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マッチ売りの娼年 35

 「自分の」ためにわざわざ偽名を考えて名乗ってくれた惟信。  二人で様々なことを話した満たされた時間を思い出す。  惟信はどうだったのかは少年の知るところではないけれど、「少年の」記憶の中では二人のやり取りは暗い中にぽっと灯った暖かい記憶だ。  「自分の」思い出。 「好きなようになさってください」    気を失っている間に首を絞めて殺してしまおうとでもしていたのかもしれない と、重苦しさの抜けない喉元を感じながら思う。 「可能ならば、苦しまなければと願いますが    」 「それは無理だね」  末期の望みをバッサリと切られてしまい、意味ありげに笑う若先生に向ける視線に力を込めた。 「これが最後だ。君の名前は?」  若先生の注射器を持った手を押しのけ、惟信は少年を真上から見下ろしながら尋ねかける。  まるでそれは嘘を言うことは許さないと、圧をかけているかのように息苦しいものだ。 「  ────……私は、蛤貝(うむぎ)」  はっと息を飲んだ惟信の顔が苦しげに歪み、大きな拳がさっと振り上げられた。  指先の冷たさは、先程拳を振り上げた惟信の負の感情がどれほど濃く、熱く、怒りを内包しているのかを体が感じ取った結果だった。  幸い拳は弱った体に振り下ろされることはなかったけれど、ベッドヘッドに叩きつけられて鈍く大きい音をさせていた。  少年は……蛤貝はけれど、逃げ出すこともせずに惟信の向こうの若先生に視線を送る。 「覚悟はできております……次があるのなら願わくば、自分の人生を選びたいですね」 「蛤貝っ⁉」  名前を呼ぶ惟信にだけはほんの少し睨みを利かせた目を向けて、泣いて怯えて……そんな態度で召されるのも癪に障る と、蛤貝は目を閉じでできる限り手足の位置を体に近づけ、そして口角を上げて微笑んでみせた。  悲鳴のような、うめき声のような、何と表現のできない声を背中に受け、惟信が項垂れて耳を塞ごうとしたが途中で思い返して黒髪を掴むだけに留める。  細く、長い、まるでバンシーの悲鳴だと、聞いたことのないおとぎ話の中の妖精を思い出しながら、同じように気まずい顔をしたまま座っている若先生……いや、瀬能を睨みつけた。 「そんな顔をしないでくれないか。今にも食い殺されそうだ」 「……蛤貝は、いつまで苦しめばいい?」 「さぁ」  返された言葉の軽さに惟信はとっさに瀬能の襟元を掴み上げようとした。  けれどそれをさらりとかわし、男らしい顔立ちに穏やかな笑みを浮かべて立ち上がる。 「何か飲もうか」  そう言って向かう先にはミニバーがあり、瀬能は指先を振りながら惟信の返事を待つ。  

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