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狼と白薔薇は支度する(4)
ネルがこれを失うことを恐れた理由も、他の者との演奏を拒んだ理由も納得できる。フェアロスは何故これほどのものを捨てることが出来たのだろう。
それほどまでに兄の犯した過ちが彼を追い詰めていたのだろうか。
それとも……メリーがそうさせたのだろうか。
ざわりと心が揺れ動く。
これほどの音楽をネルとの間に生み出すことの出来るフェアロスが……ありえないと解っていても、身の内の獣が嫉妬の声を上げるのを止める事は出来なかった。
「ろ?」
腕に力をこめすぎていたと気がついて、はっとして腕を緩める。
メリーが身を起こして俺の顔をのぞきこんだ。さらりと銀色の髪が俺の上に流れて、美しい顔がにこりと無邪気に微笑った。
愛しさとメリーを失いたくないという不安が身の内を這い回る。
柑橘の香りのする舌が、ぺろりと俺の唇を舐めた。
メリーが、実はすべてを知っているのではないかと思うのは、こういう時だ。
弱々しく微笑む俺の唇を、柔らかい舌が何度も舐める。その度に少しづつ開く唇を割って、じれったそうに舌が中に入り込んで俺の口の中と頭を掻き回す。
息を吸い込むと、少し濃くなったメリーの発情香がする。
その香りが嫉妬に狂う心をゆっくりと宥めていく。
「メリー……」
離れた唇の間から、恋人の名前を囁く。
首を傾げたメリーが花が綻ぶように微笑んだ。
気付いているのだ。
メリーが俺の気持ちに反応することに。
だとすれば、俺からしか飯を食わないことも、他の誰にもなつかないことも…………それらすべては。
────俺が望んでいることなのだ。
俺はなんて醜いのか。
だが…………どうすれば良いというのか。
俺にはわからない。
俺がメリーを愛すれば愛するほど、盲目であればあるほど、メリーは俺に応え縛られていく。
だがそうだとして、何が出来るだろう。俺がメリーを愛さずにいることなど出来るはずがないのだ。
そしてまた、メリーがそれを許すわけがない。
幼く、剥き出しになったメリーは本能でことさら俺に執着している。
そして、俺はそれを受け入れ……喜んでいるのだ。
ネルとフェアロスの音楽が完全に調和するように、俺とメリーもまた結ばれた存在だ。それを否定出来るものはいない───俺が許さない。
最後の旋律が終わって、辺りは静まり返った。
メリーの唇を味わいながら、耳に神経を集中する。
嘆くネルと詫びるフェアロスの柔らかい声。
「ロー様が……私を自由にしてくださったのです。
もう兄に縛られることはないのだと」
「だったら何故、戻ってきてくれなかったの?」
「簡単にあなたを捨てた自分を許すことは出来ないと思ったのです。
私は地位を捨て、あなたを捨てた。何も持たぬこの身があなたにふさわしいとは……」
「あ、愛しているんだよ?ねえ?フェアロスを愛しているんだ」
「私は、メリドウェン様とロー様にお使えする召使で……」
「私はメリドウェンの兄で、この国の四番目の王子だよ。だからどうだというの?」
「あなたには……」
「じゃあ誰が相応しいの?相応しければその人に私をあげるの?」
フェアロスが怒りに息を詰める。次いで聞こえる衣擦れの音と濃厚なキスの濡れた音。荒くなった息の下からフェアロスが気持ちを吐き出した。
「私は……いつも不安で……私達は幼馴染で……あなたは内気な人だから……楽師長になったのも、ネルが私の恋人であるが故だと。自分の実力ではない気がして。
共鳴も……ネルはその気になれば他の人とも共鳴出来るのに、私はすることが出来なかった。共鳴はあなたの力なのだと思うと……」
「出来ると言っても、メリーや母上とでしょう?
フェアロスの家は元々軍人の家系で奏者はいないのだし。
兄弟や親と出来るのとでは意味が違うとは思わないの?
そ、それに……許せるわけがないでしょ?ふ、フィーは私のものだ。他の誰かと共鳴なんて!」
「……ネルを失ったら、どうせ楽器を演奏することなど出来なくなる。私の音楽はすべてネルに繋がっていて……そう思ったら、何かも急にどうでもいいことのように思えた。
メリドウェン様がああなって……兄上のせいだという気持ちもあったけれど、諦めるにはいい機会だと思えた」
「メリドウェンの方がいいということ?」
「何を……」
「メリーは私よりもずっとずっと綺麗だ。ああなってはいても美しさは損なわれるものではないでしょう?
わ、私はこんな白っぽい髪だし、目の色だって、母上みたいに綺麗な緑色でもないし、綺麗な黄緑でもなくて……ぼんやりした緑色だし。
口下手で、いつもおどおどしていて……誰かの影に隠れてばかりで。
王家のひ、昼行灯って呼ばれてるって知ってるんだ」
「誰がそんな酷い事を!」
「武芸はからっきしだし、魔術もふるわなかった。
共鳴だって結局はフェアロスという相手がいるからこその評価だし、解呪だって、メリーの魔法に比べれば汎用性がないしね。
本当にそうなんだと思うよ。だから、フィーが……帰って来たメリーのことを思って、世話をしたいと思っても仕方がないのかも……
で、でも、メリーにはローがいる。結婚もするんだし。
も、もしかしたらフィーは傷ついてるかもしれないとか、そ、そしたら慰めさせてくれるかもしれないなとか」
ネルがすすり泣く声がする。
「私もあなたもエルフなのだから、メリドウェン様の中の炎の妖精を愛するのは仕方のないことだとはわかるね?」
「うん」
「四つのエレメントで構成されていた種族の一角が失われたことはエルフを打ちのめした。だから、他のエレメントの中に炎の妖精の影が幽霊のように現れる度に、私達はそれを溺愛する。それは習慣であって、私達の間にあるものとは全く違うものだ」
「わかっている。わかっているよ。私だってメリーの為ならば何でもしてあげたいと思うもの」
「私達は幼い頃から一緒で……離れた事がなかった。
だからこそ……私はあなたから離れる事が出来たのだと思う。
────ネルに触れられない日々が、こんなに心を蝕むものだとは」
「フィー」
「あなたは昼間の月のような人だ。
白く儚く、美しい。よく見ていなければ見逃してしまうような、でも、見た者の心にはいつまでも残るような……そんなネルはいつでも私だけのものだった。だから……簡単に投げ捨ててしまったのだろうと思う。
貴方のこの白い髪も、淡い翡翠色の瞳も、その柔らかい微笑みも。
失われれば恋しくて仕方がなかった。
許しを請うことは許されるのだろうか。
ネルは優しいから…………」
「そうしてくれなければ、許さない。
どれだけ私が泣いたと思っているの?」
「少しだけだと言ってくれ。ネルに泣かれるのは……とても辛い」
「もういいからキスをして……」
ひくひくと耳を動かすと恋人達の睦み合う声を遮断した。
動いた耳にメリーがはむっと噛みついてびくっとする。
聴くことに集中してメリーがすねてしまったのか。
メリーの腰を抱き寄せて腹に息を吹きかける。
くねくねと動くメリーを抱き寄せてほっとした。
この人は俺のものだ。
それでいい。
** ** **
フロドが明日の準備の為に部屋を訪れた。ぴゅっとオレの後ろに隠れたメリーを見てにこやかに笑う。
わきわきと動く手を見て、メリーが口を山のような形にして俺の顔を見る。うるうると潤んだ瞳を見下ろして、ふうと溜め息をついた。
たすけてくれないの?目で訴えて来ているメリーに応えたいのは山々だが、しかし、明日を完璧なものにする準備なのだと目をキラキラさせて力説する義兄は、きっと許してくれないだろう。
「メリーはこんな風だからね、お婿さんになっても、お嫁さんになってもいい様に、準備はある程度してあったんだよ」
俺とメリーの場合にはお嫁さんということか。
裳裾引くというのがぴったりだった白地に水色と銀の豪華な刺繍と、沢山の宝石を散りばめた衣装を思い出す。
透けるように薄いヴェールに星のティアラをつけ、呪いの解けた美しい宝剣を腰に帯びたメリーは星のように美しく、本当にこの人が俺のものでよいのかと不安になるほどだった。
「メリーは本当に決まりごとや儀式が嫌いだから、絶対あの衣装は無駄になるんだと思っていたけど、母上大勝利って感じだよね」
けらけらと笑いながら、細い紐でフロドは自分の衣の袖をたすきで縛り上げた。気合の入った姿にメリーがますます怯えて、腰を落として海老のような姿になっている。触れたらそのまま後ろに跳び退って行くのではないだろうか。
「メリーはローの膝の上に座ったらいいんじゃないかな?」
そんなメリーを見て、朗らかにフロドは微笑んだ。自ら椅子に手を伸ばし、それを手伝うフェアロスと引き出して、座るように促す。
促されるままに座ると、メリーが素早くオレの上に横に座った。
ぷるぷると震える肩を抱き寄せると俺をまたいで身体を密着させると、肩に顔を埋める。
「メリー。怖い事なんかないだろう?」
宥めるように言いながら、フロドが俺の髪を一房すくうと素早く動かしている。
「ほらほら、三つ編み。かわいいね」
端をリボンで結ぶとひょこひょこと動かしている。
俺の髪で何をしているのかと思うが、メリーがそれを大人しく見ているのでじっとしていた。
「ローの髪もつやつやではりがあって、手触りいいよね~へえ。オオカミ族っていうのはこういう毛並みなんだね。エルフとは全然違うんだね。うん、ちょうどいいくせがついてて編みやすいや!」
うきうきした調子で言うと、また俺の髪をすくって編んでいる。
髪フェチはメリー限定なのかと思っていたのだが、違うのか。
もう一つ三つ編みが出来て、フロドがそれを振る。
……これは……頭が三つ編みだらけになるのだろうか?
別に気にはしないが────
カジッと耳元で音がした。
「う、うわっわわわ~~~~!」
フロドが叫ぶ。
「や、やめて!メリー!」
はっとして視線を泳がせるとメリーがフロドの手に噛みついていた。
………ああ、俺に触ったので怒ったのか。動くものにもよく反応するし。
妙に冷静に判断してしまうのは体術師としての性なんだろう。
「いった、いった、いった!ぎりぎりしてる!ぎりぎりしてる!」
フロドが痛みのあまりに手を振ろうとしている。
メリーが膝から落ちたら怪我をするかもしれない。
とっさに片手でメリーの腰を、もう片手でフロドの手首を押さえた。
「やああ~!何押さえてるの?食いちぎられるって!」
メリーの目を見ると、とてつもなく反抗的な目をしている。
真っ白な歯がフロドの指に噛み付いて、時々左右にぎりぎりと食いしばっている。
これは痛いだろう。
この三日、沢山の人がやって来て、俺もメリーも緊張した。
これで最後だというのはメリーにはわからない。
無理をさせすぎたのだ。ふうと俺は溜め息をついた。
「メリー?」
問いかけるとびくっとしたメリーの目に涙が浮かぶ。
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