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白薔薇は運ばれる
温かい枕が隣にある。
ゆっくりと目を開けると、目の前に美しい白い顔があった。窓からの朝の光が銀色の髪に当たって、きらきらと光を反射する川のように見える。息のかかる様な距離。銀色のまつげに彩られた瞳は閉じられている。
陶器のような滑らかな肌には一切色がない。
メリドウェン先輩……顔色が悪くないか?
もぞりと動いて下が硬いと気がついた。何故床に寝てるんだ? それに、ここは台所だ。天井を見てそう思う。
警戒心が働いて、反射的に鼻が動いた。空気の匂いに異常を感じる。くんと深く匂いを吸いこんで、その香りに慄然とする。
──血の臭いだ。
しかも、自分のものではない。
上半身を起こして、メリドウェン先輩を見る。顔の下辺りに血溜まりと、紫色に腫れ上がった両手がある。
『ローはね……呪われているんだ。それで死にたくなっているんだよ。大丈夫だ、ロー。愛しているよ。必ずメリーが君を助ける』
苦痛に歪むメリドウェン先輩の顔。
肉を噛む感触。
口の中に広がる血の味。
醜く腫れ上がった両手を見る。
お前がやった──。
息が苦しい。狂ったように心臓が動く。
『思いついたよ、ロー』
蕩けるような笑み。
甘くて柔らかい舌が血だらけの口にねじ込まれた。噛んでしまうと押し戻そうとしたが出来なかった。強引な舌が強烈な死への衝動を打ち消して、俺を子供のように無力にして行った。
絡んでくる舌はとても甘くて、舐めているうちに、最後にはそれを味わうことしか考えられなくなった。
そして、味わううちに、意識がなくなった。
あの後、何が起こったのだろう。
「せ、先輩」
肩に手を置いて軽くゆさぶる。
ぴくりと銀色のまつげが揺れて、ゆっくりと瞬きをする。水色の瞳が開いてぼんやりと俺を見た。ぱっと嬉しそうに輝いたかと思うと、痛みで顔をしかめる。
ころりと仰向けになったメリドウェン先輩は、手を持ち上げて盛大にうめいた。
「……これは酷いな。嫌な予感がする」
「大丈夫ですか?」
うーんと唸りながら、メリドウェン先輩は眉を顰めて両手をいろんな角度から見ている。血はもう既に止まっているようだが、ぱんぱんに腫れ上がった手は酷い有様だ。
「大丈夫じゃない気がするな。学園の病院に連れて行ってくれないか?」
「もちろんです」
俺はメリドウェン先輩を横抱きに抱き上げた。そんな状況なのに、先輩が嬉しそうに微笑む。
「重くはないかい? 背負っても構わないよ?」
「あなたは軽い」
外に出ると、様子を見に来たパトリック先輩がメリドウェン先輩の手を見て、顔色を変えた。
「どういうことだ!」
「怒鳴るなパトリック」
「昨日の傷ではそうはならんだろうが!」
「あの小犬がただの犬ではなかったんだ。犬なのかも怪しいな。ローに呪いをかけて殺そうとしたんだ。
呪いを返したから、その辺で動けなくなっていると思うから、捜して捕まえてくれないか?もし生きているなら事情を聞きたい」
もし……生きているなら。
アーシュは死んだのかもしれない。鈍い心の痛みを感じる。何故アーシュは俺に直接死ねと言わなかったのだろう。何故こんなに回りくどい真似をしたんだろう。
そのせいで、メリドウェン先輩はしなくてもいい怪我をした。
「ロー……それはね。
アーシュが最低で最悪の悪党だったからだよ?」
メリドウェン先輩がにこやかに微笑む。
「呪いは成就すれば跡が残らないんだ。誰がかけたかわからなくなる。でもね。ローがただ死ぬと、呪いの跡は残ったままだ。
ローのような将来有望な若者が自殺なんかしたら、当然調査されるだろうね。というか、君を愛するこのわたしが調べていただろう。
だから、アーシュはローを呪いで自殺させる必要があったんだよ。保身の為に、わたし達の前でね」
パトリック先輩が悪態をついた。
「おれたちが調査していたのに気づいていたのか?」
「たぶんね」
「調査って?」
「アーシュは素行が悪かった。災いの種というのかな。あちこちで諍いを起こして、しかも、それを楽しんでいた」
「陛下の臣下となるべき騎士の卵達を堕落させていた。許される行為ではない。風紀委員が動いていた」
パトリック先輩が険しい表情で言う。
「まあ、つまり、全部わたしのせいということだよ。」
溜息まじりにメリドウェン先輩が言う。
「アーシュを調べていて、アーシュに気取られてしまった。アーシュは逃げようとしたが、呪いをかけていたローが邪魔になり、殺そうとした。
わたしはそれを助けた。
元々は気取られたわたしのせいなのだから、気に病む必要はない」
「それは推測にすぎないだろう」
「黙れ。パトリック」
メリドウェン先輩は優しい。俺が自分を責めないように気を使ってくれているのだろう。
でも。
やっぱり、俺がダメな人間だからこんなことになってしまったとしか思えない。アーシュが悪いことをしていることも、先輩達がそれを調べていることも知らなかった。
考えるのが面倒だから、アーシュに従って、命令を聞いていた。アーシュの為という言い訳で、目を閉じ、何も考えなかった。
その結果がこれだ。
メリドウェン先輩の腫れ上がった両手を見て、息が止まる。
物凄く痛いはずなのに、弱音も吐かず、俺を責めもせずに、淡々と自分のせいだと言い放つ。
『ロー、愛している』
とてもその愛に自分が相応しい人間とは思えない。
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