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白薔薇は狼を茨で繋ぐ(3)

 ああ、もう大丈夫なんだ。  涙がどんどん溢れてくる。 「あなたが死んだと思って」 「死んでないよ。ちゃんと防御した。何かあった時の為に注意はしていて、攻撃に反応して立ち上がる防御魔法をかけておいたんだ」  ぐすぐす泣きながらローに説明する。ローの身体を撫でながら大きな怪我がないかを探した。 「いいんです。そんな痛みはどうでも。あなたは?怪我は?」  わき腹にぬるっとした感触があってはっとした。血が大量に流れ出してる。 「わたしは大丈夫だ。それより、この傷は」  これはいけないと直感でわかった。手足から血が引いていく。 「剣を砕いたときにかけらが刺さった。抜けたと思うんですが」  背中を見て、背中からも大量の出血があるのがわかった。 「抜けている。でもひどい出血だ」  どんどん地面に血溜りが出来ていく。  どうしよう。今のローにこの出血は耐えられない。大量の気を使い、肉体を変化させたローにほとんど力は残っていない。  時の魔法を使おう。  大きな魔法を使った後で、余力がないのはわかっている。  でも……これは駄目だと頭の中で冷静な自分が告げた。一刻の猶予もないのだと。時を巻き戻し、血液を体内に戻し、傷を塞ぐ。それしかない。  ローをターゲットして詠唱を始めるとローの耳がぴんと立つ。  微かに微笑んだローがキスをしてきた。  ゆっくりと絡んだ舌に、言葉を絡め取られる。 「ロー!」  叫ぶわたしに、ローが柔らかく微笑みかける。 「それを使ってはダメだ」  ローの身体が揺れている、立っているのが辛いのだろう。 「一度なら使える!」  言い募るわたしにローは頭を振る。振った拍子に身体が傾いでそのままその場に崩れ落ちた。ローの身体に取りすがって青ざめた顔を撫でた。 「さっき大きな魔法をつかった。昨日の夜は沢山。完全に魔力が回復していないでしょう?」  囁く声にはためらいもなくこの上なく冷静で、それが不安を大きくする。  まさか、そんなわけないよね。 「でも……」 「俺はあなたがいないと狂ってしまうようだ。あの獣はあなたがいないと生きていけないから、死ぬまで暴れ続けることになる」  わたしもだよ、わたしだって生きていけない。ローがいなくてどうやって生きて行けばいいんだ。  咳をしたローの口の端から血が流れる。  ローが溜息をついた。  どんどんローは弱って行ってる。  どうすればいいんだ。誰か教えてくれ。  涙が溢れてローの顔に落ちる。  離れて魔法を使おうとするのに、ローの指がしっかりと顔をつかんでそれを止める。  ひどく静かな力のない声でローが呟く。 「メリー。俺が助かってもあなたが死ぬんじゃ意味がない。俺はどうも死にかけているみたいだし。あなたがいなくなった俺はとても危険だ。このままにしておいてくれませんか?」 「いやだ」  どうしてそんな悲しいことを言うんだ。  認めれるわけがないだろう。ずっと一緒だって言ったじゃないか、死なないって約束したのに。  ローの蕩けるような銀色の目が優しくわたしをじっと見る。 「愛しています」 「助けさせてくれ」  血を吐くような思いで叫ぶ。どうして助けさせてくれないんだ。  こんなに弱っているのに、どうしてローの指はわたしを離さないんだ。  ローがゆっくり首を振った。 「だめです」  ため息まじりの声が呟く。  ああ、いやだ。ローが死んじゃう。死んじゃうよ。 「いやだ。いやだよ、ロー」  誰か誰か誰でもいいから。ローを助けて。助けさせて。  どんどん時間が経っていく。巻き戻せる時間は限られているのに。  渾身の力で動こうとしているのに、ローの指は動かない。  どうしてわたしはこんなにひ弱なんだ。 「メリーを止めてください」  捕まれたままで目を上げると、パトリックに抱きかかえられた王の姿が見えた。ローの指が緩んで、ぽとりと身体の上に落ちる。  顔には色がもうない。  目を閉じたローはぴくりとも動かなかった。  倒れた身体から滲み出す血がわたしの服を濡らして行く。  まだ間に合う。まだ間に合うはずだ。間に合わせてみせる。  立ち上がって詠唱をはじめようとするわたしを父上がつかむ。 「離してください!」  腕を振り払う。 「メリドウェン」  戒める父上に構わず詠唱を始めようとする。 「間に合わない」  ルーカス王がパトリックの腕の中で言う。 「そなたでは間に合わない」 「間に合わせてみせる」 「間に合ったとしてもそなたが死ぬ。そしてオオカミは後を追う。意味がない」 「わたしは死なない。ローも。死なないと約束したんだ」 「そなたでは間に合わんと言ったまでだ」  厳然とした王の言葉に、それが真実なのだと悟った。その場でへたり込み、目をつぶった真っ青なローの顔を覗き込む。  わたしではローを助けることが出来ない。  絶望に叫びそうになった目の端に黒いものが動く。  黒い衣に黒いマントの男が王とパトリックの足元に跪いた。 「お呼びですか、我が君」 「遅いぞ、エドワード」 「申し訳ありません」  エドワードと呼ばれた男が頭を上げると、黄色い鷹のような目がなんの感情もなしにわたしたちを眺める。 「どう見る?」 「絶望的ですが」 「お前の力を余すことなく使うことを許す」 「王をお守りする力を残さずに、ですか」 「わたしがパトリックに抱かれている意味を察しているのだろう」 「おめでとうございます」 「我が命ずる。オオカミを救え」 「御意」  ふらりと男が立ち上がって、わたしの肩に触れる。 「メリドウェン様、あなたの中の気をいただいてもよろしいですか?オオカミから気を受け取っておいでですね?」  ローの気。愛しあった夜の記憶が鮮やかに脳裏に浮かぶ。ローの指先から流れる快楽の波。あれがまだわたしを離れずにいるというのか。その想いとしてわたしを離れずにいるのか。 「なんでも使えるものがあったら使ってくれ」  ローが助かるならなんでもいい。命も魔力もいらない。 「痛みますよ」 「構わない」  魔方陣がわたしの周りに浮かぶ。  皮膚に縫いこまれた何かを剥がすような痛み。悲鳴をあげそうな痛みを唇をかんで堪えた。自分の体から何かがすうっと抜けていく。  それはエドワード殿の指の先に吸われてくるくると銀色の小さな玉になった。 「とても少ないですが。これを増幅します」  銀色の玉の周りに魔方陣が浮かび、詠唱と共に大きくなる。大きくなった銀色の玉をエドワード殿がローの胸に置くとぎゅっと打ちこんだ。  ローの体が大きく跳ねる。 「これで少しだけは持つでしょう」  蝋のように白かったローの顔色が少しだけよくなった気がする。  助かるのか。心に灯りが灯る。  エドワード殿がローの体に触れて頷く。 「私達もなにか、助力出来ることがあれば」  学園長のマーカラム先生が医療師のボールス師を連れて近づいて来た。 「助かります。メリドウェン様に時の魔法を使っていただきたいのですが、魔力の供給や増幅の出来る方はおりますか?」 「わたくしが供給いたしましょう」  マーカラム師が進み出る。 「わたしが祝福を与えよう」  父上が涙目のわたしを見下ろす。 「済まなかった、メリドウェン」  父上の魔法が体を包む。祝福──魔力の時間ごとの回復の魔法だ。 「ありがとうございます。父上」 「お前の愛を素直に認めることの出来なかった父を許せ」  頷くわたしに父上の腕が伸びる。立たせた私を軽く抱きしめるとすぐに離した。 「始めてください。メリドウェン様。決して無理はしないで。この血が戻るほどの時間で構いませんので。そこからは私が治療を行います。ボールス様もお手伝いいただけますか?」  ボールス師が頷く。 「お互い魔力を使いすぎぬように致しましょう。何一つ取りこぼさぬことが肝要です」  エドワードが静かにわたしを見る。魔力に頼りすぎるなと諭されているんだ。わたし達は砦なのだ。戦う者を守り救う砦でなければならないのだ。  頷くと立ち上がり息を吸い込むと詠唱をはじめた。  この幸運を逃すつもりはない。必ず助ける。助けてみせる。  ぐるぐると広がる魔法陣。  魔力が急激に吸われるのを感じる。父上の祝福だけでは足りないかもしれない。チ、チ、チと器の底が沸きだすものを吸って底をさらう。  その時、魔力が注ぎ入れられるのを感じた。マーカラム先生だ。  心の中で感謝しながら詠唱を続ける。  時間が巻き戻っていく。  足元に溜まった血が徐々に小さくなる。  半分。三分の一。四分の一。 「もうよろしいです」  エドワード殿の声に詠唱を止める。  ふさがっていない傷口からまた血が溢れ出した。ローの体に手をかざしたエドワード殿が音の高低を発すると指を鳴らした。  陛下の魔法はこの人が?  矢継ぎ早に魔法がかけられていく。その度にローの出血は治まっていった。 「体力の回復をお願いします。ボールス殿」  最後の魔法を唱え終わると、エドワードが立ち上がる。 「お任せください」  今度はボールス師が魔法を詠唱しはじめた。ローはぴくりとも動かない。目は閉じたままで顔色も悪い。  ダメなのか? 「傷は治療しましたが、気が失われすぎているので、簡単には目を覚まさないでしょう。まだ安全とは言えません」  エドワード殿が静かに言う。 「増幅することはできないのですか?」 「増幅は掛け算ですから。元になる部分が一ではいかんともしがたい」 「どうにか……」 「先日、魔力の枯渇を経験されたと伺っておりますが、今の状況はそれに似ています。本来、オオカミ族は頑強で、自然の治癒力も大きい種族ですが、先ほどの戦いで大量の気を放出しすぎました。  先ほどいただいた気の力が呼び水となれば、回復は早いと思うのですが……回復し始めるまでには時間がかかるということです」

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