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Say
「ねぇねぇ!どこにする!」
ドサッ、と机の上に何冊もの旅行雑誌やらを置いてそう勢い良く言う明 。椿生 はそんな目をキラキラさせてこちらを見る明を目にしてまたか、とでも言うかのように笑っていた。俺はその勢いの良さにビクッとしてスマホを見ていた視線を明に移す。
「びっ、くりしたぁ」
「ねぇ!早く決めようよ!」
「わかったから身を乗り出すな」
椿生に窘 められた明はぷくっと頬を膨らませながら大人しく座り直す。その仕草が幼い子供みたいでちょっと面白かった。
「ちょっと、何笑ってるの」
「あ、ごめん」
「海かプールなぁ。ホテルは安いとこ探さないとな」
「最悪ラブホでいいじゃん!」
「バカか」
「えー!なんで!」
「ビジネスホテルって言う選択肢は無いの?」
「あ、そっか」
「明へんたーい」
「は?なんでよ!」
「わかったからもうちょい静かにしてくれ」
俺と明のじゃれ合いを呆れた顔で見る椿生。それに笑っていると俺のスマホから着信音が鳴った。
「誰?」
「愛 」
明にそう返事をして通話ボタンを押す。もしもし、と言えば機械越しに愛の声が聞こえた。
「もしもし、真白 ?急に電話してごめんね」
「ううん、大丈夫。どうした?」
「……、いや、声聴きたいなぁって思っただけ」
「?そっか」
「……真白、今どこにいるの?」
「椿生ん家」
「ん。そっか」
「愛?」
「ん?」
「大丈夫か?」
「はは、どうしたの急に」
「いや、何か……」
「大丈夫だよ」
心配しないで。そう言った愛の声は何だかいつもと違った。何とも言えない不安が静かな水面のようにひっそりと冷たく暗く存在感を出す。
「そっ、か」
煮え切らないままそう返した俺に目の前に座っている明がねぇねぇ、と手招く。それに首を傾げれば、
「愛くんも誘おうよ!」
そう言って机の上に広がった雑誌達を指差した。隣に座っていた椿生を見れば横に置いてあるベッドに片手で頬杖をつきながらこちらを見て頷いている。
「愛、」
「ん?なに?」
「一緒に泊まりで海とか行かない?」
「え?」
「あ、いや!椿生と明も一緒なんだけど!」
「いいよ」
「え、あ、ほんと!?」
「うん。いつ?」
「いや、えっと、まだ場所も日にちも決まってないんだけど」
「そっか。海がいい?」
「えっと、海かプールで迷ってた」
「海かプールね……。ちょっと待ってて」
後で掛け直す、そう言った愛は電話を切った。
通話の終了を知らせる画面を見つめて、怒涛の展開に追いつかない頭を必死で整理させる。
え、俺、愛と旅行するの……?ほんとに……?え、泊まるの?愛と?え、、愛と、一緒に?
次第に理解していく思考に頬が熱くなる。まさかあんなにあっさり了承されるなんて思わなかった。やばい、何か緊張して──
「シロ、愛くんなんだって?」
明の言葉にハッとする。二人を見れば僅かに首を傾げてこちらの返事を待っていた。
「あ、ちょっと待っててって」
「予定の確認?」
「わかんないけど、一緒に行くとは言ってた」
「そっか!じゃあ場所とか決めちゃわないとね」
「そうだな。日にちは何個か候補出しとくか」
「うんうん」
どこにしよっか〜、なんて言いながら机の上に置かれた雑誌を捲る二人を横目にスマホの画面を見つめる。掛け直すと言った愛の言葉が頭の中をグルグルと回っていた。
ドキドキと胸の高鳴りを感じながら、二人と一緒に候補を絞っていたとき、再び着信音が鳴る。耳に届く鼓動の騒がしさを感じながら通話ボタンを押してスマホを耳へと近づけた。
「もしもし、真白?」
「うん」
「待たせてごめんね」
「ううん、大丈夫」
「プールのあるホテルなら用意出来るよ」
「え?」
「プールでいいなら丁度良い場所があるんだ」
どうかな?とそう言う愛。俺は椿生と明に目配せをして尋ねる。
「愛がプールなら良い場所があるって」
「プールかぁ、いいね!そこにする?」
「良いんじゃないか?後はホテルだな」
「ホテルも何か、用意出来るって」
「「ん?????」」
「愛、二人ともプールでいいって」
「うん、わかった。後で場所の詳細とか送るから日にちは好きに決めていいよ。……あ、そうだ。宿泊代とかは気にしなくて大丈夫だから」
日にち、決まったら教えてね。とそう言って愛は電話を切る。よくわからない間に、色々決まってしまった。
宿泊代気にしなくていいって一体……。
「日にち、決めといてだって。あと、宿泊代は気にしなくていいって」
「え?本当にどういうこと?」
「後で詳細送るから日にち決まったら教えてとしか」
「花月 って、もしかしなくても金持ちか……?」
「どう、なんだろ?」
「……とりあえず日にち決める?愛くん待ってるかもしれないし」
「そう、だな」
何とも言えない雰囲気が漂う中、いくつか出していた候補の中から日にちを相談した。暫く三人で考えていると愛からいつの間にかメッセージが届いていたのに気づく。内容を見れば、送られてきた場所の詳細に驚き、三人で思わず絶句する。
「愛くん、本当に何者なの……」
「俺ら、本当に宿泊代気にしなくていいんだよな……?」
「大丈夫、だと思う……」
一般学生が到底行けそうもない高級リゾート地にあるホテルのホームページ画面を目に、暫く三人で言葉を無くした。
――――――
「あつ〜、太陽眩しい〜」
「快晴だな」
「溶けそう……」
あれから暫く経って、プチ旅行当日。照りつける太陽にもう既に負けそうになっていた。三人で何駅か乗り継いで目的のホテル近くの駅で愛を待つ。あの日の電話から今日まで愛に会うことはなくて、電話をすることもなかった。一応毎日連絡は取っていたから久しぶり感は無い、と思う。そう思ってはいるけれど、やっぱり何故だが今凄く愛に会うことに緊張している。若干そわそわする気持ちを二人に気付かれないようにぎゅっと持っていたペットボトルを両手で握った。ペットボトルの表面についていた水滴がスーッ、と手のひらを伝って手首へと流れ、落ちる。
「もう一本遅い電車乗れば良かったかなぁ」
「まぁ遅れるよりはマシだろ」
「んー、……それもそっか」
「溶けそう……」
暫く他愛もない会話をしていれば一台の車が俺達の目の前に止まる。見るからに質の高そうな高級車に緊張が走った。三人ともその高級車から目が離せずに凝視していれば運転席の窓がスーッと降りていく。窓の奥から顔を現したその男は掛けていたサングラスを下にずらすと俺達と目を合わせて口を開いた。
「君達が愛のお友達かな?」
口元に笑みを浮かべそう言った人物のサングラスの下から覗いたその瞳は、愛の琥珀色の瞳にとても良く、似ていた。
突然の出来事に、三人とも固まる。僅かな沈黙の中、ポケットの中にあったスマホが震えた。反射的にスマホを手にとって画面を見れば、そこには愛の名前。ふと、感じる視線。高級車に乗った目の前のその人物はただ俺だけをじっと見つめる。そこにあったはずの口元の笑みはいつの間にか消えていた。
手の中で未だに震えるスマホ。向けられる視線に思わずスマホから目を逸らす。目があった瞬間、ドキリと、心臓が縮み上がりそうな感覚になった。品定めをするみたいな視線に背筋がひやりとする。スマホを持っていた手を思わずぎゅっと握ってしまう。
「電話、愛からだよね?」
たぶん、ほんの僅かな、些細な時間だったのだと思う。けれど、長い間探られていたかのような居心地の悪さに時間が長く感じた。ぎゅっと握った手の中のスマホを指差しながら、目の前のその人は優しくそう言う。もう一度その瞳と目を合わせれば、そこには愛と同じ瞳の輝きがあった。口元に薄っすら笑みを乗せ、俺を優しく見つめている。
「出ないの?」
「あ、はい。ちょっとすみません」
その人に促されて、慌てて通話ボタンを押す。あともうちょっとでたぶん切れるとこだった。
「も、もしもし」
「もしもし真白?」
「うん」
耳元で聞こえる愛の声に僅かに心臓が跳ねた。
「ごめん、今ちょっと手が離せなくて迎えに行けなくて。代わりに兄さんが車で迎えに行ってくれてるんだけど、」
「あ、」
「ん?どうした?」
「もう目の前にいる、かな」
「あ、本当?じゃあそのまま車に乗ってホテルまで来てほしい。ついたらロビーで待ってて」
迎えに行けなくてごめんね、と言った愛に相槌をうって電話を切った。
「愛、なんて?」
「ついたらロビーで待ってて、と」
「そう、了解。ほら、三人とも早く乗って、自己紹介はそれからね。暑いでしょ?」
「あ、はい!ありがとうございます!」
「お世話になります」
「よろしくお願いします」
明と椿生は恐る恐るとドアノブに手をかけて車内へ乗り込む、俺もそれに続いて後部座席に乗ろうとすれば、運転席から声をかけられる。
「君、真白くんでしょ?助手席乗りなよ」
どこか探るような試すような視線を俺に向けながら愛のお兄さんはそう言う。その瞳をじっと見つめながら、俺はただ黙って頷いた。
乗り込んだ車内はとても涼しくて、真夏の茹だるような暑さがまるで幻かのように快適だった。窓の外を見れば、流れる景色には蜃気楼が混じる。
「三人ともごめんね、外暑かったでしょ?」
「いえ!結 さんがすぐに迎えに来てくれたので暑いのは一瞬でした」
ありがとうございます、と明はニコニコと答える。それにバックミラー越しで愛のお兄さん──もとい、結さんは笑みを返した。チラリと横目で結さんを見ればサングラスで隠れている瞳がこの位置からだとよく見えた。愛の瞳によく似たその瞳の色を見て、早く愛に会いたくなる。
「そういえば、俺達本当に宿泊代とか気にしなくていいんでしょうか?」
ふと、椿生が恐る恐るとしながらもはっきりとそう口にする。結さんはその問いに一瞬驚いた様子を見せた。
「あれ?愛から何も聞いてない?」
「お金のことは気にしなくていい、とだけ」
「あー、そうなんだ。そっか。まぁ確かにお金のことは何も心配しなくていいよ。素直に楽しんで」
「そうなんですね、わかりました!」
「でも、」
「「「でも?」」」
「今回のはモニターの意味合いも兼ねてるから、最後にアンケート書いたり、色々聞かれたりすると思うよ。詳しくは着いたら、愛が説明すると思うけど」
「「「……モニター?」」」
「うん、定期的に数名モニター取ってホテル泊まって貰ったり、新しいサービスの体験して貰ったりっていうのをやってるんだよ、うちの会社」
「「「……ん?」」」
「ん??」
「え、今、うちの会社って言いました?」
「うん、言ったよ。……あ、もしかして本当に愛から何も聞いてない?」
「、はい」
「んー、……フロースホテルグループって聞いたことある?」
「あ、はい。今回泊まらせて頂くホテルもそこが経営している所ですよね。あ、」
「うん、そう。気づいた?フロースホテルグループがうちが経営してる会社。って言っても社長はうちの父親なんだけど」
何となく、薄々愛はお金持ちなんじゃないか、と想像はしていたけれど実際にその事実を聞かされると言葉もなく驚いてしまう。それは他の二人も同じみたいだった。そんな俺達を見て、結さんは困ったように笑った。
「まぁ、愛がちゃんと説明してくれると思うよ」
ほら、着いたよ、と丁寧に車を停めた結さんがそう言う。結さんに促されて入り口の目の前に停められた車から降りる。そして目の前に写ったきらびやかな外観に思わずごくり、と喉がなった。
「車置いてくるから、三人とも先にロビーに入ってて。スタッフにはもう伝えてあるから気にせず中入っていいよ。案内させるよう頼んであるから」
じゃあ、また後でね。と言い残して結さんの車は再び走り出して行った。その姿を三人で黙って見つめた。結さんの車を見送って数分、椿生が意を決したように呟いた。
「……行くか」
それに俺と明は黙って頷いた。いかにも高級そうなその外観を前に緊張した足取りで、俺達は入り口へと向かった。
俺よりも数歩前を歩く椿生と明の後ろに続いて建物内に入る瞬間、すれ違う人物にドクン、と心臓が鳴る。その嫌な音に一瞬呼吸を忘れた。茹だるような暑さと、ホテル内部から漏れた冷たい空気が混ざる。恐る恐ると思わず振り返ってしまった。
『目ぇ逸らすな』
息が出来なかった。震える指先が徐々に冷たくなるようにその場から動けなくなる。目にしたその男から視線がそらせなくて、こわい。
「ごめ、なさい」
小さく漏れた言葉は堰 を切ったかのように溢れ出す。止まらないその言葉達は徐々に俺を蝕んでいく。ガタガタと体が震えていた。
「ゆるして、、ださい、、ごめんなさ、い、ごめんなさい、ゆるして」
うわ言のように繰り返す言葉に呼吸が乱れる。支配されるように上塗りされる感覚が吐きそうなくらい気持ち悪かった。それでも尚、遠ざかっていく目の前の男から目が離せない。
椿生と明の焦ったような声が聞こえる、瞬間、椿生に支えられていた。そこでやっと、自分の体が倒れそうだったことに気づいた。震える手で俺を支える椿生の腕を掴む。いつの間にか、あの男の姿はもう見えなかった。けれどまだあの言葉がこびり付いて離れない。こわくてぎゅっと目を閉じる。
「真白!!!!」
鼓膜を震わす、俺を呼ぶ声。その声の主を確信した瞬間、開いた目からは涙が溢れていた。後ろから駆け寄る足音。ふわりと香る甘い、バニラの匂い。背中に添えられた暖かく優しい手。愛 の優しい声。
いつの間にか、愛の腕に包まれていた。零れる涙が苦しい。けれどもう震えは止まっていた。
愛の匂いに安心して、心が、解けて、
「真白?真白!!」
その暖かさに、眠るように意識を飛ばした。
――――――
男達の手が俺の肌に触れ、無遠慮に這う。
冷えたアスファルトに体温が奪われるように染み付いて、僅かに舞う埃に呼吸が苦しい。
もがいてもがいて、何度も何度も叫びたかった。けれどいつの間にか弱々しく震える口からは嗚咽だけが漏れていて。
何度も何度も、『目を逸らすな』と、現実に引き戻されて。
男が吸っていた煙草の匂いが喉に鼻に染み込むみたいに纏わり付く。おい、と目の前の男が周りの男達を呼べば無理矢理押さえつけられる手足。強い力で押さえつけられまだ成長しきっていない幼さの残るこの体はいとも簡単に自由が奪われる。
「うざ」
ぼそりと、噛み潰したように目の前の男は小さくそう言葉を漏らす。目を逸らすなと言わんばかりに顎を思い切り掴まれたと思えば男は吸っていた煙草の煙を逃げ場のない俺の顔に吐き出した。焼け付くように染みるそれに呼吸が苦しくて咽る。甘く強いその香りに吐き気がした。男の手に力が入る。めり込むようなその強さに骨がぎしりと軋むように痛んだ。
涙で滲んだ視界で真っ黒な煙草の火だけがその緋色だけが、鮮明に浮かび上がる。その光景があまりにも怖くて思わずぎゅっと目を瞑れば、耳元で冷たく響く声、その瞬間、熱く熱く焼かれるような目が眩むような痛みに叫んだ。
そんな俺の声を煩わしいとばかりに男の手が首元へ伸びて──
――――――
「真白、」
優しい声が聞こえる。暖かいその音に導かれるようにして瞼を開けた。一番最初に見えた琥珀色の瞳は不安げにゆらゆらと揺れていた。
そっと、優しく瞼の端を撫でられる。そこでやっと、自分が泣いていたのだと気づいた。
真白、真白、と愛はただただ俺の名前を繰り返し呼ぶ。握られた手は少し震えていた。
「ち、か」
弱々しく口から出た名前に、愛は眉を下げ僅かに口元に笑みを浮かべた。
「もう、大丈夫、」
大丈夫だよ、そう安心させるように何度も言葉を繰り返す愛は俺の頭を優しく撫でる。そんな愛から香る甘いバニラの匂いに目頭が熱を持つ。
「抱き、しめて」
多分声は少し震えていた。愛は撫でていた手を一瞬止めたかと思えば優しく、優しく俺を引き寄せ抱きしめた。暖かいその温度が心地良くて胸が痛い。
今はただ、愛 だけを感じていたい。
何も、考えたく、ない。
「真白」
愛は、優しく何度も何度も俺の名前を呼んだ。
優しく俺を撫で続けるその温度を感じながら俺はただ必死にしがみつくように愛に抱きついた。
溢れ出る涙を隠すように。
「……何があった?」
愛の腕の中の心地よい感覚にうつらうつらとし始めた頃、静かな室内に小さな声がぽつりと落ちた。どこか弱々しいその声色に思わず愛の顔を伺う。合わさった視線の先、その琥珀色の瞳はゆらゆらと揺れていた。
手を、伸ばす。愛の頬に手を添えれば愛は僅かに頬を擦り寄せる仕草を見せる。その姿に胸の奥が疼いた。親指の腹で愛の唇をなぞれば伏せられた瞳にドキドキと心臓が高鳴る。その唇に引き寄せられるように愛に近づく。甘い蜜に引き寄せられた蝶のような気分だった。
あと少し、愛の唇に触れる間際、鼓膜を揺らした小さな声。切なさを滲ませたその言葉は俺の胸をぎゅっと締め付けた。
「言って、真白」
愛の声色に含まれたCommand。触れていた手は滑り落ちていて気づいたら俯いていた。声を出そうにも喉の奥に張り付いたみたいに何も出てこない。
早く、早く言わなくちゃ。
はやく、ちかにいわなきゃ──
「ごめん、なさい」
口から出た言葉は自分の想像とは真逆のものだった。瞬間、空気がひやりと冷える。そんな言葉を言いたかった訳じゃない、けれど、堰を切ったかのように口からは謝罪の言葉ばかりが出てくる。脳裏に残るあの煙草の匂いが張り付いて消えない。鼠径部の火傷がジクリと痛んだ。ごめんなさいと繰り返す俺に愛の両手が力強く頬を掴んで上を向かせた。
「真白」
力強く呼ばれた自分の名前に胸の奥がじわっと熱を帯びる。頬に添えられた両手に自分の両手を重ねた。小さく震える両手は愛の両手にしがみつくみたいに力が篭もった。琥珀色の瞳が暖かくて視界が段々と滲んでいく。
苦しくて苦しくて、つらい。
「ちか、っ……ちかぁ……ち、か……っ」
酸素を求めるみたいに嗚咽混じりに呼んだ愛の名前。その名前を呼ぶ度に頬に添えられた愛の両手はピクリと動き、存在を確かめるように力が込められた。
愛の手が涙を拭う。優しい優しいその手つきにまたじわりと涙が滲んだ。
ギシリ、とベッドが音を鳴らす。気づけばいつの間にか押し倒されていて。覆い被さった愛の表情は寂しそうに僅かに眉を下げていた。
「……俺は、どうすればいい?」
ぽつりぽつりと愛は言葉を落としていく。
「真白、」
泣きだしてしまいそうなその声色はとても苦しそうで。
「真白、」
そっと、俺の首元に顔を埋める。愛の熱い吐息が首元に触れて、甘いバニラの香りにクラクラした。
「……何があった?」
問いかけとも言えないほど消えそうな小さな声で愛は呟く。何も答えられないまま無言の時間が流れば愛はゆっくりと埋めていた顔を上げた。
琥珀色の瞳は影を作り、ぼんやりと俺を見つめる。深く暗い場所に沈んでいってしまいそうな瞳に胸がざわざわと騒ぎ出す。何処かに消えていってしまいそうな愛に不安になって手を伸ばそうとしたその瞬間──
「Say 」
ハッと息を呑んだ。
静かに口を開いた愛のCommand。淡々と告げられたその言葉に一瞬呼吸を忘れる。
「たすけて、ちか」
いつの間にか気づけばそう言っていた。
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