俺はアーシュのベッドで目覚めた。目覚めたということは、生きているということだ。 　失敗した。 　失望が身体中に広がる。 　そもそも、何故パトリック先輩やメリドウェン先輩の前で自殺をしようとしたりしたのか。止められたかったのか。情けない。 　パトリック先輩を投げてしまったが、怪我はしなかったろうか。 『アンタほんとヘタレだよね〜』 　アーシュの声が蘇る。 　涙が滲んで視界が歪んだ。 　俺は本当にヘタレでダメな人間だ。死ぬことすら上手く出来ない。 　何か……匂いがする。 　鼻がひくひくと動いた。 　甘い、爽やかな匂いがする。きっと花の匂いだ。 　どこかで嗅いだことがあるが、思い出せない。 　身を起こすと、ベッドの側の灯りがついていた。どういうことだろう、上掛けをかぶった身体の上に銀色の川が流れている。 「ん……」 　柔らかい人の声。低い声のトーンで男だと判った。 　俺の横に誰かが寄り添っている。 　身じろぎすると、川が急に動いた。それは、見事なまでに美しい髪の毛だった。 　薄い水色の瞳がぱっと開くと俺を見つめる。 　がばっと起き上がって、ベッドの上に正座した。 　メリドウェン先輩だ。 「だ、大丈夫か？　ロー。腕の具合はどうだ。痛むか？」 　俺は怪我した腕を曲げ伸ばししたが、痛みもなく、特に問題ないようだ。 　俺があいまいに首を縦に振ると、白い肌に色が差して嬉しくて堪らないという様に微笑む。 「よ、よかった。酷く傷ついていたから、ちゃんと動かなくなったらどうしようかと」 　別に動かなくていい。何もかも動かなくてよかった。 　心の痛みが蘇って胸を締め付ける。 　あのまま、身体中の血を床に吐き出しながら死にたかったのに。 　俺の目から涙がこぼれる。 　メリドウェン先輩の顔がますます赤くなり、それからやはり銀色の眉を顰めて咳払いをした。 　めそめそする俺を快く思っていないのだろう。 　後輩が自殺をしようとしたうえ、泣き出したりしたら、それは迷惑だろう。 　俺は目をこすった。 　見るともなしにメリドウェン先輩を見ると、喉元に飾ってある白い薔薇のピンブローチが目に留まって、匂いの正体が何であるかを思い出した。 　この匂いは、薔薇の匂いだ。 　アーシュが誰かからもらって来た、赤い薔薇の花束からした匂いだ。 　先輩はもう一度咳払いをすると、何かを思い切るように話し始めた。 「ローくん。あの……ローと呼んでいいかな？────お願いがあるんだ。 き、急な話で驚くかもしれないけど。 わたしを……ローの恋人にしてはくれないだろうか」 　何を言っているんだ、この人は。ただただ驚いている俺を、メリドウェン先輩の目がうっとりと見詰めている。 　薄い水色の瞳は波立つ暖かい水のようだ。 　俺はその表情を知っている。 　アーシュを見つめる俺の目だ。 　激しく心が痛んだ。 「入学試験でローを見てから、ずっと愛している。 　オオカミ族の君になら判るだろう？　一目で見て恋に落ちる気持ち。何度告白したいと思ったか。 　ローが傷ついているのは知っている。今はそういう事も考えられないのもわかる。でも、君が恋人と別れて自由になった今、他の者がローを手にいれたらと思うと、苦しくて頭がおかしくなりそうなんだ。 　お願いだ。どうかわたしにチャンスをくれ。 　ローを愛し、幸せにすると約束する。この通りだ」 　銀色の頭が布団について、土下座している。布団の上に髪の毛で銀色の池が出来た。 　アーシュに棄てられ、俺自身にすらいらないと言われた俺を欲しいと懇願するなんて。なんて馬鹿な人なんだ。 「お断りします」 　ぱっと頭が上がって、水色の目が見開かれる。 　美しい瞳に打ちひしがれた色が浮かんでいく。その色がオレ自身を映している様で涙がこみ上げて来た。 「俺自身ですらいらないと思う自分を、あなたにあげるわけにはいかない」 　涙が頬を伝う。 「そ、それに、俺はアーシュが戻って来たら、きっと許してしまう。あなたがもし、俺を愛しているんだとしたら……きっと辛い」 　打ちひしがれた目に強い意志が浮かぶ。 　たおやかで儚げな美しいエルフに似合わないその熱は、俺が目を逸らすことを許さなかった。 「それでも構わない。 一時間ローの恋人でいられるなら、あとは悲嘆の海の中で暮らしても構わない」 「ダメです」 「ロー」 　訴えるようにメリドウェン先輩の両手が開かれた。 　血の臭いがする。はっとして見ると、その手にはハンカチが巻かれている。 　その白い布地には血が滲んでいた。 　この人は魔法使いではなかったか？しかも、治癒や強化特化の魔法使い。 　奪い取られた包丁を思い出してはっとする。 　俺はメリドウェン先輩の手を握った。 　桜色の唇から苦痛の声が漏れる。 「ど、どうして治療しないのですか？」 　引き抜こうとする手を押さえて、結び目を解いてハンカチを取るとざっくりと切れた掌が見える。傷口は開いたままで、血が滲み出した。 　諦めたようにメリドウェン先輩が溜息をつくと、痛んでいるからだろうか、掠れた声で言う。 「魔力をぎりぎりまで使ってしまって…………器は壊れていないが、魔力が枯渇しているので、暫くは魔力が回復しないんだ」 「こ、枯渇？　器が壊れかけた？　なんで、そんなことを」 　ふいっとメリドウェン先輩の目が逸れて、きゅっと唇を噛む。 　俺を助ける為だ……この体調の良さが示している。 　申し訳なさに言葉を失う。俺を助ける為に枯渇するまで魔力を使うなんて。 　そんな俺を見て、俺が事態を推察したことを理解したのだろう。 　メリドウェン先輩が微笑む。 「愛しているんだ、ロー」 「あなたは馬鹿だ」 　俺は先輩から目を逸らすと、吐き捨てるように言った。 　馬鹿なことをしでかしたせいで、故郷を離れることになってしまった。 　アーシュに誘われるままに故郷を出てしまったが、アーシュは冷たく、ヒトや雑多な種族のいるこの国で、周りにも馴染むことが出来なかった。 　そんな俺に惚れるなんて。 　簡単に死のうとした俺を庇って、枯渇するほどの魔法を使って自分の命を顧みずに助けようとするなんて。 　本当に馬鹿だ。馬鹿すぎる。 　もう一度メリドウェン先輩の手を見る。 　血の滲むその場所をなんとかしたいと思った。 　魔力が回復すれば、きっと自分で治すことが出来るのだろう。 　──ならば。 「お、俺は魔法は使えないんです。でも、気の力は使えます。強く打ち込むと、気は乱れて、相手は動けなくなるんです。戦う時はそうやって使う。 　でも、弱く打ち込んで流してやると、乱れた気を正しくして、元気にすることが出来ます。 　ダメかもしれないと思うけど……もしかしたら、器を元気に出来るかも」 　そんな事を今更した処で何の贖罪にもならないのだろうが。……それでも。 　メリドウェン先輩の手を取るとハンカチを巻き直す。 「俺にやらせてくれますか？」 　メリドウェン先輩の手を見ながら、目線だけを上にあげた。 　そして、その顔に浮かんだ表情に息を飲んだ。 「もちろんだ」 　水色の目が歓喜の色を湛えて、灯りの中で揺れた。 　つかんでいた手が震えたのは気のせいなのだろうか。何も隠すことの出来ない白い頬が赤くなって行くのは。 　こんなことは大したことじゃない。 　なのに……どうしてそんなに嬉しそうなのか。 　俺は想いを断ち切ろうと、メリドウェン先輩の喉元を指差した。 「そのブローチはダメです。金属は気を乱すので」 「外してくれ、ロー」 　ゆっくりと手を伸ばすと、指先が震えるているのに気がついた。緊張する自分を罵りながらピンを外すと、しなやかな白い布を首の周りから外す。 　メリドウェン先輩の白鳥のように長くて白い首があらわになる。 　微かな喉仏がやはり彼は男なのだと主張していたが、その肌はどこまでも美しく、傷ひとつない。自分と同じ世界の生き物なのだとは思えなかった。 　なめらかな肌に指が触れないように気をつけていたが、震える指先が不器用にも肌に触れてしまった。すると、メリドウェン先輩の口から甘いため息が漏れた。 　オオカミ族の出来の良すぎる耳を、もぎ取ってしまいたい。 　どうしようもなく戸惑いながら視線を彷徨わせて、ベルトのバックルが金属なのに気がついた。 「このベルトも」 　メリドウェン先輩は子供のように手を開いてベルトのついた腰を晒す。外して欲しいのだと気づいて、顔が熱くなるのを感じながら、ベルトのバックルに手をかけた。 　外し方が解らずもたもたしていると細い指が押す場所を示す。 　カチリと音がするとバックルが外れて絹の腰帯が下に落ちて、前が開いた。 　打ち合わせになった衣の内側に、メリドウェン先輩は何も着ていなかった。 　雪花石膏(アラバスタ)色とはこういう肌を言うのだろう。透き通るような白い肌。胸の突起は食べ頃の熟れた桃のようだ。 　眩暈がする。 「あなたは本当に美しいんだな」 　無意識に自分の口から出た言葉にびっくりする。赤くなっていた頬が燃えるように赤くなるのを感じて、白い肌から目を逸らす。 「嬉しいよ。この身体はローのものなのだから」 　なんてことを言うんだ。ぎりっと奥歯を噛み締めた。 「俺のものであるわけがないです」 　はあとメリドウェン先輩は残念そうにため息をつく。 「他に金気のあるものは身につけていませんか？」 「さあ。どうかな？調べてくれないか？」 　誘惑するような声に、口調がぶっきらぼうになる。 「ふざけないでください」 「手が痛むのだよ。かなり切れていただろう？」 　俺は歯噛みをして、メリドウェン先輩の身体を調べた。 　ズボンは紐で止まっていたし、足は裸足だった。 　ズボンにはポケットがついていて、そこに何か入っているかもしれないと思い、服の上からポケットを探った。否応もなく腰に触れた手にメリドウェン先輩がびくんと身体を震わせ、俺の肩に頭を乗せると、短い息をはいた。 「だ、大丈夫のようですね」 　メリドウェン先輩の肩を押して身体を放すと、先輩は犬が欲しいものをせがむ時のように鼻を鳴らした。 　全身が逆撫でされたように粟立つ。この人は危険だ。 「寝てください」 　俺はぶっきらぼうに言った。 「服は？　脱がなくていいのか？」 　水色の瞳を無邪気に見開くとメリドウェン先輩が聞いて来る。 「服の上からでも大丈夫です。最初は弱くして、徐々に強くしますから、痛んだり、具合が悪くなったら言ってください。 　内側を探られるような感じがします。あと、身体が熱くなるかも」 「わかった」 　ふうと溜息をつくと、メリドウェン先輩が何かを期待するような目で見上げて来た。 「すいません。うつ伏せになっていただけますか？」 　冷静を装ってそう言った。 　メリドウェン先輩がうつ伏せになりながら舌打ちをした様な気がするけど、気のせいだよな。