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赫の千夜一夜 80

 部屋に入った途端、飛び上がるようにして大神に駆け寄り……隈のできた目を押さえて呻くような声を上げる。 「御無事で……よか  っ」 「無事だと連絡は入れてあっただろう」 「それ以降、何もなかったじゃありませんか! 挙句が国から連絡がくるなんて異常事態でしょう⁉」  わっと言い返した直江が大神の腫れた顔を見て、ぽかんと口を開けて固まってしまう。 「……転んだ」 「こ……転んでそんな傷になるはずがないでしょう」  思わずそんな言葉が転がり出たけれど、大神がそうだと言う以上直江にそれは違うと反論する気はなかった。  何かあったのだろうがそれを言わないのならば自分に言う必要のない事柄なのだろうと、直江は切り替えるようにして背筋を正す。 「ひとまず安心しました。ところでセキは?」 「部屋にいる」 「部屋……」  ごく と直江の喉が鳴って大神の後ろに控えたままのクイスマを見る。  幾ら日本で会社を経営しているとは言え、所詮大神はただの一般人でしかない。そんな人間がいきなり王宮に滞在していると言うのだから、直江はわけのわからないことだらけで汗が吹き出しそうな気分だ。 「詳しいことは帰ってから話す、準備をしてくれ」 「はい、承知いたしました」    とにもかくにも、大神が帰ると告げてくれたことに直江はほっと胸を撫で下ろした。  小さなノックに飛び上がると、セキは返事をしようかどうか随分と迷ってから「はい」と微かな声で返事をした。  自分は一応返事はしたし、相手に聞こえないままいないと思われたらそれでいいと言うような答え方だった。 「あか」  ぽつん と呼ばれた名前は、大神かハジメしか呼ぶものがいない名前だ。  扉がゆっくりと開けられて、その向こうでハジメが所在無げに項垂れて立っているのを見て、セキは一瞬迷ったけれど自分からそちらへと歩いていく。 「お兄ちゃん、おはよ! ……あ、こんにちは? かな」  努めて普段のように声を出したけれど、ハジメの思いつめたような表情にそんな努力もどこかへ行ってしまう。  もじもじとお互いに扉のむこうとこちらで様子を窺い合っていたが、シモンが「お茶をお淹れしますね」と声をかけたことで張り詰めた空気がわずかに緩んだ。 「入って! って言っても、お兄ちゃんの家? の部屋だけど」 「お菓子もご用意いたしますね」  シモンは明るい笑顔で告げると、淀みのない動きでお茶の準備を整えると、邪魔にならないようにと気配を消して部屋の隅に立つ。  小さなカチャカチャと言う食器の音すらなくなってしまうと、そこは水槽の中のような錯覚が起こるほど切り取られた静かな空間だった。    

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