434 / 698

はいずる翼 43

「駄目。逃がさない」  耳に入ってくる和歌の声は普段と変わらないはずなのに、どうしてだか冷たく重く硬い。  押しつぶされてしまいそうな圧迫感に、伸ばした手が廊下の床を引っ掻いて力尽きる。 「あ、ぇ  」  体の底から感じる震えは本能的なもので。  αが怒りに任せて発したフェロモンの恐ろしさを身をもって知るなんて思いもしなかった。  寡黙というほどではないけれど、普段の様子を知っているだけにオレには和歌が怒っていることが信じられなくて、嘘だ嘘だと心の中で繰り返しながら体を縮込める。  逃げ場はない と、本能で理解する。  自分は被捕食者なのだと、理解する。  どうあがいても逃げられない、食われる未来しか思い描けなくて……ガタガタと震える手を和歌へと伸ばした。 「あ、あえ か。お願い やから、残さないで、骨まで食べて  」  それで和歌の怒りが収まるのならと思うと同時に、幸せになれるって思いもあった。  自分の指先とは違って温かい頬に触れると、和歌はびっくりしたように目を見開いてから小さな子供のようにこくりと首を傾げる。 「溶けて混ざって、和歌がオレを綺麗に平らげてくれたら、……嬉しい」  このぬくもりと一つになれたら…… 「…………」  和歌は何も答えないまま、オレの濡れたままだった髪をぐいぐいと撫でつけ、矯めつ眇めつ確認するように見つめた後、何を考えているのかわからない表情でオレの腕を引っ張った。 「和歌?」  家に連れてこられた時のように乱暴ではなかったけれど、離す気配のない手に促されて風呂場まで連れてこられる。 「クソっ! ボロ家め」  古い家らしい狭い風呂場は二人が入ると狭く感じるほどだ。  シャワーすらついてないそこにオレを押し込むと、和歌は蛇口を目一杯ひねった。 「入って」 「えっ」 「そのアルファの臭い、落として」  突然のことに「あ」とか「う」とか繰り返していると、業を煮やしたのか和歌がオレを抱き上げて湯船へと放り込んだ。 「あっつ!」  調節されているのだろうけれど、冷えた体にはまるで熱湯のようで……思わず和歌にしがみついて暴れるオレに、和歌ははっとした表情をした。  オレを抱き上げたまま湯の温度をもう一度確認して、「大丈夫だ」と言ってから下ろす。 「や オレ、かけ湯してない」  かけ湯どころか服も脱いでいない状態だったけれど、抱きしめられたまま湯船に立っているなんて、普通じゃない状況にうまく頭が回ってくれない。  ゆっくりと満ちていくお湯に温められて、少し人心地ついてほっと体の力を抜いた。    

ともだちにシェアしよう!