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この恋は不幸でしかない 66

 必死に言い募る穂垂の姿に、彼女は一瞬だけ眉間の皺を深くした。 「……東条の大伯父と言うと、時宝の大伯父様のことでしょう?」 「ぇ……あ、……」 「昨年亡くなられた方が、どうして貴方の番になれるって言うの⁉」  ぷつ と、接触の悪いラジオのように音が跳んだ気がして、穂垂はさっと耳を押さえる。  痛みはない、けれど耳に水が入ったような不明瞭さに襲われて、眩暈を起こしそうになって机に手を突いた。  指の間を伝ってじわりと染み込んでいくぬるい水の感触が、体中にぞわぞわとした嫌な感覚を運んでくる。  目の前の人は何を言っているのだろう?  そう思うとぐらりと視界が傾ぐようだった。 「……ちょっと、大丈夫なの  ?」 「僕、……ぼくは……」  じっとりとした手で額を押さえると、ぬるい雫の感触と血の気のない指先の感触がする。 「僕は、東条さんの番じゃない! 違う! 違うっ‼ 僕の項を噛んだのは僕の番で! 僕の、番は……っ」  体中にぐっしょりと冷たい汗が伝う。  穂垂は目の前の女性に自分の番のことを信じてもらおうと言葉を募るけれど、その度に彼女の目は不審を映して険しくなっていく。   「……ぼくの、つがいは、    」  初夏の匂いと、  柔らかな笑顔と、  穏やかな声と、    けれど、穂垂はそこでやっと呼ぶ名すらわからないことに息を飲んだ。 「……ぼくの、番は   」  二人で過ごしたベンチは、二人だけで世界が完結して……  ただただ、二人きりの世界はそれ以外の存在を許さなくて……    傍にいるだけで幸せだった。  それだけですべてが満たされた世界は、他に何もいらなかった。   「 ────だれ?」  穂垂に問いかけられて、呆れかえったような胡乱な視線がわずかに揺らぐ。  戸惑うように瞬きをしてから……「大丈夫なの?」と心配を滲ませた声で尋ねかけてくる。 「だ  だって、ぼく と、あの人しか、いないから   」  二人きりの世界は幸せだった。  そこに二人でいることが重要であって、それ以外は何も必要ない。 「だって、だって! あの人はっ  僕の運命だったから……」  引き裂かれる絹布にも似た声を漏らして、穂垂はぶるぶると震えながらその場に崩れ落ちる。  突然のことに驚いた表情のまま固まってしまう小さな子供達と、穂垂に良い感情を持たないながらも心配して駆け寄ってくる彼女の姿と……  穂垂はそれらを見回して悲鳴を上げてうずくまった。 「ちょっと……貴方いったい……っ」  そう呻くと彼女はバッグから慌てて取り出した携帯電話のボタンを押し、通話相手に向けて何事か怒鳴り出す。  

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