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マッチ売りの娼年 36

「そんなに睨むなよ」  瀬能は肩をすくめてから適当に酒を選んでグラスを持ってくる。  飲むことはないだろうと思いながらも惟信の目の前にグラスを置いて酒を注いだ。  氷を入れるでもない、愛想も何もない琥珀色のそれを眺めながら惟信は深く眉間に皺を寄せる。  蛤貝の前では決して見せなかった険しい表情に、瀬能は肩をすくめて蛤貝が押し込められている部屋の扉に目をやった。 「薬が抜けるまではしょうがないんだ」 「……なんのための注射だったんだ」 「あれ? あれはただの栄養剤だよ」  しれっと言われた言葉を鵜吞みにする気はなかったが、そう返事を返されてしまっては素人の惟信にはこれ以上問い詰めようがない。 「……彼に打たれていた『F13』と言う薬はなんなんだ」  惟信はその代わりに今現在、蛤貝を蝕んでいるものの説明を求める。  傷だらけの体、繰り返された暴力の痕と内側にあった注射痕に……惟信は怒りを込めて拳に力を込めた。 「あれはー……画期的な? 麻薬、かな」 「画期的?」  その安易な言葉に惟信は神経を逆なでされたような気分になって低く尋ね返す。 「いや、麻薬なんて呼んでいいのかどうなのか。詳しいことは以前にざっくりと説明したもの以上にはできないよ」 「……アルファの……フェロモンの代わりになる?」 「そう。アルファフェロモンのマスターキーだ」    漠然としたイメージは掴めるがそれだけだ。  その言葉で何も変わることがないと言うことを突き付けられて、惟信はうなだれる。 「オメガにのみ作用する、アルファが放つフェロモンによく似た何か。しかもそれは番がいようがいまいが関係ない、体内に入ればそれだけで作用して  」  Ωは傍らにいる人間に依存するようになる。 「まるで相手が番のアルファであるかのように、従順に、離れず、抵抗もせず、唯々諾々と何の疑問も持たず……例え何をされようとも、アルファフェロモンに揺さぶられたオメガの脳はそれで良しとしてしまう。番に捨てられることをオメガが本能的に怖がるように、離れられなくなる」 「……」 「オメガがアルファの傍にいるとそれだけで脳内麻薬の量が増えるしな」 「……もう、項を噛まれているのにか?」 「項を噛んだって、物理的にシャットアウトされるわけじゃないからね。むしろ番がいたオメガにこそ効くのかもしれないね」  惟信は何か言いたそうに口を開いて……そして何も言わないままに閉じ、すがるように酒の入ったグラスを握りしめた。  力強く握りしめると、揺れた酒から芳醇な香りが立ち上がって鼻孔をくすぐる。  とろりとした、蜂蜜を思わせるような香りに惟信はかつて嗅いだ蛤貝の匂いを思い出していた。 

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