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この恋は不幸でしかない 67
それは苛立ちを含んだ刺々しいことばだった。
穂垂は心に割れた破片のような鋭い音を耳に入れたくなくて、すべてから逃げるために耳を塞いでうずくまった。
空が大きく見える桜の木の下のベンチ。
どうしてそこに座ろうと思ったのかわからないベンチ。
のちに、彼が散歩の際に休むための場所なのだと話してくれて納得できた。
穂垂は彼との記憶を一つ一つ丁寧になぞりながら温かくなっていく、胸の内の幸福さに溢れてくる涙を止められない。
優しく拭ってくれる手の温かさと肌の匂いは穂垂の番のもので間違いはなかった。
そのフェロモンを嗅ぐと体中の力が抜けるような安堵感と、微睡むような幸福感と……
「 会いたかった」
「ああ、私もだ」
喉が枯れているのか少し突っかかるような声で彼は答えると、力強い……けれど枯れ木のように皺の寄った手で穂垂の手を繰り返し繰り返し優しく撫で続ける。
ただ撫でられているだけ。
なのに、穂垂は彼に触れられているからか落ち着かなげに空の方へと視線を遣った。
愛しい人を真正面から見つめるには、穂垂はまだ若すぎて……
照れくさくて、手から伝わってくる彼の感触を受け入れるだけでいっぱいいっぱいだ。
柔らかく、とくんとくんと跳ね上がる心臓の音と、周りを吹き抜けていく風と、葉を茂らせ始めた桜の木のさわりと木全体を揺らして聞こえる音と……
火照る顔で窺うように彼を盗み見れば、いつも通りの穏やかな表情で真っ直ぐに穂垂を見つめていた。
「 っ」
明るい日差しに眩しそうにしながらも、深く影の落ちた両の目は柔らかい慈愛に満ちている。
「どうして泣く?」
「嫌な夢を見てしまって」
「嫌な?」
「口に出すのも憚られるような」
夢なんですけど と穂垂は肩をすくめて小さな笑い声を漏らした。
何をバカなことを……と胸中で呟きながら、こうしてしっかり触れ合うことのできる相手に向けて、少し勇気を出して視線を戻す。
「それは怖いな、教えてくれるかな? 怖い夢は口に出すと正夢にならないというからね」
少し茶目っ気を含んだような声。
そんな言い伝えが本当にあるのかどうなのかは穂垂には重要ではなく、彼が自分との情報を共有したがったという行動が嬉しかった。
思わず緩んでしまう頬を朱色に染め、穂垂は観念したように「貴方が亡くなったって、言われてしまって」と、胸の痛みを堪えながら話す。
自分自身が亡くなった なんて言われて、気分のいいものではないだろうに、彼はやはり穏やかに穂垂の手を撫で続ける。
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