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【番外編】小さな狼
Twitterでの、もしうちの子が○○だったらのリクエストで書いた掌編です。
お題は『もし、ローが赤ちゃんになったら』
舞台は本編後、ヤミ国との大戦を終え、王の座を退いたローとの学園都市での生活の中での話です。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ただいまぁああ」
バンと開いた扉の向こう。いつもいい匂いがしているのに、今日は何も匂いがしない。
あれ、ローが晩御飯の支度をしないで出かけるなんて……書き置きがあるかと、テーブルの上を見るけどなにもない。
「ロー?」
きょろりと視線を巡らせると、その先でもぞりと何かが動いた。床の上に、何か桃のようなものが落ちている。いや、違う、桃じゃない。あれは……尻だ。桃よりは明らかに大きい、だが、大人のものではない、子供でも。もっと小さいのだ。どうみても赤ん坊の尻。裸の赤ちゃんが床に寝ている。
慌てて近づくと、ローの服がちょっと先に落ちている。くしゃくしゃになったその服はまるで蛇の抜け殻のように上下が縦に並んでいた。その服はエプロンをつけたままだ。一体何がどうなっているんだ。
「ロー?」
もう少し大きい声で呼んでみる。
赤ちゃんがぴくっと動いた。黒い耳がぴんと立って、それがローとそっくりだということに気がつく。黒髪の毛がくるくるとうつぶせの顔を覆っている。その柔らかそうな質感はローによく似ていた。ころりとその身体が転がって、眠そうな顔がこちらを向く。ぷくぷくとした両手がふわりと持ち上がった。
「ん」
んってなんだ。
「んっ、んっ」
バタバタと両手が動く。これは……だっこして欲しいのか?おそるおそる近づくと、こぼれそうに大きい瞳がローと同じ銀色だと気がついた。
「んっ!」
焦れたように手が伸ばされる。どうしていいかわからず、裸の背中に手を差し入れると、小さな身体がぎゅっと抱きついて来る。首にすりすりと顔がこすりつけられて、満足気に息を吐いた。裸の身体はどこからどこまでも柔らかくて、そして案外重たい。裸では心もとないと床に膝をつくと、ローの服を頭からかぶせてやる。黒髪の頭が見えて、ぴくぴくと耳が動く。頭がすっかり出てしまうと、赤ん坊がきゃっきゃっと笑って飛びついて来た。
一体どういうことなんだろう。赤ん坊を抱いてうろうろと部屋の中を歩き回る。ローの姿はどこにも見えない。まさか、隠し子を残して……いやいや、ローに限ってそんなことがあるはずが。そうは思うけれど、じわじわと不安が広がっていく。
「だっ」
腕の中の赤ん坊がいきなりそう叫んだかと思うと、わたしの両頬をばしんと挟んだ。
「ひゃあ」
のけ反ろうとしたけれど、赤ん坊にあるまじき力で頬をがっしりとつかまれて動けない。
「なに?なんだ」
ぐぐぐぐっと力がこもって、不機嫌そうな赤ん坊の顔を見る。ぶう。つばが顔にかかって瞬きした。あっけにとられていると、赤ん坊の顔がちかづいてきてぶちゅうと濡れた唇が唇に重なる。
「な、な、な、」
はくはくと赤ん坊の口が動いて下唇に吸いつく。ちゅうちゅうと下唇を吸われて、その力にびっくりした。
「ん、んんっ」
しゅぽんと唇を離すと下唇がじんじんした。赤ん坊がうええと泣き出す。
「な、泣かないで」
抱きしめると今度は頬にはくはくと吸いついて来る。顔を赤ん坊に向けると、また下唇に吸いついて来た。ちゅうちゅうと必死で吸いついている。これはきっとお腹が空いているのに違いない。けれど、当然乳が出るわけはない。唇が痛いんだけど、その必死な姿に胸がきゅうんとする。やがて、乳が出ないとあきらめた赤ん坊が舌で唇を押し出した。銀色の目に涙がうるうると盛り上がって、ふえ、ふえとかわいい唇が泣き声を放つ。
「ああ……」
おろおろと台所に戻り、何はともあれ、赤ん坊にはミルクなのだろうと壺からカップに牛乳を入れると魔法で人肌に温める。漂うミルクの香りに泣き声がますます大きくなった。椅子に座って、赤ん坊の口にカップをあてるとくんくんと匂いを嗅ぎ、温かなミルクが唇に触れるとずるずると牛乳をすすり始めた。ぐいぐいと鼻先を押しつけるようにミルクを飲むとぷはあと息を吐く。うくうくとミルクを飲み干して、最後にげふうとげっぷをした。
「かわいい」
めちゃくちゃ可愛い。涙を浮かべるきょろりとした銀色の目にドキドキする。赤ちゃんの頃のローはこんな風だっただろうか。ミルクの匂いのする身体がすがりついて来て、ぎゅっと抱きしめて確信した。じりじりと感じるこの気の力。この感覚には覚えがあった。
この子はローだ。
もう十日ほど赤ん坊の世話をしている。帰って来ないローと、自分の器が揺るがないことで、やはりこの子はローなのだと思う。だあと抱きついて来るローはとてもかわいいけれど、不安でもある。このままローが元に戻らなかったらどうしよう。
私は教師の職があるから、ローを養育するのに問題はない。けれど、ローはわたしと契約で結ばれていて、その命はわたしと共にある。その年の差を考えれば、この小さなローの寿命は短いものになるだろう。考えたくはないが、このまま養育して行くことになれば、わたしはローの親になる。そしてこのローがわたしに恋をするとは考えられない。
いや、考えてはいけない気がした。
ローが他の誰かに恋をするところを見ていられるのか?自分の問いかける声がして、激しく心が痛む。
日に日にあのローに近づいていくこの子が、他の誰かを……ローの初恋であるアーシュを見ていた時のような瞳で見染めたとして。わたしを見る時の蕩けるような瞳で見おろしたとして。わたしは正気でいることが出来るだろうか。わたしの愛の揺らぎはローを殺すというのに。
そして、何より……わたしはこのローのことも愛しているけれど、あのロー……誰よりも強くて鍛え上げられた肉体を持ちながら、愛に殉じ、たやすく自分の命をなげうつ黒いオオカミのことを溺れるほどに愛していた。ああ、あのローが恋しい。
ぐすりと鼻をすすりあげて、寝ているローの黒い髪をそっと撫でる。くるくるの巻き毛にぴんとした耳、ミルクの匂いのするふんわりとした身体。とてもかわいい小さなロー。赤ん坊は一人で眠るものだ。ベビーベッドは用意してある。いけないと思うのに、ローを自分のベッドの中に入れるのをやめられない。そのぬくもりはローそのものだ。そして、それこそがわたしを苦しめる。想いはぐるぐると巡って、ローの温もりに慣れ切った身体は、結局、小さなローをわたし達のベッドの中に入れてしまうのだ。
そっとベッドから出ると、窓から月を見上げた。
今日は満月だ。
小さなローを起こしてはいけないから……声をひそめてぐすぐすと泣きながら月を眺める。
どれぐらいそうしていただろうか。
ぐいと髪を引っ張られてびっくりした。
ぶんと振り向いた瞬間に赤ん坊の身体が宙に浮く。ひゅんと飛んだ身体がバランスをとるように伸びて、伸びきれずに丸まった。でんと尻が床について、ごろんと縦に転がる。ごんと派手な音がして、ローの額が床にぶつかった。手の力が強すぎて、自分の身体を持ちあげてしまったのか。
慌てて駆け寄ると、うう、ううと唸りながら小さな手が額をさすっている。
「ロー!」
小さなローの顔をのぞきこむと、ローがひょこりと顔をあげてわたしの瞳を見返す。赤くなった額を見ていると、うるりと潤んだ大きな銀色の目がじいっとわたしの顔を見た。
ぷくぷくとした手が持ち上がって、わたしの涙の流れた跡を指先が撫でる。
「ないない。ないない」
泣いているわたしに気がついて、慰めに来たのだと悟った。
ああ、このローもわたしを愛しているのだ。
「ないない、だね」
袖で涙を拭い、ローを抱き寄せてそっと揺らす。
「めー」
肩口で囁かれた言葉。ローがわたしを呼んでくれた。ぐいっと髪が引かれて、べちょりと濡れた唇が重なる。
「ロー……愛しているよ」
泣いてはいけないのに、涙がこぼれる。ローの小さな手が何度も頬を撫でた。
「ないない、ないない」
「うん、ごめんね」
ぐいとまた髪を引かれて、断ち切るように頭をふる。うまく笑えないけれど精いっぱいの微笑みを浮かべてローを見た。ローがその顔を、ただじっと見ていた。ローを揺らしながら、涙声で歌う。恋をした金糸雀の歌は小さなローの好きな子守唄だ。だんだんに小さな身体が重たくなって、くてりと力が抜ける。
そっとローをベッドに戻すと、その手が握った髪の毛をそっと抜いた。その力はやはり強い。
机の引き出しを開けると、大きなハサミを取り出した。
銀色の髪を指ですく。ふざけるわたしを追い回してこの髪をくしけずったローを思い出した。
『あなたの髪は流れる川のように美しい』
そう囁いて、ローはそっとこの髪にキスをした。何度も繰り返された思い出に涙がまたこぼれる。
こんなことをしてどうなるものでもない。けれど、わたしがローの親として生きるなら、きっと小さなローにはこの長い髪はよくないだろう。
すすんと息を吸って、ハサミを持ちあげる。
指先に力を入れようとした瞬間、あたりを何かが揺るがした。ぶわっと空気が膨れる。耳をつんざいたのは、聞き覚えのある咆哮だった。
はっとして振り向くと、ベッドの上の小さな身体が四つん這いになっていた。小さな身体の瞳がらんらんと光っている。大きく開いた口が、今の叫びがローのものだと告げていた。
あっと思った瞬間に手の中のハサミがはじけ飛んで壁に刺さる。
はらりと銀色の髪の毛の一房が宙に舞った。
「ああ、メリー……なんでこんなことを」
幻聴? 触れる体温に視線を巡らせる。
裸のローが触れんばかりの近くに立っていた。その手にはわたしの髪が握られている。
「ロー?」
「誰があなたを泣かせたんですか?」
ぎりりと音を立てて奥歯を噛むとローがわたしを引き寄せた。その腕の力強さに言葉が出なくなる。むせび泣いて唇を重ねると、戸惑いながらもローがそれに応じた。
「ああ、ああ、ロー帰って来たんだね。愛しいオオカミ」
***
小さくなっていた間のことを、ローはあまり覚えていなかった。
「始終温かくて、守られていて、幸せだった。けれど……どこか寂しかった。どこかに行かなければならないような気がしていて……」
「それは、きっとわたしが悲しんでいたからだ。赤ん坊は親の心に敏感だというし」
「あなたは俺の親ではないでしょう。だが、俺はあなたの気持ちには絶対に敏感だと思います」
うんと頷くとローはわたしを抱きしめた。
「ローはとてもいい子で、可愛かったんだよ」
そう囁いてぽろりと涙を流した。
ローがその涙を唇ですくいとる。
「でも、わたしが溺れるほどに愛しているのは、このローなんだ」
「わかります。俺もそうだったから」
「ローに会えて嬉しいよ。本当に嬉しい」
「俺も戻って来れて嬉しいです」
ローの素肌に手を触れると、熱い肌が震える。服を引きはがす指に従いながら、心のどこかであの赤ん坊をもっと見ていたかったと思う。戻ると分かっていればきっと楽しむことが出来ただろう……しかし、わたしはそれを口には出来ない。ローもまた、幼くなったわたしのことを思い出すのだろう。きっとこんな風に。
ローの舌がわたしに触れると意識が快楽に溺れる。同じ快楽にローを沈めながら、どんなローも愛しているし、ローもまたどんなわたしも愛しているのだろうと思う。
満月の白く輝く月がわたし達を照らしていた。
ローをわたしの元に返してくれたのはあの月なのだろうか。
それは誰も知らないことなのだけれど。
おわり
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