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Kiss
部屋に着いてすぐに、愛 は優しく俺をベッドの上に下ろし座らせる。そして目線を合わせた。琥珀色の瞳がじっと俺を見つめる。逸らすことなく俺もその瞳を見つめていた。
そっと愛の手が俺の頬を包む。宝物を扱うようなその優しい手つきに心が震えた。親指の腹が何度も頬を撫でてはその度に愛の瞳がゆらゆらと揺れているように思えた。
「好きだよ、っ」
好きだよ、愛。と気付けば何度も何度も繰り返していた。止まらず溢れだした涙に視界は滲んで愛しい琥珀色をぼやかして隠してしまう。縋るように繰り返す好きと言う言葉は恋慕よりも悲痛を滲ませてしまっていた。
そんな俺を愛は何も言わずに引き寄せその腕の中に包み込む。力強くけれど優しく頭と背中を撫でられ、その温度に安心した。甘いバニラの香りが鼻腔を満たして埋め尽くしていく。言葉にならなくなった思いをどうしたらいいのかわからなくなってそのまま愛にしがみついた。
「愛しているよ、真白」
じわり、と胸に広がった温度に息が止まってしまいそうになった。熱を持ったその言葉が震えていた心を包んで温めていく。その瞬間に俺の頬を滑る涙は温かいものへと変わっていた。
「ぜんぶ、っ……ぜんぶ、愛だけがいい、……っ」
離さないで、と願っていた。
解放されたいと、懇願していた。
目の前の人だけのCommand が欲しい、と切望した。
「愛で、いっぱいにしてよ、っ……」
その瞬間、優しく抱きしめられていた胸から離され愛の顔と向き合う。涙で滲んでいた視界はさっきよりも鮮明でその琥珀色の瞳が切なげに揺れているのが見えた。
「いいよ」
少し泣きそうな声は甘くて、温かくて、優しく俺の鼓膜を揺らした。
そっと、愛の手が俺の頬を滑っていく。そうして離れた温度に胸が切なく疼く。涙を拭っていく愛の手つきはずっと優しいままで。
ゆっくりと愛の顔が近づいてくる。ふわりと香る愛のバニラの香りが心地よくてゆっくりと目を閉じた。重なった唇は少し震えていた気がした。
「、ん」
ちゅ、と甘い響きが鼓膜を揺らす。吐息が漏れれば開いた口の隙間から愛の舌が入って絡めとられる。熱を持ったように感じるその感触に思わず腰が揺れた。それに気付いたのか愛の右手が服の隙間に入り込み素肌をそっと撫でる。産毛を撫でるみたいに触れられるその感触に思わず声が漏れてビクビクと体は反応する。背筋がゾクゾクっと痺れるような感覚は快楽そのものだった。
「んっ、……っはぁ」
「……俺だけを考えて」
「ひゃ、っん、……ち、かっ」
「そう、俺の名前を呼んで」
「ちか、っぁ……ふ……あっ、っちかぁ」
「Good Boy 、」
──真白。
魔法みたいに愛の言葉が頭の中に響いて思考を満たしていく。服を脱がされいつの間にかベッドに組み敷かれていた俺は愛だけを見つめていた。愛の手が俺の素肌を滑る度にビクビクと体は反応してその度に吐息は漏れて空気を揺らす。弱い所に触れられれば訪れる強い快楽の波に涙が滲む。その度に瞼に落とされる優しいキスが心を満たしていく。
愛の声が、匂いが、感触が、温度が、俺の全てに触れて満たして埋め尽くしていく。頭の中がふわふわと甘い快楽に染まって溺れていった。
「ふ、あっ……っ、ち、かぁ」
「うん」
「ちかぁ、っあ」
「そう。そうだよ、真白」
「あ、ゃ……っ、ん」
「俺だけを見て」
「み、るっ……ちかだけ、っ……ぁ、みて、るっ」
「うん、良い子だね真白」
「あっ、や、まっ……あ、っ」
「力、抜いて」
大丈夫、優しくするよ。そう言って当てられた愛の熱はとても熱くて。グッと入り込んだそれは少し痛くて涙が滲む。それでも気遣うように触れる愛の手と熱の篭った琥珀色の瞳を感じればいつの間にか痛みなんてなくなっていた。奥まで入り込んだその熱が愛おしくて仕方がない。
「っ真白、」
「っち、か、ぁっ……ん、ぁ」
「め、閉じないで」
甘い甘い刺激に思わず目を閉じれば、親指の腹で瞼を優しく撫でられ熱の篭った愛の声が聴こえた。ゆっくりとした動作で与えられる快楽に溺れそうになりながら何とか目を開ければ近い距離で琥珀色の瞳と視線が交わる。妖艶に細められた瞳にバクバクと心臓が鳴る。ゆっくりと愛の口が開いた。
「俺から、目を逸らさないで。俺だけを見つめていて」
それは、Command が込められた願いだった。俺の脳内に甘く響いたそれは黒く淀んだCommand を塗り替えて消し去っていくほどに強く、鮮明に俺に愛を刻んだ。
スッ、と涙が頬を滑る。それは止まらずに頬を濡らしていった。けれど視界は澄み切ったようにはっきりと目の前の琥珀色を映している。優しい瞳が、俺を見つめている。
俺、だけを。
溢れ出て止まらない涙を拭いながら愛は俺の頬にキスを落とした。そして繋がれた手はぎゅっと強く、離れないようにしっかりと互いに握った。
「愛してる」
自然と、口から出ていた。その言葉はスッと溶け込んでストン、と心に落ちてじわりと熱を広げた。目の前の愛は泣きそうに琥珀色の瞳を揺らしたあと、ふわりと笑った。
「キス、して」
──真白。
呼ばれる名前を飲み込むように俺は愛の口を塞いだ。混じり合って溶け合って一つになるみたいに、重なる熱が心地良くて俺はその甘さに溺れていった。
深く深く、愛に溺れていった。
――――――
ふと、目が覚めると隣で寝ていたはずの愛の姿が見えなかった。その代わりにどこかから漏れ出る何かの光。暗い室内を照らす光が眩しくて、振り返る。するとそこには愛が背を向けて座っていた。
「あ、起こしちゃった?」
布団の擦れた音で気がついたのか振り返って目があった愛はそう言って眉を下げていた。そんな愛の後ろに僅かに見えていた光の正体はどうやらパソコンのようで。
「なにしてたの?」
まだ眠い目を擦りながら起き上がってそう問えば、愛はパソコンを閉じてベッドの縁に座った。
「仕事」
俺を後ろから抱きしめるように座った愛はそう言葉を落とす。嘘か本当かもわからない言葉に寝ぼけた思考のままの俺は特に疑問も持たずに愛に寄りかかる。
とんとん、と優しいリズムで眠気を誘われまた瞼が降りていく。心地良い感覚にふわふわと全身が満たされて、俺はまた眠りに落ちた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
そんな愛の声が聴こえた気がした。
――――――
次の日、朝起きると隣で眠る愛の腕の中だった。抱き枕のように包まれるその感覚はなんだか身動きが取りづらくて思わず笑ってしまう。クスクスと笑う俺に気づいたのか愛が目を覚ます。
「おはよ」
込み上げる笑いを抑えながら愛にそう言えば、寝ぼけ眼で愛はこちらを見つめる。
「……おはよ、……どうしたの?」
ぽやぽやとまだ眠そうな表情を見せながら上手く舌が回ってない口調で問いかける愛に湧き上がる感情。
可愛いなぁ、なんて思いながら未だにクスクスと笑う俺をぼーっと見つめてたかと思えば不意にへにゃと表情を緩めて愛は笑った。見たこともない笑みに思考が止まる。幼子のように無垢で純粋な笑顔に釘付けになった。
「〜〜っ」
初めて胸を満たしていく感情に言葉にならない音が漏れて、そのまま愛の胸に埋まった。不思議そうにしながらも優しく抱きしめる愛の腕が心地良くて愛しい。
「ちか、」
「ん?」
「すきだよ」
「っ、」
俺も。静かにそう言った愛は俺を更に強く抱きしめる。
「俺だけ、見てて真白」
「うん。愛だけ、愛だけだよ」
その言葉さえあればもう大丈夫だと思った。あの日のCommand を愛が上書きしてくれた。もう何も怖くない。怖く、ない。
そうだよね?愛──。
『目ぇ逸らすな』
逸らさないよ。もう、俺は愛だけを見てる。
だから、だから。
消えてくれ。お願いだ。
消えて……
――――――
「あ~、楽しかった〜」
明 がニコニコと笑いながら背伸びをする。その隣で椿生 はあくびをしていた。
「寝不足?」
「ん?あぁ、こいつがオールするぞ〜なんて騒ぐから」
「は?あんたもノリノリだったじゃんか!」
「そりゃノリだから」
「はぁ?てか、聞いてよ真白 !椿生、私置いて先に寝たんだからね。寝不足なんかじゃないよ」
「あー、聞こえねー」
「あ!ちょっ、こら!」
相変わらず騒がしい二人に苦笑いしながら、俺達はホテルのロビーで愛を待っていた。あれから何事もなく一日が過ぎてあっという間に帰る時間が近づいていた。二泊三日のプチ旅行を楽しんだ俺達はホテルのモニターとして招待されていた為、さっきまで軽いアンケートを受けていた。アンケートを取り終えると愛は書類を提出しに一旦スタッフルームへと消えて行った。
「あれ、もう帰るの?」
不意に後ろから聞こえた声に振り返る。するとそこにはスーツを着た結 さんが立っていた。
「結さん、おはようございます」
「うん。おはよう」
「わ!結さんおはようございます、今日はスーツなんですね」
「おはようございます」
「二人ともおはよう。今日は仕事だからね」
それにしても今日帰っちゃうのか、早いなぁ〜。なんて言いながら俺の隣に座る結さんはニコニコと笑みを浮かべる。笑い方がなんだか愛に似ていて微笑ましく感じる。
「楽しんでくれた?」
「はい!こんなに素敵なところ初めてだったんでドキドキしました」
「ドキドキか、それは良かった」
「屋上のプール最高でした」
「夜行くとロマンチックでしょ?結構作るときに拘ってたらしいよ、うちの父親が。真白くんは行った?」
「いえ、行かなかったんですけど、やっぱり行っとけば良かったかな」
「またおいで。愛に言ったら喜んで連れてきてくれると思うから」
そう言っていたずらに笑った結さんは、そろそろ行くね、と言って立ち上がった。それに釣られて俺達も立ち上がる。お礼と挨拶を口にする俺達に結さんは優しい笑みを浮かべて口を開く。
「今回は送ってあげられないけど、気をつけて帰るんだよ」
またね、と言って軽く手を振って歩き出すその後ろ姿は堂々としていて格好良かった。
――――――
「ごめん、お待たせ」
結さんが去ってから程なくして戻ってきた愛は何故か先程とは服装が変わっていた。
「ん?なんでスーツ?」
不思議に思ってそう問い掛ければ目の前に座っていた椿生達も不思議そうに愛を見つめていた。そんな俺達に愛は微笑む。
「ちょっと、ね。この後兄さんの手伝いに行くから」
なんとなくそれ以上聞いてはいけないような雰囲気がして俺達は話題を変える。立ち上がって出口へと向かう椿生と明の後ろ姿を見てその後について行こうと足を踏み出すと愛も同様に俺の隣を歩き始める。
「スーツ似合ってる」
「ほんと?嬉しいなぁ」
「かっこいいよ」
「っ……」
「あれ?もしかして照れてる?」
「……はじめてうれしいと思った」
「え?」
「かっこいいって本当に褒め言葉なんだね」
「??当たり前だろ」
「ははっ、ありがとう。真白」
「ん?うん?」
ちょっと照れ臭そうに笑う愛はそう言って俺の頭を撫でた。その優しい手つきに胸がきゅーっとなる。それからも他愛ない話をしながら近くのバス停まで歩いた。まだ暑い日差しがジリジリと肌を焼くように照りつける。じわりと滲んだ汗が肌の上を滑り落ちていった。
駅につくと愛に別れを告げて改札を通る二人。その二人に続いて改札を通り抜ければ不意に俺の名前を呼ぶ声。振り返れば愛はこちらをじっと見つめてそれから、微笑んだ。艶やかで印象的な琥珀色の瞳が俺を見つめている。ゆっくりと愛の口が動く。
(またね、……)
その口の動きを読み取れば自然と溢れた笑み。そのまま頷いて手を振る。すると愛も手を振り返した。
「シロ〜、電車来ちゃうよ〜」
後ろから明の声が聞こえて振り返る。名残惜しさにもう一度振り返って軽く手を振れば愛は微笑んで頷いた。
少し小走りで椿生達に追いつけば丁度来た電車に乗り込んだ。冷房のよく効いた車内は涼しくて肌を濡らしていた汗が退いていく。冷めない胸の熱を抱えたまま、夏休みが終わっていく。
あの夏の日から初めてだった。
こんなに穏やかな気持ちは。
(愛、もう会いたくなっちゃったよ)
電車に揺られながら、目を閉じて愛の笑顔を思い出していた。
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