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はいずる翼 82

 何気ないことだったと思うけれど、生活しているんだってわかる場所で、規則正しい生活をして、自分のために食事を用意してもらえる。  ましてや、笑顔で。 「…………」  得ようとしても得られずに指から滑り落ちていったそれらが、今目の前にある不思議さに思わず頬を両手でつねった。  ぐっと伸びた頬は…… 「ど、どうしたの? 痛くない?」 「え……どうやろか……」  慌ててオレの方へきたミクは手を避けて頬を包む込んでくる。  水を触っていた手はひんやりとしてい冷たいけれど気持ちいいから、あっという間に痛みを取り払ってしまう。  だから、これは夢かもしれない。 「もうつねらないでくださいね」  優しい指先がくるくると頬を撫でて離れていくから、オレはミクの手を取ってもう一度頬に押し当てた。 「あ……みなちゃん……ぇっと…………恥ずかしいです」 「うん、でももうちょい」  折れそうなほど細い指は握りしめると折れてしまいそうで、和歌のあの熱い体温を持った手とは正反対だったけれど……沁みるような優しさを持った手だった。  体を起こすことができないオレの手を、和歌が握り締めて声を押し殺す。  時折、抑えきれなかった嗚咽が涙と共に零れ落ちてオレの手の甲を濡らした。 「  あ  」  赤ちゃんは? と問いかける声がかすれて出ない。  かさぶたで覆われたように荒れた唇は動かすことが億劫で、ただぼんやりと和歌がオレの言いたいことを察してくれないだろうかと願っていた。  けれど、オレ自身がそうであったように和歌自身も普通とは言い難い状態で……普段なら喧嘩に巻き込まれでもしたのかと思えたけれど、きっとそうじゃない。 「……若葉……ごめん……」  オレの尋ねたいと思ったことへの返事ではなかったけれど、和歌のその一言がすべての結果を物語る。  わずかに動く指先で腹を弄ると、弛んだ窪みだけが触れてその先にあったはずの愛しい存在は見つからない。  病室を見回しても赤ん坊の姿なんかなくて、ただただ項垂れて肩を震わせる和歌がいるだけで……音が聞こえなさ過ぎて耳が痛くなりそうなほどだった。  問う気力も持たないオレは、ぼんやりと点滴が落ちるのを見ていたけれど、体力が落ちていたせいでそれを見つめ続けることもできずに、すぐに眠ってしまう生活を送って…… 「   研究所に    」 「 大神が 連れて行った」  和歌の声と見知らぬ男の声。  瞼が重くて開けなくて、きっと二人はオレが眠っているんだと思ったんだろう。  潜められた声は寝た人間を起こさないように気をつけられたもので、耳に届く話は断片的だった。

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