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白薔薇は狼とキスをする(1)
「今夜は一緒にいて欲しい」
ローの手を握りしめて囁く。
何かを言いたいのに、言わなければいけない気がするのに。言葉は出てくることがなくて、ただただ、ローを見つめることしか出来なかった。
ローは愛していると言ってくれた。死なないって約束してくれた。なのに、不安で不安でしょうがない。ちょっとでも離れていたくない。
「お願いだから……一緒にいて」
思わずそう叫んでしまった。子供の駄々みたいだ。うるっと視界が歪んで涙が溢れる。
すすりあげるわたしにローは微笑んだ。
優しい指先が涙を拭って、背中を叩く。
そして、わたしの涙が止まるまでそうしていてくれた。
「パトリック先輩をなんとかしないといけませんね」
泣き声が小さくなったわたしに、ローが呟く。
はっとして見上げると、ローは大丈夫ですよというように頷いた。ローは立ち上がるとドアを開けに行く。
「終わったか」
パトリックが部屋に入って来る。
厳しい顔のパトリックがローとベッドの上のわたしを見た。
「一応聞くけどさ、陛下を諦めさせられない?」
「無理だ。王である、あのお方が望まれたことだ」
即答に泣き喚きたくなった。ローがベッドに近づいてきて、立ったままそっとわたしを引き寄せる。パトリックに泣き顔を見せるのは嫌だ。ローの腹に顔を埋めて泣き声を堪える。
ローがゆっくりとわたし頭を撫でた。
泣いている暇などないだろう。有効な情報を搾り出せ。
自分を蹴りつけて声を絞り出す。
「ローに……なにか、アドバイスは?」
ローの身体の脇からパトリックを睨みつけて質問する。
パトリックは全く表情を変えずに、剣術の指導をするかのように語り始めた。
「ルーカス陛下が本気になる前に降参しろ。メリーと破談になっても死ぬことはないだろうが、本気の陛下相手では死ぬぞ」
「メリーを失ったらオレは生きている意味がないです」
ローが声を立てて笑って言う。
「他の生徒がいる所では、メリドウェン先輩と呼べ」
そんなのどうでもいいことじゃないか!ぷんと頬を膨らませて怒りの表情を浮かべたわたしを見て、ローはにこりと笑って素直に返事をする。
「はい。パトリック先輩」
この石頭はどうしてこうかな。言ってやりたい気持ちをぐっと堪えた。今日はどうしてもローと過ごしたい。
「わたしたち、今夜はどこに行けばいいの?」
震える声でローにすがりつきながら弱々しく尋ねる。
そんなわたしを見たパトリックは表情ひとつ変えずに冷たく言う。
「メリーは寮でローは自宅だな」
「わたしたちだよ!セットで考えてくれないかな」
「セットはあり得ない。風紀が乱れる」
わたしが怒りの声をあげようとすると、ローが人差し指をきゅっとわたしの唇に押し当てて、蕩けるような笑みを浮かべる。
その顔、反則だよ……かあって頬が熱くなって息が出来なくなった。あ、発情香が出ちゃうんだけど、しょうがないよね。
漂う香りにローの微笑みがますます大きくなって、するりと頬を手のひらが包む。小犬のようにその手にわたしが頬をすり寄せると、舌打ちするパトリックを無視してローが静かな声で言う。
「パトリック先輩……メリーは俺の側にいると、いい匂いがするんです。エルフには発情香というものがあるらしい」
パトリックの厳しい顔が微かに揺れる。
「エルフの発情香は一人一人違うんですね?」
ローがわたしを見て言う。どうしてそんなことを知っているんだろうと思いながらも頷いた。ローの誘うような笑みにドキドキが止まらない。
「体臭のようなものだからね。違うし、強弱もあるよ」
「なるほど、では」
「わかった」
苦虫を噛み潰したような顔でパトリックが会話を遮る。
どこまでも失礼な男だよね。
「寮のメリーの部屋に泊まれ。特別許可を貰う。いかがわしい事は許されない。しっかりと外に漏れないようにしろ。
そして……その件は他言無用だ」
「ありがとうございます」
ローが頷いた。
え? 今の何? なんでパトリックが折れたの?
その瞬間、ローが壮絶な色気のある微笑みを浮かべて、口から心臓が出そうになった。頬から首、そして肩へと這う指先が気をまとって身体をなぞる。その快楽そのものの手に声が出そうになって、ローの身体に顔をつけて、はあと溜め息をつく。
「寮に帰るぞ」
普段どおりのパトリックの声にほっとする。
感じてる顔とか見られたら悶死するよね。
「行きましょうメリー」
「寮ではメリドウェン先輩と呼べ」
「はい。パトリック先輩」
厳しく叱咤するパトリックに素直に返事をすると、ローがわたしの手を引いて悪びれた風もなく微笑む。
パトリックの後ろをローと手を繋いで歩いた。
「抱いていきましょうか?」
ローが優しく微笑む。
「大丈夫だよ」
ぎゅっと手を握ると、ローはそっと握り返して来た。この手を失いたくない。暗い想いが心を満たして行く。
────例えば。
例えば今夜、わたしが陛下を亡き者にするチャンスはあるだろうか。ローを眠らせて。こっそり部屋を抜け出して。
パトリックはわたし達を見張るだろうか。
どきどきしながらも、その方法と手順を頭の中で組み立てて行く。一国の王の暗殺など、簡単なことではない。……けれど、ローを救う為ならば、わたしは……
「メリーは卒業したらどうするつもりなんですか?」
ローが聞いて来てどきりとする。
「俺はまだ一年あるので。もし来年も首席になれれば、手当てが出るのですが。俺と卒業したあなたが一緒の家にいたら、何か問題があると思いますか?」
じわりと視界が歪んだ。
なんてことだろう。わたしが暗殺という恐ろしい考えに捕らわれていた間、ローはわたしとの未来を思い描いていたのだ。
涙で声が震えぬように、息を整える。
「結婚してしまえば大丈夫だろうね。わたしはもう成人しているし、オオカミ族は結婚に関しては制約がないんじゃなかったかな?」
ローが嬉しそうに微笑んで頷いた。銀色の目が希望にきらきらと輝いている。
「狼は愛しあっていれば結婚は自由ですね。まあ、学校を卒業してからが自然ですけど。俺の親は十五で結婚したそうですし」
「ずいぶん早かったんだね」
「幼馴染でお互いにべた惚れだったので、子供が出来る身体になったらすぐに結婚したんだそうですよ」
ローの笑顔が少し寂しそうになる。シンオウの養い子であるということは、つまり、ローには親が居ないということだ。
思い出しているのだろうか。辛い思い出なのだろうか。
そんなことは思い出して欲しくない。
「いいなあ。幼馴染なんて。わたしも小さい頃のローが見たかった。可愛かったんだろうね」
「あなたの小さい頃もさぞかし可愛かったんでしょうね。泣き真似が得意だったんでしょう?」
「嫌なこと覚えてるんだね」
ぷんと膨れてローを見ると、ローが笑う。それは一番最初、ローに一目惚れした時に見た、くったくのない笑顔だった。
ああ、なんて素敵なんだろう。
「今も手当ては出てますし、この件が落ち着いたら、俺の借りている所に来ませんか?
すぐにはダメでも、あなたが卒業したら……とか。
贅沢はさせてやれないけど、来年も首席になれば手当ても出るし……頑張りますから、俺が卒業するまで学園都市で待っていて欲しい」
ひゅっとローが息を吸った。微笑みが消えて、真面目で真剣な表情が浮かぶ。
「それで────結婚しなければ一緒にいられないなら、結婚してくれませんか?」
「うん」
胸がいっぱいになる。
涙がぽろぽろこぼれて来て、足元がよく見えない。
「泣かないでメリー」
ローがわたしを引き寄せる。温かい唇がこめかみにキスをした。
「怖いことを考えていたんだ。でも、ローはその間、わたしのことを考えてくれたんだね」
「怖いこと?何を考えていたんですか?」
「わたしがなんとか出来ないかって。例え誰かを傷つけても、もし、ローが助かるなら……」
わたしの意図に気付いたのだろう。ローが息を詰めて、それから吐き出した。何かを考えるように視線が泳いで、それからゆっくりと話し始めた。
「ねえ、メリー。パトリック先輩の言うとおり、降参することだって出来るんです。これは誰かの命をかけた戦いではなくて、ただの腕試しなんですから。
これがあなたの命のかかっている事ならば、俺は決して引かないが、今回は違う。
俺が力を示せなければ、あなたの父上は許してはくれないかもしれないけれど、それで俺の気持ちは変わったりしない。引き離される事があっても、俺はメリーのものだし、メリーは俺のものでしょう?」
「うん……」
「あなたがどこに連れ去られても、俺はメリーを探してそこに行きます。
──ほら、この間だって、あなたの病室は変わっていたのに、いつの間にか俺はそこにいたでしょう?」
「うん」
「メリー?」
ローは優しい。
ローは自分を情けないと思っているけど、それは違う。強大な力を持ちながら、驕ることも、人を見下すこともなく、争いよりも人を愛する事を望むロー。
呑気に花の匂いをかぐ狼。花を守る為には戦うだろう。自分が傷ついても、戦う相手を傷つけぬように、花を傷つけぬように。
それが……ローなんだ。
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