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白薔薇は狼を解き放つ
わたしは舌打ちをしながらうつ伏せになった。
正面からなら、ローに抱きついてしまおうと思ったのに、作戦が台無しだ。
愛を告白して、お断りされた時はもうダメだと思ったが、断った理由は、要は自分はあなたには相応しくないという可愛らしい理由だった。
アーシュが帰って来たらという話だって、帰って来れなくすれば万事解決だ。
もちろん、一時間でもローの恋人になれたら一生悲嘆の海に沈んでもいいという気持ちは本気だが、ローが一時間わたしと褥を共にした後に、涙を流すわたしを見捨てて立ち去れるようなろくでなしでないことは重々承知している。
事実、ローのせいで枯渇した魔力を復活させようと、自分なりの精一杯で治療しようとしてくれている。
なんと優しいのだろう。
『あなたは本当に美しいんだな』
言った後に見せたあの表情。あれは思わず言ってしまったという顔だった。
もう、死ぬかと思ったよ。
妖艶にローのものだと言い放ってみたが、ベッドに倒れて悶えるところだった。
とにかく、口でなんと言おうとも、ローの態度を見る限り、またまだ攻略の余地はあると断言できる。
は。治療が始まるようだ。
例え気であっても、ローの一部がわたしの中に入って来るなんて、わくわくが止まらない。
じんわりと背中が熱くなる。
温めた蜂蜜を垂らされたようだ。
「痛くないですか?」
「大丈夫だ」
確かにちくちくする感じはあるが、痛くはない。
…………と、言うか……えーと。
ざらっとした舌で舐められているような。
「動かしますね」
ローの指が背筋をなぞる。
温かいものが指に吸い寄せられる。ぞくぞくっとした快感が背筋を這い回り、思わず声が出る。
「んっ……」
「痛いですか?」
「った……くな……い」
むしろ、めちゃくちゃ気持ちいい。身体の内側と外側を同時に熱い舌で舐められている様な感覚だ。
「少し、強くしますね」
もう一度背中に何かが垂れるような感覚。そしてまたローの指がゆっくりと背中を撫でる。
ざらりと走る衝撃。
「あっ! っんっ……」
思わず嬌声が漏れる。
びくりと身体が跳ねて、身悶えした。
「や、やめますか?」
ぱっと手が離れて、刺激が途絶える。はあと息を吐いた。
ローが狼狽えた声で尋ねる。
「いやだ」
わたしは拗ねたように答える。
「メリドウェン先輩?」
「気持ちがいいのに、何故やめてしまうのかな?」
頭を持ち上げて、ローを睨む。
ローの目が理解を示して、ゆっくりと微笑んだ。
「ああ」
頷くと、ローはわたしの背中に手をかざした。
「気が散りますから、なるべく静かにしててくださいね?」
ローが首に触れると、全身が粟立つ。ゆらゆらと揺れる手から放たれる快楽にシーツを握って耐えようとするが、意思とは関係なく、声が漏れる。
「ん……っく……あ……」
ローが腰に触れて、優しく指を叩きつけると、まるでローに穿たれたかのように身体が跳ねる。
はっきりと起き上がった身体の芯が熱くて堪らない。
……このままではイッてしまう。
そう思った時、身体の中で何かが湧くのを感じた。
「今のは?」
それに気がついたローが尋ねる。
「魔力だ」
わたしは微笑んだ。
ローがほっとした様にため息をついて、頷いて首を傾げる。
ローは本当に素晴らしい。
欲望の命じるままに起きあがると、ローに飛びついて引き寄せる。
不意をつかれたローがベッドに倒れた。
「ロー。愛している」
キスをしようとすると、視界が一転して、いつの間にかローに組み敷かれていた。
「俺なんかにキスしたら、あなたが穢れます。それに……俺、下手くそですよ。したことないし」
したことがない、だと?
驚愕に目を見開いたわたしの顔を見てローの頬が赤らむ。言う必要のない事を言ってしまい、恥じているんだろう。
なんて、なんて……可愛らしい。
そして、何より幸運だ。
あの小犬が何を考えていたにしろ、ローが雪のように清らかだと言うのは、わたしにとって幸運以外の何物でもない。
辺りの薔薇の香りが強くなる。
当たり前だ、こんなにもローを求めているんだから。
ローの鼻が微かに空気の匂いを嗅いでいる。強くなった香りに反応しているんだろう。泳いでいた目がちらりとわたしを見て、それから、見てはならないというように背けられた。
「キスして、ロー」
命令口調にローの耳がぴんと立った。背けた目がおずおずとこちらを見る。
魂を覗き込むように、その銀色の目を捉えた。
妖艶に微笑むと、ローの瞳がわたしの唇に釘付けになるのを感じた。
誘うように唇を開いて、舌を唇に這わせた。
「メリドウェンにキスしなさい。ロー」
はっきりとした口調で命令すると、ゆらっとローの頭が揺れて降りてくる。歓喜のあまり、身体が震える。
もう少しで唇が触れる──その時だった。
びくんとローの身体が震える。
驚愕と苦痛がローの顔に浮かぶ。
「っ……あっ……」
ローが頭を抱えて立ち上がる。ふらりとベッドの上から降りるとよろよろと歩いていく。
「死なないと。……もうだめだ」
ローが軋む声で叫ぶ。涙が頬を伝い、信じられないというようにこっちを見た。
「ごめんなさい。メリドウェン先輩」
ローは大きく口を開けた。
舌が宙に突き出され、剥き出しの歯が命を断とうと閉じて行く。
──間に合ったのは奇跡だ。
ローの舌を口の中に押し込み、挿し入れた指にオオカミ族独特の大きな犬歯が刺さる。
恐らく骨まで達した歯の痛みに息が止まりそうだ。
自分のものではない血の味にローの目が驚愕に見開かれる。ぶるぶると顎と歯が震えている。離したいのに、離せないのだろう。
涙を流しながらローが微かにいやいやをする。
離すものか。
例え指を食いちぎられようとも。
これは──呪いだ。
思えば腕に包丁を突き立てた時も、ローは一切躊躇わなかった。──気付くべきだった。
ローは誰かに命じられて死のうとしている。
自分の犬歯がわたしの指に突き刺さっているのに、離すことが出来ないのが証拠だ。優しく礼儀正しいローが、わたしが巻き添えになっているのに、自殺を続けれる筈がない。
「ローはね……呪われているんだ。それで死にたくなっているんだよ。大丈夫だ、ロー。愛しているよ。必ずメリーが君を助ける」
銀色の瞳が微かに揺れる。
絶望に見開かれた目。
殺してくれと言う目。
誰が諦めるものか。
怒りが身体を這い回る。
「怒るよ、ロー……君はメリーのものだ。わかるね?」
優しく言葉をかけながら、頭を巡らせる。
パトリックの声が聞こえる。
『自分の治癒すら出来なくなるなど、魔法使いとして失格だ』
枯渇さえしていなければ。
魔力があれば。
十でもある方法が一つも使えない。
助ける方法があっても助ける力がない。
呪いに対する解除の方法。
魔力のない今のわたしでも使える方法。
ギリギリと今もローの歯が指に食い込んで来ている。痛みに意識が飛びそうだ。
ローの唇の横から、血が垂れている。
もう少しでキスできたのに。
──キス。キスか。
『俺、下手くそですよ。したことないし』
はっとして、それから、わたしはにっこりと微笑んだ。
呪いに対抗する太古の魔法。
「思いついたよ、ロー」
ローの唇にゆっくりと舌をねじ込み、指を外す。
血にまみれたキスなど好みじゃないが、贅沢を言っている暇などない。
目的を果たすためには唇を重ねるだけのキスで充分足りるはずだが、失敗した時にローだけ舌噛んで死ぬのも嫌だし、なにより、役得を逃すわけにはいかない。
噛むまいとローが必死で身体を離そうとするが、押す力はそれほど強くない。体術の天才のローからすれば抵抗していないのと同じだ。
わたしは強引に舌を絡めた。
お互いの血の味のするキスは、まるで血の契約の様だ。
少しづつ、ローの身体から力が抜けて行く。
涙に濡れた目がうっとりと閉じると、唇が開いて、舌がわたしの舌に応え始めた。お互いの舌を嬲るようなキスを交わすと、ローが微かな溜息を漏らす。
すっかり力の抜けたローが、崩れ落ちるように床に転がった。
苦痛の声がローの口から放たれて、その身体が何かから身を守るように丸くなる。胎児のようにひくひくと動くその身体から、ゆらっと黒い気のようなものが立ち上がる。ぬるりと、ローから黒い何かが這い出た。ぺしょりと床に落ちたそれは、怒り狂った絶叫を放ちながらこちらに飛んで来る。
「無駄だよ」
わたしは嘲りの表情を浮かべる。
「わたしはエルフの王子だ。
エルフの王アルウィン王の一番下の王子、メリドウェン。
王子が真実の愛を示して、穢れなき者にしたキスは、太古の昔からの理によって、どんな呪いも打ち砕く」
目前で邪悪な塊が止まり、その内側にアーシュの歪んだ顔がチラチラと見えて、わたしは喜びのあまり眩暈がしそうになった。
「そして、返された呪いは術者に還る。人を二度殺す程の呪いを還されたら、お前はどうなるのかな?アーシュ」
塊は悲鳴をあげながら窓から外に出て行く。
「やれやれだ」
気絶しているローの口を袖で拭う。
舌を確かめると傷がついていたので、少し回復した魔力で治療する。
指が変だね。
じっと自分の手を見た。
凹んだり血が出たりしているが、もう魔力が無い。
まあ、明日でもなんとかなるか。
ローの横に横たわり、黒い毛で覆われた耳を愛しげに撫でた。ぴくぴくと動く耳に微笑みが浮かぶ。そして、その頭をかき抱くと目を閉じた。
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