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狼と白薔薇は結婚する(4)
ガルムに拳が届く瞬間……メリーの発情香が消えた。
とっさに後ろに下がる。大きく息を吸って、それから咳き込んだ。
思考が鮮明になって、自分がしたことが恐ろしくなった。
俺はガルムを傷つけようとした。殴りかかり、打ちすえて、メリーを奪おうとしたのだ。
俺はどうしてこうなのか。自己嫌悪で一杯になる。
「エルフである我々も発情香を感じることが出来るから、メリーが何をしたかわかっているよ」
静かにガルムが言った。
震えながら痛みでいっぱいの目をあげると、ガルムが微笑んでメリーを開放した。
メリーが俺に抱きついて泣き声をあげる。
「ろ、ろ……」
メリーが口ごもって、いらだたしげに涙を零す。また口を開いて言葉を押し出そうとして閉じた。メリーが俺の手をつかんで手のひらを頬に当ててすりすりとこすりつける。零れる涙が俺の手を濡らした。
「メリー?」
声をかけると、メリーがまた何かを言おうとして、口を閉じた。
くやしそうに歪んだ唇から泣き声が漏れた。
「あやまっているのですか?ごめんなさい?」
ん、んっとメリーが頷く。
「俺が悪いんです。あなたに気を流してしまったから」
メリーの目が泳いだ。理解出来ないのだ。
ぽろりとまた涙が零れた。
そして、メリーは理解できぬことを悲しいと感じている。
ぎゅうとメリーを抱きしめて、ゆらゆらと揺らした。
「俺は怒ってない。怒ってなんかいませんよ……ね?」
メリーがくすんくすんと泣きながら腕を腰に回してくる。
甘えるように首に押し付けられた唇に軽くキスを落とすと、ほおと周りから溜め息が聞こえた。メリーの涙でいっぱいの瞳がじっと俺を見て、励ますように微笑んだ俺にへにょりと微笑む。
「音楽を鳴らせ」
妖精王が手を打ち鳴らして、妃に近寄ると手を差し出した。
礼をして踊り出す二人に場の雰囲気が和む。
「君達も一曲踊るといい」
ガルムが俺達をフロアに押し出す。
音楽が流れ出すと、メリーが蝶のようにくるりと回る。
音楽や踊りはメリーの記憶ではなく、体に染み付いたものなのだろうか。メリーは軽やかに踊ってみせた。
俺はエルフ達の踊りには詳しくなかったが、繰り返しの動作であることは見て取れたので、ぎこちないながらも皆に動きを合わせることが出来た。
まだ目のふちの赤いメリーと俺はくるくるとフロアを回る。
あどけない微笑みを浮かべるメリーを見て、難しい顔をしていられる者がいるだろうか。
俺は微笑んでいた。そして、そんな俺を見たメリーが心からの笑みを浮かべる。音楽が止まるとメリーが腕の中に飛び込んできた。久しぶりに思い切り動いたせいか、息が少しあがっている。
鼻の頭に浮かんだ汗を指で拭うと、メリーが嬉しそうに声を立てて笑った。
ぱらぱらと叩かれた手は割れるような拍手と歓声になった。
俺はメリーばかり見ていたから、いつの間にか周りの踊りが止まっていたことに気付かなかった。
びっくりしたメリーがぴょんと俺に飛びついてくる。
戸惑って周りを見回すと、兄弟達が大丈夫というように微笑んでいる。
ネルがフェアロスの手を取って軽くお辞儀をした。
そうすればいいのかと、メリーの手をとってお辞儀をする。
メリーが自然にお辞儀をして、それからまた俺に抱きつく。
メリーがキスをしようと顔を近づけて来た。
応えようとして唇を近づけた瞬間、ぐうと大きくメリーの腹が鳴る。
メリーが腹を抑えて悲しそうな顔をした。
「お腹が空いたんですね?」
こくこくと頷くメリーを抱き上げると、周りからほうと溜め息が漏れる。
フェアロスが合図をしたのか、席に戻ると手際良くこんがりと焼けたパイが出てくる。
俺が作ったパイはどうやら成功したようで、薔薇の形に切った飾りがつやつやと輝いていた。
まだ温かいそれはなんとも言えないバターと果物の良い匂いがする。
メリーがそれを見て、目をきらきらと輝かせた。
渡されたナイフで切り分けて、皿に乗せるとあーんと口を開けたメリーに食べさせてやる。
さくりと噛んだメリーがもぐもぐとパイを噛んで飲み込むと、頬を押さえてうっとりとした表情を浮かべた。
「おいしいですか?」
うんうんと頷くメリーがまた口を開ける。
一切れをすっかり食べてしまうと、メリーはテーブルに置いてある桃を指差した。
用意された木のまな板とナイフで桃の皮を剥いて一口大に切って、豪華で華奢なゴブレットに入れて、発泡している甘いりんご酒を注いだ。ぷくぷくと泡立つ酒の中から桃を銀のフォークで取り出すと、メリーの口の中に入れてやる。
噛んだ瞬間に果汁がメリーの口から垂れて来た。
おっとと思って口元を舐めると、咳払いが聞こえて、フェアロスがネルと踊りながら怖い顔でこっちを見ていた。
肩をすくめて誤魔化すように微笑む。
メリーが口を開けるので、また桃を口に入れてやった。
果汁がまた垂れる。
布を探そうとした俺の顔をメリーが両手ではさんでにっこりと笑う。
そういうことかと思ってくすくすと笑いながらメリーの口元を舐めると、メリーがそのままキスをして来る。
熱くなりすぎてはいけないのだろうが、俺達は新婚なのだし。
自分にいい聞かせながら、メリーの唇を味わった。
双子達がやって来て、テーブルのパイを見て何かうずうずしている。
「ね、これさ。一切れ貰っていい?」
「俺の作ったものだから、料理長のものよりはおいしくないと思いますが」
「いや、なんか美味しそうな気配がするよね」
「するよね」
気配とは?と思ったがよだれを垂らさんばかりの二人の姿にどうぞと勧める。二人はうきうきとしながら皿にパイを乗せて手づかみで口に運ぶ。
立ち食いに手づかみとは……そんなにがっつかなくてもいいと思うのだが……。
もぐと口にパイを入れた二人が顔を見合わせて頷く。
「「おいしい!」」
二人はがつがつとパイを食べて、残りのパイを持って行っていいかと聞いた。メリーは桃を食べて腹がいっぱいになったようで、俺の腕の中でぬくぬくとしていた。
「メリーはもう腹がいっぱいのようですから……どうぞ」
「「ありがとう」」
二人はうきうきとしながらパイを持って行った。
それを目ざとく見つけたフロドがパイを貰って口に入れると、何かものすごくうるうるとした目でこちらを見た。
その後もあちらこちらで感嘆の声が上がる。
パイの皿がいつの間にか王の所にまで回っていてびっくりした。
一口食べた王が震えながら、王妃にそれを手渡した。
ぱくりと食べた王妃が、ピキンと固まると誰かを呼ぶ。
飛ぶようにやって来た料理長が残っていたパイを口に入れて、そのかけらを皿に落とした。
料理長が俺達の方にやって来て、頭を下げる。
「あ、あのロー様……あのパイはわたしのレシピではありませんね?」
大体同じに作ったのだが、メリーには栄養が必要だと考えてオオカミ族の菓子に使っているクリームを中に入れたのだ。
「ああ、メリーが元気になるようにと思って……エルフは子供の生まれない卵なら食べられると聞いたので、煮た果物にカスタードクリームを混ぜたのです」
「かすたあど?」
「卵と砂糖を混ぜて……」
俺が説明すると、料理長がこくこくと頷く。
「あなたのレシピに勝手なことをしてすいませんでした。
ええと……叱られましたか?」
「いえ!わたしを含め、皆様おいしさにうっとりしてしまいました。
パイの生地も完璧な仕上がりで、ロー様は本当に腕が良くていらっしゃる。そ、それで……王妃様が是非あのパイのレシピを伺うようにと」
「そうですか。それはよかった。
王都の料理人ならまだ卵を持っているかと思いますよ?
俺が食べる為なのですが、万が一エルフの方々の口に入ってもいいようにと、そういうものを取り寄せているようです」
「そうですか!それは良い!今からでも作って欲しいとのことでしたので、失礼させていただきます!」
頭を深々と下げた料理長が、わたわたと部屋から出て行く。
くすくすと笑いながら腕の中のメリーを見ると、メリーがオレを見上げていた。微かに染まった頬と、色を含んだ瞳にどきりとする。
断ち切られたとはいえ、先ほど流した気が残っているのだろう。
桃をつけたりんご酒も気に入ってすすっていたようだし。
そして、俺はメリーの誘惑に従いたくなっていた。
多少の混乱はあっても、結婚式は無事に終わり、エルフ達は喜んでいるようだ。
オオカミ族の結婚はそれは騒がしいもので、いつの間にか半裸になった二人が堂々と部屋を出て行くとか、我慢しきれなくなった片割れが相手をかついで閨に連れ込むだとかは序の口で、さっきのメリーではないけれど、その場でことに夢中になってしまい、げらげらと笑う親類がついたてを持ってきてやるなどということも日常茶飯事だった。
だがしかし、ここはエルフの国なのだし、この人達はオオカミではない。
────例えば……そっとメリーを連れて、ここを出て行くことは許されるだろうか。
メリーの真の名を聞くまでは、ここにいるべきなのだろうとは思う。
だが、それよりも……目の前の目的よりも、メリーを抱いて連れ去ってしまいたいと思う俺は、愚かなのだろうか。
「メリー……」
もう少しで終わりますよ?そう呟こうとしたが、言葉は出て来なかった。
言葉を持たないメリーはいつもそうするように、目だけで想いをぶつけてくる。
『愛しているよ。わたしのオオカミ』
囁く声が聞こえる気がして、胸が一杯になった。
細い身体を抱き締め、満足げにくーんと鳴く声と、咲いたばかりの薔薇の香りを吸い込む。
「俺も……俺も愛している。俺の白い薔薇」
メリーの顔を覗き込んで、そっと人差し指を唇に当てた。
ぱっと明るく顔を輝かせて、メリーが両手で口を押さえる。
メリーの手を引いて、静かに広間を出た。俺達を見た者がいたかもしれないが、その誰も俺達を止めなかった。
広間を出ると、メリーを抱き上げる。胸をくっつけて、子供のように抱くと、メリーが肩に顔を乗せて溜め息をついた。
微笑みが口に浮かぶと、メリーがぽおっとしたように俺を見た。
キスをせがんで頭を傾けると、せわしない唇が重なってくる。
メリーを味わっていると、腰に熱が溜まってくる。
メリーが密着した身体を揺らして色めいた声をあげた。
悪戯の共犯者のように微笑み合うと、その場を離れようとした。
「ロー」
重い声に足を止めて振り向くと、そこにいたのは妖精王だった。
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