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白薔薇は狼を茨で繋ぐ(2)
ローの身体からは見た事のない赤い色の気が立ち上がっていた。開いた口が地を揺るがすような叫び声をあげる。
「ロー?」
ローの身体がぶるぶると震えている。
「ロー!」
ばたばた手を振ってみるけど、ローは気付かない。
髪の毛が逆立って行く。耳が王の方に向かってぴんと立った。むき出しの歯、銀色の目が間違いようもない憎しみに見開かれている。道着の中でむくむくとローの身体が膨れ上がって行く。
震えるローの指が身体から道着をひきはがした。
晒された腕や身体があっと言う間に黒と銀の毛に覆われていく。
怖い
あんなローは見た事がない。あんなに怒るなんて。どうして。
ローの目から涙が零れた。
姿が変わってもどんなに怒っていてもローはローなんだ。わたしを思って、泣いている。きっと、わたしが死んでしまったと思っているんだ。
側にいかなきゃ。
走り出そうとしたわたしの腕をパトリックがつかむ。
「正気をなくしている。うかつに近づくな」
「でも!」
「お前を手にかけたら、あのオオカミは二度と元には戻らんぞ」
「言われたくないよ!そんな風にしたのはルーカス王だろ。なんであんな酷い事を! ちょっとよろけて触っただけじゃないか!」
「それだけではない──死にたがっているんだ。陛下は呪われた剣に守られた存在で──剣を壊さねば死ねない」
心の中で悪態をつく。
部屋を鏡で覗いた時のパトリックの顔を思い出した。陛下の姿絵に向かって微笑していた。
恋慕。
岩山のように険しいこの男が、陛下を見て微笑んでいた。それはきっと本物の恋なのだろう。愛し、愛されて、幸福だったに違いない。秘密の恋。それを奪われた二人は絶望の淵に立たされた。王は耐えることができなかったのだ。
前ならばわたしは笑ったに違いない。
だが、ローを得て真実でもって愛し愛される喜びを知った今、それを失うことを恐れる気持ちは痛いほどよくわかる。
ローが四つんばいになって唸りながら陛下に飛びかかって行く。ふさりとしたものが見えた。
尻尾が生えている。
どれだけの怒りや悲しみでそんなことになるんだ。
「考えろ」
考えろ?
「オオカミを救ってくれ……頼む」
頼まれなくたって救うけど。王を救ってくれとは頼まないわけだ。
「ルーカス王のことは知らないよ」
「わかっている」
ばらばらと頭の中の本をめくっていく。何かないのか。この上なく冷徹にすべてを分析していく。
王をわたしが殺すのはどうだ?
ローを瀕死にするのは?
ルーカス王を殺す前にこちらがやられるだろうな。
わたしが目の前で死んだら、ローの暴走はひどくなるだろう。
あまり賢くない方法を削除し、有用で有効な方法を考える。
その間にもローはルーカス王を追い詰めて行く。
肉体の損傷を全く無視して執拗に攻撃している。ああ、気を使いすぎてる。その戦い方に、ぞくりと背中に戦慄が走った。
早く何か考えないと。
ローが真っ直ぐに剣をつかむ。ぐいっとつかんだ手から鮮血が筋をなして腕をしたたり落ちる。
ローは楽しそうに嗤っていた。
銀色に光って見える程の気が腕に集中する。
何をするつもりなんだ。
ぐずりと剣が唸ってばらばらと砕けていく。最後に剣が弾け飛んだ。
「ルル!」
パトリックが絶望の叫び声を上げる。ゆらりと細い身体が傾いだ。よろけてはいるが、王はまだ立っていた。剣が砕けても、まだ生きている。
まだ出来ることがあるかもしれない。その為にはローを早く引き離さなくては。
ローが陛下を空中に投げて思い切り蹴飛ばした。
パトリックが剣を抜こうとするのを押さえる。
ああ、パトリックなんかに触らなければこんなことには。自分が触れる事の出来ないパトリックにわたしが触れた事が、王の絶望を確かなものにしたんだろう。
気持ちはわかる、けど。
わたしだって、ローが誰かに触って……カチリと頭の中で何かがはまる音がして、なるほどと心の中でうなづく。
だが、しかし。
他に方法はないかと頭を巡らせる。
陛下に近づいたローが手にまた極大の気を溜めて鎧に当てた。鎧が崩れ落ちて、王が悲鳴をあげる。ローがその顔に平手打ちを食らわせた。
事態に気づいた護衛が近づこうとしているけど、ローに気圧されて近づくことも出来ないようだ。その中には黒騎士のガレスもいた。黒騎士ガレスでさえも抑えてしまうなんて。
兄様も詠唱すらできない。
ありとあらゆる攻撃をローが抑えている。どれだけの気を使っているんだ。その時、一瞬ローの中の気が膨れ上がった。
ちょっと、それ……。
気がふっと弱くなって、ローが陛下の首を絞めはじめた。
今、自殺しようとしたよね。
陛下を殺して自分も死ぬつもりなんだ。
ああ、もうやるしかない。
「避けるなよ、パトリック。終わったら陛下に向かって走れ。絶対守るんだ」
返事を聞いている暇はない。手を上げると詠唱を始める。
やはり、攻撃でなければ大丈夫なのか。
ローはオオカミだから、音には敏感な筈だ。
空中で大きな音が鳴る。
うつろな目をしたローがこちらを見た。陛下の顔が紫色になってる。ああ、どうか気付いてくれますように。
パトリックの顔をつかむとキスをした。
ローの手から陛下が地面に落ちる。
「走れ!」
パトリックがまっすぐに陛下の元に走っていく。
大きな唸り声を上げて、ローが空中を飛んで目の前まで飛んで来た。低い姿勢の身体は黒と銀の毛に覆われて、荒い息を吐いている。血がその毛に絡み付いてあちこちで固まり、腕は大量の気の放出でうろこ状に皮膚が割れていた。痛ましい姿に涙が滲む。
狂気に光る銀色の目がきょろきょろと動いている。パトリックを探しているんだ。陛下の側に立つパトリックを認めたローが、唸り声をあげて立ち上がるとまた腕が光るほどの気を集めはじめる。
止めたくなる声を抑えて、ローをターゲットすると捕縛の呪文を唱え始める。今のローを少しでも抑える為には、一番強い呪文を使わなければいけない。
それはモンスターに使う魔法だ。
愛する人を化け物と同列にして、捕らえなければいけないなんて。泣き声を出しそうになる自分を抑えて詠唱を続ける。
気弾がパトリックに向かって飛んだ。避けられない一撃を剣を構えたパトリックが弾いている。
詠唱が終わった。
「ロー」
ローが狂った瞳でわたしを見る。ぱちんと指を鳴らした。
地面からいばらが飛び出してローに絡みついた。いばらはローを麻痺させ、痛みを与えるだろう。こんなにぼろぼろなローを更に痛めつけないといけないなんて。涙で目が霞む。
ローの目が呆然と、それから裏切りを悟って憎しみに歪む。ローがいばらを毟りとり始めた。
「こロシてやる」
ローの唇が憎しみの言葉を吐く。痛みに喘ぐ指先がわたしの首に伸びて来た。逃げもせずにその指を受け止める。
睨み付ける瞳がゆらりと揺れる。
ああ、ローは完全に狂っているわけじゃない。そこにいるよね、いるんだね?
「ねえ、ロー。約束を覚えている?」
挑むようにローを見る。
わたしたちの愛がもし本物でなければ、わたしたちは殺しあわなければいけない。約束したとおりに、狂ったローを殺すのはわたしでなければならないのだ。
「やくソく」
ローがくぐもった声で言う。
「そうだよ」
ローの目に混乱の色が浮かぶ。
思い出してよロー。約束したよね?わたしを信じると言った。
どんなに信じられないような時でも、わたしを信じるって。
それが二人のためならって。
そういってローはわたしを愛しげに見たよね?
「しンじる」
かちかちと歯を鳴らしながらローがうめくように言う。覚えていてくれたんだ。安堵に心が震える。
「そうだ、ロー。わたしを信じると言ったね。パトリックなんかとキスしなくちゃいけなくてすっごく気持ち悪いんだ」
「ろ、ロバ」
手の力が緩んで、ローがおぼつかない声で言う。銀色の瞳が何度も瞬きした。
「本当にロバとキスしたほうがましだったって証明されたよ」
涙が溢れてしゃくりあげた。
「ローがキスしてくれなきゃ吐くからね」
ローの目からも涙が零れ落ちた。首をつかんでいた指から力が抜けていく。爛々と輝いていた目が柔らかくなって、いつもの溶けた銀のような色が浮かんだ。
黒と銀の毛が身体中から抜けて行く。
「メリー」
ローが囁いて腕を差し伸べて来た。ぼろぼろの腕に飛び込んで、キスをする。甘い吐息がローが元に戻ったと教えてくれた。
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