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はいずる翼 88
「母は 僕を亡くした娘だと思っているんです」
部屋に行った母親が話す声だけが小さく届く中、ミクはやはり失敗したようなへにゃりとした笑顔を見せる。
「えっと……僕、 母とは血が繋がってなくて 」
続きを言おうとしていたけれど、唇は形を取ろうとして取れないまま曖昧な形のままやはりへにゃりと歪む。
笑顔のようだったけれど、中途半端に見えるそれは感情を隠しきれてはいなかった。
ほんのわずか、カーテンの隙間から中が見えてしまったような罪悪感とミクのことを知れた浮足立つような気持ちに、失敗した笑顔をなんとかしてあげることができたら と思う。
「母が帰るまでいて欲しいなんてワガママ言ってすみませんでした。タクシー呼びますね」
「んー……お腹が和んで眠なったかも」
「え?」
拳になったままの手を取って、ちょいちょいとくすぐるように引っ掻く。
「やから、もうちょっとおってもええかな?」
指先を握り返されて、笑顔が少しマシになったことにほっと安堵した。
別に、和歌のことを探さなかったわけじゃない。
名前を調べもしたし、通っていた大学も調べたけれど、和歌は幽霊だったとでもいうかのようにすべてが存在しなかった。
住んでいた家ですら、すべて偽名で借りたものかそもそも借りられたこともない物件だったりして……
連絡手段もなく、写真もなく、何もない。
小金井に尋ねてみたけれど、雇われただけだと言われてそれ以上は何も情報はでなくて……オレに残されたのは記憶と腹の傷だけで、すべてはオレが勝手に見た夢だったんじゃないかって思うこともあった。
幸い、弱った体と腹に残されたいい加減な縫い目の傷跡が、和歌とのことを現実だったと教えてくれたけれど、それでも年々辿り切れなく和歌の面影に焦燥を感じてはいた。
「 恋愛をしたこと、ある?」
突然尋ねたぶしつけな質問に、小金井は鬱陶しい前髪を少しだけ揺らす。
「うん? まぁ、いい年なんでそれなりに」
そう言いながらも独り身なのだから、小金井の恋愛はすべて終わってしまったんだろう。
ふと、恋愛はどうやって終わらせたのか尋ねたくなったけれど、すだれのような前髪の下から窺うように見つめられて言葉を飲み込んだ。
「 ……」
むしろどうやって恋愛を始めたのかを聞くべきなのか思い直したところで、小金井に尋ねる勇気はなかった。
和歌には出会った瞬間にこの人だって本能の部分で理解ができるものがあったから、それ以外の恋愛の始まり方がわからなかった。
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