す、思いきり手を伸ばす。シャツの袖と裾がうるさくはためき、加速度的にスピードを上げる列車に追い縋るも引き離され、轟々と風巻く残像に喉も切れよと叫ぶ。 聾の母は前を見詰めたまま、死角に位置する息子が張り上げる大声に気付かない。 「待って」 届かない。聞こえない。行かんといて。振り向いて。 走りながら両手の指を泳がし、死別後は用いる機会に恵まれず、忘れかけた手話で呼びかける。 遅い。 鈍い。 なんで練習してこんかったねん俺のアホ、サボんなや。 縺れる手と足に苛立ちが募り、膨れ上がる鼓動に被せ、嘗て葬儀で聞いた言葉が響く。 『まだ小さいのに泣きもしないでしっかりしてるわねえ。あの子なら一人で平気よ、きっと』 列車が駅を出る。 母の姿が遠ざかる。 「ッ!」 奥歯を噛んで地面を蹴り、最後尾の車両に取り付く寸前…… 「おーい!」 でかい声が降ってきた。 跨線橋のちょうど真ん中、窓から身を乗り出した少年が両手を振っている。 すっきりした短髪、やんちゃそうに秀でた額、生気が漲る快活な表情。右手には白い数珠が輝いていた。 ほんの一瞬のよそ見が、決定的な遅れとなった。 ホームの突端に立ち尽くす練の視線の先、母を乗せた列車がみるみる遠ざかっていく。 「~~~~アイツ」 ぶん殴ったらんと気が済まん。一気に階段を駆け上り、跨線橋の中央で合流を果たす。 シャツの胸ぐらを掴み、怒鳴り飛ばす。 「お前のせいで俺は」 「戻るぜ」 練の手首を力強く掴み返し、対岸のホームに引きずっていく。 「なんで止めんねん、余計なことせんかったら会えたのに」 反対側の階段が近付く。振りほどこうとした拍子に足が滑り、視界が傾いで回る。 ―『練くんは強い子だもの、一人でも立派にやってけるわ。環さんたちの育て方がよかったのね』― ―『お葬式でも涙一粒見せず毅然として……』― 「なんで平気なのお前」 目を開ける。 理一がいた。

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