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はいずる翼 9
最寄りの駅は小さくて何台も同時に電車が止まるような場所じゃない。
しかも頻繁に来るようなダイヤではないから……
「うん……ぁー……トイレに入っててん」
腕にかけた制服の上着をぎゅっと握りしめ、何とか笑いを浮かべた顔で返す。
じっとりとした湿り気が上着からシャツに染み出してきて、それでなくとも寒いのにぞわりと悪寒を連れてくるような冷たさを感じさせる。
話を反らすために和歌に「買い物にでも行ってたん?」って尋ねたけれど、和歌の疑いを持った表情は変わってはいない。
「そんな恰好で寒くない?」
「……電車の中、暑かったんや」
暖房が効きすぎや と笑った拍子にカチンと歯が鳴る。
制服の薄いワイシャツ一枚じゃ、この時期に防寒らしい防寒はできない。
ましてや上着が冷たくて……
「唇、青いよ」
さっと伸びた指がオレの唇の上をさすらって、改めて体が冷えていることを確認してから去っていく。
「……」
「コートを着て」
さっと肩にかけられたコートからは和歌の温もりが染み入ってくる。
「あ、和歌が寒なってしまうやんか。オレは大丈夫やし」
「若葉」
名前を呼ばれてコートを脱ごうとした手が止まった。
「何があった?」
立ち止まってしまった和歌を置いて逃げればよかったけれど、慈しむように心配されたことがオレの足を縫い留める。
それでも答えられないオレの腕の中から和歌が制服の上着を取り上げて……
綺麗に洗い流したはずだけれど、そんなものを和歌の目に晒したくなくて大慌てで取り返す。
「な、何でもあらへんっ」
「……」
和歌は奪い返そうとしたオレから制服を取り上げるようなことはしなかったけれど、唇をまっすぐに引き結んで怒っているように見えた。
「ごめ ごめん、ごめんな……汚れてたんは上着だけやったから、コートは汚れてないから」
混雑した電車の中でかけられた白い液体は上着だけを汚していて……けれど、水で洗い流して手に持っているから、和歌のコートを汚さずに済んでいる。
痴漢に精液をかけられた。
そんな恥ずかしくて悔しくて怖いことを口には出せなくて……
「コート返すから」
言葉を募るけれど和歌からの返事はない。
不機嫌にさせてしまったんだとわかって、痴漢に遭った時よりももっと心が不安定になっていくのがわかる。
足元が沈み込むように気持ちが落ちて……こんな目に遭ってしまうダメな自分が恥ずかしくて消えてしまいたくなった。
「若葉」
ぶるぶると震えるオレの目の間から、気づけば雫が溢れて地面を濡らしていた。
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