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狼は忍びこむ(2)

「まだ手に力は入りませんか?痺れている?」  俯いている銀色の髪に向かって尋ねた。 「ああ」  板に固定された手が持ち上がって、ぱたりと腿の上に落ちる。  痺れたままで動かすと捻挫することがあるということで、固定されてしまったのだ。固定に使われた布の間から見える手は、ところどころ色が変わっているが、変形もしていないし、出血もしていない。 「ありがとう」  涼やかな小さな声が感謝を伝える。  俺は首を振ってベッドの脇の椅子に座った。  しばらく見ていたが俯いた顔は動くことはなくて、気詰まりな沈黙が広がる。  緊張をほぐすように視線を泳がせると、パトリック先輩が持って来た果物の籠が目に入る。籠の中には小さな果物ナイフが入っていた。  なんとなくりんごを取り出すと、ひょいと上に放り投げて捕まえた。何度か投げては受け止める。やはり俯いた顔は動かなかった。手を伸ばすとカゴの中に入っていたナイフでリンゴを剥き始める。  剥いたりんごにさくりと刃を入れると、小さく一口で食べれる大きさに切り取って、差し出した。  ぎこちなく動いた頭が差し出されたりんごをまじまじと見る。  ふるふるっと揺れた頭につられて銀の髪がさらさらと揺れる。  オレはそれをじっと見た。 「い、いらない」 「俺は果物は食べないんですが」 「あとで食べるよ」 「その手じゃ食べられませんよね?」  誰かに食べさせてもらうつもりだろうか……パトリック先輩に?  じりっと胸の辺りで何かが焦げた気がした。 「ろ……君には感謝している。  結局おあいこって事なのかな。怪我を治したお礼に器の枯渇を治して貰ったし。今回も気の力で助けて貰ったし……。  だから……もう、貸し借り無しって事で……」  また、俺の名前を呼ぶのをためらった。  動揺した指先が乱れて、さくっとナイフが親指を切る。ちくっとした痛みに指先を見ると、ぷくりと血が膨らんだ。 『ごめんね。ロー。  君の差し出してくれるものは、わたしには価値がないんだ』  まあ、そういうことなんだろう。天井を見上げて、溜息をつく。  結局……俺には何の価値もない。そんな事は前から判っているけど。  ナイフを籠に戻すとりんごを籠の隣に置いて立ち上がる。血流れ始めた指を服にこすりつけながら、頷いた。  貸し借りなし。それでいい。  病室を出ようと踵を返す。 「ま、待って」  俺は無視して扉を開こうとした。 「ロー!」  俺の名を呼ぶ声に振り返る。  大粒の涙が目からぼろぼろと涙が溢れている。  板で固定された不自由な腕でベッドから降りようともがいていた。駆け寄って無茶ことをする身体を抱き締めて、押し留めた。  抱いた身体は一回り華奢になった様だ。  病院ではちゃんと飯の世話をしないのかと苛立つ。 「ゆ、指を見せて」  肩口に押し付けられたまま、不明瞭な声が囁く。 「大丈夫です」  ぱっと顔があがって、涙で上気した美しい顔が俺の瞳を除き込んだ。  大粒の涙が零れる水色の瞳、震える唇は紅く、まるで誘うように微かに開いている。 「わたしにやらせてくれ」  何を?見惚れる頭は碌に働いていないようだ。  板で左手をつつかれて、指のことだと気付く。  頭を振りながら苦笑いを浮かべて、抱いていた手を離して立ち上がる。 「また借りが出来てしまう」 「ああ、もう……」  しゃくりあげながら板のついた手を振り回し始めた。  そんなに乱暴にしては、麻痺が切れた後、痛むのではないかと気になった。だが、俺にはそれを止める資格はない。袖が涙をごしごしとこすり、俺を見上げた。  涙声がつっかえながら話し始めた。 「わたし、エルフで……痛いの、苦手でさ。痛くて眠れないし、食欲もなくて。 父上に連絡されちゃって。叱られるんだろうとか……迎えが来てさ。国に連れ戻されることになるんだろうなって。  帰ったらもうローのこと、遠くから見ることも出来ないんだろうなって。でも、ちょっとでも見たら諦められないだろうから、その方がいいのかなとか。  解るかな。すっごい絶望的な状況だったんだよ。  わたし、末の王子で、兄上達とは歳が離れてて、この容姿だったり、うち独特の事情とかもあってね、すごく箱入りだったから、怪我とかしたことなくて、麻痺系がダメってこと知らなかったんだ。無理矢理手術しようとしたら、痛み耐性も低いってことが判ってさ。もう……最悪だったんだ。  な、なのに、ローが来て、あっという間に解決してさ。  ずるいよ……なんでそんなにカッコいいの?  忠誠とか義務でやってくれたのわかってるのに、勘違いしたいんだ。  す、少しは好きだからやってくれたんじゃないかって」  水色の目がぱちぱちと瞬きをして、目尻から涙が流れる。  目を抑えようとして、持ち上がった手の固定された板同士がぶつかって、ぱたりと手が落ちた。 「忠誠とか義務とか……よく知ってるのにね。馬鹿だな」  俯いた顔を銀の川が隠す。震える肩がどうしようもない苦しみを示していた。  その苦しみを取り除きたい。そう思う気持ちが身の内を食い荒らす。 「忠誠や……義務では足りませんか?」 「全然ね。だって……わたしじゃない人がローを助けたらどうするの?  今度はその人のとこに行くの?  わたしがローに助けられたら?ってかもう助けて貰ったよね。  もう貸し借りなしだよね。  じゃ、ここでわたしがローに助けられたら今度はわたしがローに仕えるの?ローがしてくれたみたいにさ、わたしに義務と忠誠で護って欲しい?命とか懸けて欲しい?」  何故、この人はこうも頭がいいんだろう。俺は誰の処にも行きたくない。この水色の瞳のエルフの元以外には何処も。義務も忠誠もいらない。命も。この人がおれの為に命を捨てるようなことがあったら。俺はきっと……頭がおかしくなってしまう。 「そうは思いません」  吐き出すようにそう言うと、涙目が訴えるように俺を見た。 「でも、それがローの差し出しているものなんだ。  条件のある義務や忠誠なんかいらないよ。ローを助けたのは、わたしが君を思うが故、それだけのことなんだ。そうしたからと見返りなんか求めてないし、そうだからと命を差し出されても、惨めなだけだ」  どうしたらいいんだろう。ぐるりと考えを巡らせたけど、答えは出なかった。 「俺は……あまり頭が良くない。オオカミの国の人間だし、小さい頃から修行をしていたし強いんだろうとは思うけど……それを別にしたら、従順で平凡な人間なんだろうと思います。  パトリック先輩に……あなたの事は忘れろと言われました。  あなたは俺の差し出すものには価値がないと言うし…………いつもの俺なら、もう諦めていたと思うんです。でも、俺はあなたに会いに来て、ここにいる。  それをあなたはどう思いますか?」 「勘違いしたわたしが飛び上がって喜びそうな話だよね」  しゃくりあげながら、無理に笑顔を作る。作った笑顔がくしゃっと崩れて、涙が溢れた。  その顔を見ても、俺は慰める方法を知らない。そしてそんな自分が嫌で堪らない。俺がもう少しまともだったら良かったのに。 「俺はあなたにはふさわしくない。  きっと、本当の俺を知ったら嫌いになると思う。俺はね、本当に情けない人間なんです」  俺はため息をついて、椅子に腰かけた。うなだれて話しはじめる。 「知っているかもしれないけど……オオカミ族は群れで暮らします。群れには王がいて、仲間はそれに従う。伴侶を愛しますが、それ以上に群れの主である王を愛する。  王には強い者がなります。……俺は王にはなれなかった。いや、ならなかったんです。気持ちの強さがなく、みんなに愛され、導くなんて無理だと思った。俺は他人に傅き、従う側の人間なんです。  俺の名前にはモリオウが入っているでしょう?  あれは『森の王』で王になる資格のある者に与えられる名前で、その中で一番強いものが王になり『真の王』でシンオウになる。  俺はここに来る前に『真の王』を決める戦いでわざと負けました。それはオオカミの戦士には許されないことで、恥ずべき行為だった。でも、俺はどうしても嫌だったんです。  そんな時にアーシュに学園に誘われて……。  本来、モリオウが狼の巣を出るなんてこと、許されるわけがないんです。王の親衛隊になるべき人間なので。なのに俺は巣を出る許可が出た。  きっと手を抜いたのがばれて、疎まれたんだと思います」  言葉を切った俺を、きょとんとした顔が覗き込む。 「その話のどこに、わたしをがっかりさせる要素があるの?」  俺は歯噛みをしながら言った。 「俺は王になるべきだった」  美しい眉が寄って、う〜んと頭を捻る。さらさらと銀の髪が流れた。 「普通、王様とか嫌だよね?……ここ来る前でしょ?十五歳?」 「十四でした」  ははっと軽やかな笑い声が漏れて、ぱっと顔が明るくなった。 「いやいや。無理それ。みんなローが負けて安心したんじゃないかな。十四で自分のこと判ってるの偉いよ。俺強いで王様になって無茶苦茶になるとこだよね。 その戦い終わった後、次、頑張れとか言われなかった?」 「あ……はい。その後腫れ物に触るみたいに扱われて。き、嫌われたんだと思って……」 「きっとね、次期の王として期待されてたんだよ。だからと思って慣らしで出したら、予想以上に強かったんだろうね。強さ至上主義なんだろう?ご両親は何か言わなかったの?」 「両親は……俺がすごく小さい時に死んで……俺はシンオウの養い子だったので。両親は二人ともモリオウでシンオウの友達だったんです」 「シンオウにわざと負けたの?」 「はい」 「情けないってかさ。普通だよそれ。養い親の今のシンオウ倒してとか、まだ子供じゃない。無理だよ」 「そうなんですか?」 「わたしなら嘘泣きして、そもそも試合に出ないよね」  悪戯っぽい笑顔が浮かぶ。 「悪い人ですね」  その表情に俺はつられてふふっと笑った。  子供のこの人が泣く姿を思い浮かべる。とても綺麗な子供だったに違いない。そんなこの人が泣きべそをかいたら、きっとどんな冷血漢だっていう事を聞いてしまったんだろう。 「みんなそう言うけどなんでだろうね。 ところでさ、ちゃんとお義父さんには許可とったんだよね?学園に入るって」  辛かったことを思い出して、顔がこわばる。  あっさりと許された事は辛いことだった。 「アーシュが……許可とったから行こうって」 「直接お義父さんに言わなかったの?」 「言って……ません。」 「ローたちさ、駆け落ちしたとかなってるんじゃない?  かどわかされたとか、さらわれたってなってるかも。  学費免除で手当つき。里からの仕送りなかったんでしょ?故郷からの連絡は?」 「ないです。手紙を出したけど、返事はなくて。俺、見捨てられたんだと」 「オオカミ族は仲間を大事にする一族なんだし、王には向いてなくても、一騎当千の武闘家をそう簡単に手離すわけはないと思う。絶対アーシュに騙されたんだよ」  怒気を含んだ口調だ。  微かに膨らんだ頬には赤みがさしている。  腕を組もうとして、板に気付いて苛立たしげに布団を叩く。 「……いいですね」  呟く俺に、きょとんとした澄んだ目が注がれる。 「?」 「カッコいいですね。あっと言う間に俺の悩みを解決してくれた」  俺は微笑んだ。  本当に久しぶりに心から。  みるみるうちに目の前の白い肌に色が登って真っ赤になる。  薔薇の匂いだ。鼻が動く。  それに気づいて、赤い顔がますます赤くなった。  俺が首をかしげて、黙って見ていると、もの凄く恥ずかしそうに言う。 「も、もしかして、鼻が敏感?」 「オオカミ族ですから」 「なんか匂う?」  確かめるように空気の匂いをかぐと、真っ赤な顔がうわぁと声を出す。  手の板ががつんと音を立てて額に当たった。 「薔薇の薫りがします。咲いたばかりの」 「き、気にしないでくれると嬉しいな」 「嫌な匂いではないですよ?俺は好きです」  余程恥ずかしいのか、視線が宙を彷徨って、バタバタと手の板が顔を仰ぐ。  そうすると、薔薇の香りがますます広がった。  はっとしたように、こちらを見て、ううと小さな声が口から漏れて、そうだというように目が輝く。 「そ、そう?あ、そうだ。さっきのリンゴ食べるよ」  俺はリンゴを見た。剥いたのは色が少し変わっている。俺はそのかけらを口に入れた。 「果物は食べないって」 「まずいですね。でも、腹を壊すわけじゃないです。新しいのを剥きましょう」  ナイフに手を伸ばそうとすると、温かい身体が腕の中に入って来た。膝に軽い身体が乗って、板のついた手が背中に回り、柔らかい身体が押し付けられる。 「……わたしが食べるよ」  触れそうな唇が囁く。  おずおずと触れた唇の間から、舌が俺の唇をつついた。  びっくりして微かに開いた唇の間から舌が滑り込んでリンゴを掠め取る。 「お、おいしいよ?」  しゃりっと音がなって、もぐもぐと動いた口がリンゴを飲み込んだ。小さな動物のようなその姿はとても可愛らしかった。どうしても触れたくなって真っ赤な頬に手を当てると、気持ち良さげに頬をこすりつけて来る。泣いて赤くなった目にキスを落とすと新しい涙が湧いて美しい水を湛えた目が開く。 「愛してる」  音楽のような声が俺の心を震わせる。  この人をどうしたらいいんだろう。どうしたら。  でも、手放せないことはもう心の何処かが理解していた。  どうしたって出来るわけがないだろうと叫んでいた。 「俺はあなたに惹かれている。……たぶん、もの凄く。  でも、それが愛なのかは、俺にはまだわからない。  俺はオオカミ族で、強いものに惹かれる。だから、あなたの強い気持ちに惹かれているだけなのかもしれない。  俺は今、心の底からあなたの側にいて、あなたの世話をしたいと思う。それではあなたの側にいる資格はありませんか?」 「ああ、ロー。それでいい。充分だよ。わたし、愛して貰えるように努力するから」 「努力なんてしなくていいです」  約束するように、唇を合わせる。軽い身体を抱き上げて、ベッドに乗せてその横に滑り込む。  更にキスを深めようと、細い肢体を引き寄せた。従順な身体が歓喜の溜息をつきながら寄り添った。 「メリドウェン!」  パトリック先輩がドアを大きく開けて入って来た。ベッドの上の俺たちを見て、盛大に眉間にシワが寄る。 「お前達!何を……」  俺は素早くパトリック先輩の後ろに回ると口を抑えた。 「病院ですから」 『病院で何をしている!アホがっ!』  手の中でパトリック先輩がくぐもった声でそう叫んだ。 「まあまあ、パトリック。──邪魔だから帰れ」  板を振り回しながら、あの人はからからと笑った。 『糞バカアホエロエルフが!』  モゴモゴとパトリック先輩が言うから、本気で落とそうかと一瞬思ったが、後が怖いから止めておいた。  水色の目が俺を見て蕩けるように微笑む。  その顔はとても美しかった。

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